冬の水族館





 あれは私がまだ学生で、戦争が始まる前のことでした。
 一度だけ、人魚に会ったことがあります。
 そのことをこれから貴方にお話しようと思うのですよ。貴方は私を疑ってらっしゃるようですから。私は誓って嘘は申しません。もっとも、貴方に信じていただけるかどうかは別ですが……。


 学校からの帰途でした。駅舎から少し歩いた辺りで、何やら呼び込みの男に捉まりました。この頃の私というのは、中学へ上がって何年の若造です。その日私は一人で帰っていました。
 冬の日、でしたね。学帽にインバネスという出で立ちは当時としてはありふれたものです。大層寒い日で、すり合わせる手も凍ってしまいそうでした。往来を歩くにもずいぶんやるせなくて、建物の中に入って暖を取りたい一心でした。

 時に貴方、浅草辺りの見世物小屋をご存じですか?
 ……ああ、やはり今の若い人だと、見世物と言ってもピンと来ないかもしれませんね。奇術や曲芸のような芸をやったり、珍しい生き物やからくり細工を見せたりするのですよ。昔はそういうものがお寺さんやなんかの空き地に、よくよく見られたものです。浅草辺りでは今でもやっているようですから、もしかしたらと思いまして。
 中にはいかがわしい内容のものも多かったとか……。私が見たものも、そういう要素を幾らか含んでいたのかもしれません。
 経験が乏しいなりにはらはらと見ていた記憶がありますから。
 ええ、そういうものに入ったのは、その時が最初でした。
 男は、私を引きとめた男は、見世物の客呼び男だったのです。
 色々とお題目を並べ立てていましたね。けれどあまり記憶に残っていませんが。
 その客呼び男というのはこう、寒いのにせんべえみたいなどてらなんざ着て、見るからに胡散臭い体でした。どうしてこの男の勧誘に乗ってやろうと思ったのか、自分で不思議です。同輩と比べて遊びの経験が少ないことに、妙な引け目を感じていたのでしょうか。
 とにかくですね、私は男に連れられるがまま、見世物の世界へ招待されたのです。人魚に会ったのは、その小屋の中でした。


 人がまばらに入っていましたね。そう多くはありません。ああいうものの興行時は夏ですから。急ごしらえの仮小屋では風が通って寒いです。
 薄暗い、それでいて淫靡な赤色が目立つような光線が焚かれてありました。私は後ろの方に立ちまして、人の間から舞台を見ました。小屋の中は、前の方がこう、台になっているのです。ここを舞台代わりにして、出物をとっかえひっかえ見せるのですね。見物客は立ち見です。小さな小屋です。

 舞台の中央に、一畳分くらいの大きさの水槽が置かれていました。
 この寒いというのに水がたんまり入っております。
 中の生き物が動くたび、水が飛沫となって跳ねるのです。
 水槽の中の生き物、それが彼女でした。人魚、ですよ。

 女です。腰から下が魚で、赤く鱗立っております。うまい喩えではありませんが、ちょうどあれ、金目鯛のようにつやつやと光っているのです。上半身はというと生身の女のものです。それが胸当てなどしておりませんので、私はどうにもばつが悪くて……。先刻いかがわしいと申したのはそれです。私は女慣れせぬ子供でしたから、予期せずストリップ小屋にでも入ってしまった心地がいたしまして、学帽を深く被って表情を伺われないようにと……。

 それでもどうして出てしまわなかったのかと申しますと、恥ずかしながら、私は彼女、人魚につい見とれてしまったのでございます。すっかり魂を奪われてしまったのです。目が離れなくなっておりました。
 まさしく人外の美、でございました。
 その人魚というのはおそろしく美しい顔立ちをしていたのです。とても言葉で申しつくせません。
 人魚はチョーカーから伸びる二本の布を巧みに操り、水の中で優雅に踊っていました。本当に一畳くらいの水槽なのですが、ちっとも狭いと感じませんでした。彼女の長い髪が布と一緒に舞っていました。彼女はこの間、一分も五分も息継ぎをしないままでした。本当に、どれ一つとっても人間離れしていると申せましょう。

