生徒は彼女一人。あなたはいないはずの生徒を指名する。尾崎というここにはいない生徒に教科書を読むよう指示を出す。応える生徒はいない。 外は快晴。日は校舎の真上。時計の針は三本、十二を刺したまま一本たりとも動こうとしない。教室には二十席ほどの机が並んでいる。年季の入った木製の机。角のすれたそろいの椅子。でも本当は彼女の机一つしかないことに、あなたは知らぬふりをしている。 女の子の隣には緑沢地先輩、反対の隣には別の子が机をくっつけている。女の子は自分以外に生徒はいないはずだ、と思うが、もしかすると教室にはもっと他に先客がいるのかもしれない、と思い直す。 「尾崎」 あなたはいないはずの生徒を指名する。応える生徒はいない。時計がごんがらごんがらと不規則な音を立てる、それだけだ。 女の子は私は転校生なのだから教室に馴染めていないのがいけないと自らに設定を課す。だから女の子は廊下の外からひそひそ話が聞こえてきても聞かなかったことにする。(なにあの子)(聞いた話によると先生とも)(あの子ひとりしかいないのに)(おかしい……異常……) 時計が尾崎という名で、今まさに朗読を行っている音が聞こえているのではないか、と女の子は柱時計を見る。もちろん針は十二のまま動いていない。 ただ一人の生徒である女の子は星の恋人の女の子に似ているとあなたは思う。けれどあなたの記憶の中に該当する名前はない。 教室には誰かが割ったバニラミントの香水の匂いがいくら洗っても落ちないままだ。 「大人になれよ」 と笑うルービックキューブの男の子。 「それって宇宙人と同じで、」 と別の子が本を片手に言う。女の子の隣、忘れ物をしたときのように本を広げて見せてくれる。宇宙人が人間に大人なれよと言ったことは本に書いてある。 「電話帳の朗読しかなかった」 ルービックキューブの男の子は白いカッターシャツを着ている。あなたはそのゲームが永久に終わらないことを望んでいるのかもしれない。 「なんでもできるからなにもやらない」 緑沢地先輩がそう言った。 「だから次にスープを作るのがうまくなった」 別の子と男の子と女の子が子供の姿で砂場遊びをしている場面が思い起こされる。あなたは正確にはその場面を見たことがない。けれどあなたは一人しかいない生徒の妹が、よく盗みを働いていたことを知っている。それはまだ女の子が大きな家で両親と暮らしていたころのお話だ。女の子の妹は、姉の(つまり、女の子の)せいに見せかける。ヒッヒッヒとアルミニウムのような声で鳴き、呪える姉の枕元に盗んだ物を置いておく。あなたはその光景を絵画の中で見たはずだ。女の子はこの教室では転校生でも、外側では二人の幼なじみを持っている。 「少女たち、スープを作る時間だ」 緑沢地先輩が高らかに公言する。女の子はその言葉を夢心地に聞いている。緑沢地先輩はいないはずの手で、そこにいるはずの女の子の頭をがちゃがちゃと撫で回した。彼女は学芸会では眠りネズミの役だった。案の定、髪の束から鍵が転がり落ちる。鍵にはこう書いてある。 「C/Fe、夢を見ているんだね?」 彼女に語りかける声がある。それはあなたにとって生まれたときから知っている人の声だ。 女の子は鍵に書かれたタグを摘み、あなたは見ているのは記憶だと言おうとしてそれを止め、わたしは沈黙し、代わりに彼女が答える。 「物語を読んでいるのよ」 「ではC/Fe、こんな一文で締めるのはどうだろう」 知っている人の声は言う。その人は彼女にとってどんな人だったのか、あなたは思い出そうとする。しかし解答は夢の淵に沈んだまま浮かびそうにない。にもかかわらず、その人の答えがきっとあなたを満足させてくれることをわたしは知っている。 彼女は人称の錯綜した物語の中にいる。その物語はいつでも同じ結末で終わらなくてはならない。女の子はいつでも記憶の中にいる。その記憶はあなたのものであってはならない。あなたは夢を見ている。夢ならば覚めなければならない。それではわたしはどうするのだろうかと、置いてけぼりのわたしは肉体に戻ろうとする。 その人の声が言う。 「そこで、目が覚めた。」 |