夜宴の面





 〈慈童〉の面が夜を行く。
 黒々とした前髪から怜悧な目つきをのぞかせた美しい少年の面だ。赤い口元にはうっすらと上品な笑みをたたえている。白妙の小袖に身を包み、当てはないのか時折出店をのぞき見しては興味深そうに近づいて、銭は使わずまた人混みへ。
 あたりはちらほらと祭提灯に火が灯りはじめた。
 赤い紙を張った奥から揺れる炎が見るものを妖しく誘う。

 〈慈童〉の肩を叩くものがあった。
 ふと見れば出店の中から伸びている。腕を辿ると〈狐面〉だ。〈狐面〉は〈慈童〉に見せつけるように、青銅の鏡に手を突っ込んだ。中から蛇口ほどの管を引き出すと先端をガラスの器に近づけた。鏡につながった管は青緑色の液体をどろどろ吐き出し、たちまちに器の淵まで達した。
 と、〈狐面〉は慣れた手つきでスプーン一杯分を水で割り、氷の入った容器に入れて〈慈童〉へ差し出した。
 それを〈慈童〉が反射的に受け取ると、〈狐面〉は店の奥に立てかけた札を指さした。「極楽外天之露・三〇」とある。〈慈童〉が突っ返そうとすると〈狐面〉は両手のひらをひらひらさせて返品を拒絶する。
 それで〈慈童〉は仕方なしに懐から親指の爪ほどの貝殻を四枚差し出した。それを貰う〈狐面〉の、ただでさえ吊り上がった口端がいっそう深くなる。彼は愛想よく首を傾け、また次の鴨へ手を伸ばす。これだから狐は信用ならぬのだ。
 〈慈童〉は押しつけられた器の中身を覗き込む。沼の底をさらったような色合いに反し、朝霞に咲く蓮のような匂いだ。
 極楽の蓮池かと誰に言うでもなく呟いて、彼はまた人波へまぎれる。



 この祭りに名はない。
 それというのも名づけてやる者が誰もないからだ。主催者は居らず、誰もが忘れ去った頃、忘れ去られた場所に、祭りの形で出現する、そういった祭りなのだ。
 出自が不確かなのだから、参加するものたちも同種の存在でなければならない。文献上にのみその名を残すものたち。現代では解読するすべが失われ、あるいは誰にも顧みられることのなくなった、そうしたものたちこそふさわしい。
 そう、今宵ばかりは失われたものが姿を現す。
 せめてもの礼儀にと、面で顔を隠して――。

 彼らは名前しか伝わらなかった物を口に運んでは飲み交わす。彼らは今となっては誰も使う者のないひそめかしい言葉で話す。彼らが好むのは、未だ海に沈んだ密航船が腹に隠したままにした傾国の宝のこと、立てた武功の数々にそぐわず、ただの一度も歌われなかった士の最期。
 彼らはそんな浮世話を酒の肴に一杯やるのだ。後の世に一片も残らないこの寂しさよ、悲しさよ! 虚しさと言うのならば我ら皆同郷よ、と言いながらの涙酒。

「しめつぽいのはごかんべんさ、よ、からすな」

 男たちの間を縫って〈小面〉が、空の杯に酒を注いで回る。あちこちで喉を鳴らす音、掲げた杯が酌み交わされる、歓喜の声「のめのめ」と響くさま、天に轟く高笑いは此れ〈天狗面〉。
 憂いを解くものは酒と女というのは昔からあらぬるところで歌われてきたとおりである。ならば君、杯をあおれ。いわば人の世は夢の内、歓楽が何ぞ愁憂に勝るものか。

「たれか遊びでもせぬか」
「わたくしめが」
 と進み出たるは緋の衣を纏った男。

 しかしこの男には顔がない。あさましくも顔のある場所にはどこまで続くとも知れぬ闇が鎮座するばかり。
 男はこのような場にいてなお、顔を失ったままなのだ。
 きっと顔ばかりが世間に一人歩きしているのか、あるいは、失うべき顔など元から持たぬに違いない。我らよりひどい者がいたものだと野次が飛ぶと、この男はどなたか顔をお貸し願えないかと言う。

 そこでなまめいたる女が一人、自らの面を差し上げる。

「こは」と問い奉るに
「まんぴ、万媚と申す」とのたまえば
「舞たてまつらん」とその人申す。

 恭しい動作で〈万媚〉の面を手に取り、俯いて、暗黒に隠れるばかりの顔にかぶせた。気づけば衣装も〈万媚〉にふさわしい紅葉を散らした衣に変じている。そして次に上げた面には目元口元に妖しいまでの色香を浮かべている。
 今や〈万媚〉となった女が、失われた曲に乗せ、散逸した詞を謡う。一段上がって舞台となったそこで、この女は優美な動きで舞をやろうというのだ。

 所詮は顔無しのやることよと笑っていた連中も、紅葉衣が舞台を舞うと酒を飲む手が止まってしまった。それだけ見事なものだったのだ。
 立てば前後左右上下から見えない力で無限に引かれ、その均衡の上に止まって身を保つ。動けば人間の肉体があるのを忘れさせるほど、一本の線にならんばかりに身体を運ぶ。その遅速強弱の一つ一つであらゆる演技の表現を為している。
 面の奥に渦巻くのは死者の目だ。不完全で過ちの絶たぬ生者のそれと違って死者の目は全てが終わったところにある。全体を俯瞰するのだ。生ある者が全体を見ることは決してない。面という死者の目を借りて透き見するだけで――。

「良し、良し」
「ゆかいゆかい」

 終わる頃には観客たちは、〈万媚〉の女を演じるのが顔のない男だというのを失念していたほどだった。男が面を脱ぐが早いかの大喝采。皆手を打って喜んだ。余興には、と下がろうとする男に対し、もう一幕、と差し出されたるは〈邯鄲男〉。

 それからというもの一つ終われば間髪を入れずに次の面が差し出される。我も我もと押すそれを、この男次々に受け交わし、目にも止まらぬ早着替えは昔取った杵柄か。かわるがわるのまさに百面相とはこの男のこと。顔のないということは、裏を返せば誰にでもなれるということなのだ。

「今宵は、これにて」

 彼がようやく顔のない男に戻ったのは、皆すっかり酒が回って出来上がった頃だった。
 陽気な掛け声と拍子木に、この顔のない役者は素顔をさらし、舞台に深々と平伏した。
 〈翁〉が褒美にと、一等立派な朱塗りの盃になみなみと酒を注いだ。顔のない男は今一度礼をして、被り笠にもなりそうなこの盃を一息に飲み干した。



 ――かくして〈慈童〉が出くわす時にはもう、この顔のない男はすっかり正体を失っていた(言いえて妙な表現ではあるが)。酔っているだけならいいのだが、お前も飲むといいなどと言い酒瓶を勧めてくるのには辟易してしまう。
 言葉も継げず、少年は〈慈童〉の面を取り去った。売り子の林檎飴もかくやといった紅顔の美少年。しとやかな女物の小袖から、少年が出てくるとはちょっと人には思いもつかぬだろう。その少年が言う。

「子供に酒を勧める奴があるか」
「慈童は菊の露で七百年も生き長らえたというが、菊で露といえば昔の詩にあるよう飲酒のことに相違ない。その慈童の面を下げた奴が何を言うのか」

 と、なんとも詭弁らしいことを言って、なおも酒を手放そうとしない。いくらか酔い覚ましにもなるだろう。少年は〈狐面〉から買わされた、氷の解けて薄まったそれと酒とを無理やりに取り替えた。
 男が酔った頭でくつくつと笑う。

「これぞまさしく蜘蛛の糸」



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