 そうしてじっと見つめていますと、ふいに、人魚と目が合いました。いえ、目が合うというより彼女もこちらを見つめているようなのです。
 初めは勘違いかと思いました。たまたまだと思いました。けれど、どうもそうではないのです。人魚が水中で卑猥に蠢きます時、向こうもちらちらと、どうもこちらをうかがっているのです。それがあまりに目立って見えますので、こちらもおかしいぞと疑い始めました。
 そして彼女が私を見とめて、その唇をゆがめた時、その疑問が確信に変わりました。人魚は水槽越しに私を見ていたのです。
 彼女は水中から、「よ・る・に」と。
 読唇で、そう伝えてきたのが読み取れました。
 それは私にとって衝撃的な出来事でした。
 そうです、後の曲芸やなんかが全て吹き飛んでしまうくらいに。


 ……私はその夜、小屋へとひっそり忍び込みました。あんな大胆な真似、後にも先にもあの時くらいのものです。若かったのです。恐れを知らなかった。あれではまるで夜這いです。
 理由? もう一目見たい、と、それだけですよ。子供でしたから。それに、見世物小屋に行くなどと、私は人生で初めての冒険に少しのぼせ上がっていたのです。
 何度か小屋の人間に見つかりそうになりましたが、私はなんとか人魚を見つけることができました。舞台端に置き去りにされた水槽の、その隣で、人魚は私が来るのを予感していたのでしょうか、ぽつねんと、夜半に私を待ちかまえていました。

 人魚には、二本の足がきちんと生えておりました。
 陸に下りた人魚には足があったのですよ。元あった尾っぽは水槽の中に抜け殻のように浮いていました。彼女が踊っていた時は本物に見えたのに、ああして見ると作り物でしかありません。
 小屋の中にも寒風が漏れ入っているというのに、彼女は羽織ものを引っかけた程度でえらく薄着です。履物も履かず、真っ白のふくらはぎが剥き出しでした。
 本当に、あれは人外の美しさです。
 気づけば彼女の白い腕が私の首に回されていました。
 濡れた腕、そしてひどく冷たい腕でした。
 私は間近で彼女の顔を拝みました。
 水がしたたる髪の下、陶器のように白い顔が、彼女の目というのは吸い込まれそうに深い鳶色なのです、そして妖艶な、唇が、少し開いて、鋭い糸切り歯が覗きました、紅が溶け出したのかと思いました。彼女の口から一筋の赤いものが伝いました。
 それは血です。血液です。
 彼女は片方の手で私の口をこじ開けて、もう片方の手で私の髪を後ろに引きました。彼女の方が背が高いので、私はちょうど顔を上げる形になります。抵抗も何もありません。私は彼女のされるがままに、唇を奪われました。全てが急で、ものを考えられませんでした。口の中に痛みが走りました。彼女の糸切り歯が私の舌を傷つけたのです。唾液に混じって鉄の味がしました。けれどそれが私のものか彼女のものか区別できません。彼女もまた、自分の舌を傷つけていたのですから。


 ……そう顔をしかめないでください。本当に、それ以上は何もなかったのです。正気に戻った私は、彼女を振り切って小屋を飛び出したのです。それっきりです。
 それっきり、人魚に会うこともありませんでした。
 ――つい、最近までは。
 そうです。私は最近になって人魚と再会することができました。
 そのお話をする前に、そうですね、その後の私の半生など、簡単に聞いてくださいますか。


 それから数年が立ち、私は大学在学中に徴兵で戦地へ駆り出されました。あまりこの頃の思い出はありません。私は戦地では早々に爆弾にやられましてね、終戦までの長い間、病院で生きるか死ぬかの境をさまようことになりました。私なんぞはこれこのように生きて帰ることができましたが、家族も友人も、私の身の回りの人も沢山亡くなりましたから、感謝しなければいけません。復員して内地で友人と再会を喜び合った時、ようやっと生きて帰ってきたという実感がわきました。
 そして今の今まで、私はどうにか毎日を送ることができました。
 あれからもう何年になりましょう。
 私は彼女と再会いたしました。
 人生いつどんな所で人と出会うかわからないものです。
 水族館です。
 やはりあれも冬のことでした。昨年の。
 冬の、それも平日の水族館というものは、一度行って御覧なさい。本当に、貸切かと疑うほどに人がいないのです。とても静かで、私一人が海底を歩いているかのような心地になります。暗く冷えた廊下から、切り取られた海の一部を覗き見て歩くのです。ガラスの向こうは明るいですから、暗い海底から、太陽の差す遥かまばゆい水面を見上げるのです。

 そうしていると、ふと、子供たちの歓声が聞こえました。大水槽の方です。どうやら季節外れの遠足に来た園児たちが、水中ショーか何かを見てはしゃいでいるようなのですね。声は大水槽を挟んで、向こう側から響いてきます。私も彼らと反対側から見物することにいたしました。

 そこで彼女の姿を見つけたのです。

 彼女は大水槽に、魚と共に泳ぎまわっておりました。
 昔日に見た、人魚の姿で。
 我が目を疑いました。似た誰かだと思いました。けれど、不思議な確信がありました。あれは昔、見世物小屋で出会った人魚です。
 私は心のどこかでその物語が起こることを知っていたのでしょうか。自分でも驚くほどにすんなりと目の前の光景を受け入れられました。

 彼女が水中で回ってみせるたび、子供たちの声が上がりましたが、それすらどこか置き去りにされたように遠くなっていきました。

 向こう側、対岸の私が目に入ると、彼女は一瞬、動きを止めました。
 私は帽子をとって、彼女に向き直りました。
 なにせ数十年ぶりの挨拶でしたから。
 水中で、彼女が微笑んだのが分かりました。私の目にはその唇の間の糸切り歯すら見えたような気がしました。
 彼女は意外にも、子供たちに向けていた体を引き返したのです。そのままこちらへゆったりと泳いで参りました。その様は本物の魚のようでしたよ。水槽の中、人魚の彼女は私の前で止まりました。
 近くで見る彼女は、格好が多少大人しくなったくらいでしょうか、昔の姿と何ら変わりありません。彼女は明るい水槽で、髪を水にゆらゆら漂わせております。なんだか夢の中にいるようでした。

 彼女が手をこちらへと差し向けました。私もそれにならいます。彼女の右手に左手を。右手には彼女の左手を。もちろん、水槽の厚いガラスに阻まれ、実際に触れることはかないません。けれどもそれで十分でした。彼女もそれを分かっているようでした。
 そして私は――私たちは、ガラス越しに口づけを交わしたのです。


 ……嘘だ、とおっしゃりたいのでしょう。
 ここまでお話を聞いてくださったのも、この夢物語がどういうオチで終わるのか見てやろうという心積もりなのでしょう。
 ですが私は最初に申しましたとおり、誓って嘘は話しません。


 人魚の血は、確実に私の骨肉に染み渡っていたのですよ。
 見世物小屋での夜、あの口付けによって。
 復員してから会うたび、友人達にお前は変わらないと言ってからかわれました。でもね、童顔だと揶揄されるうちはまだよかったのです。まだ救われました。
 けれどもそれから五年たち、十年が経過しても、私はまるで変わらないままでした。若いままで、声は変声期を終えたばかりのようで、髭も生えない女のような顔。
 私の肉体の成長は、十六のまま時を止めてしまったのです。
 せめてもうあと十、年をくっていれば、多少はごまかしがきいたのかもしれません。しかし学校へ通う年頃の若者が一向にその姿のままというのは目立ちます。変に思われます。
 私はあちこち転々としなければなりませんでした。あやしまれないように。一つ所には長く留まっていられません。
 この町に来たのも、そういう理由ですよ。
 学校ならば当の昔に卒業しています。
 本当の、話です。


――それでも、貴方は作り話だとお思いでしょうね」


 そう言って和装の少年は静かに微笑んだ。すると、話の区切りを見計らったかのように、彼の姉か、あるいは母親ほどの妙齢の婦人が、奥から茶を運んで現れた。婦人は膝を折り、しとやかな手つきで客人の前に湯飲みを置く。そして少年の前にも。ありがとう、と受け取る少年に女は笑顔で応える。その口元、尖った犬歯が垣間見えた。




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