月祭りのうそぶき





 涼みを帯びた秋夜の風に乗り、遠く祭りの煙の火が薫る。
 夜店の鉄板がたてる油のはじけた臭い、雑踏による土埃と人間の汗の匂い。月から目をそらす。風上に見える、神社は提灯の火であかあかと燃えている。
 今年も例に漏れず盛況の様子だ。風の香りが「おかえりなさい」と呼びかけるように感じられて《うそぶき》はなんだか照れ臭いような気分になる。
 この夏はよく働いた。《うそぶき》がこの町を歩くのも今年は今日が最後だろう。
 時期が時期だけに宿無しを覚悟していていたが、捨て鉢で連絡したホテルは意外にも良い返事をくれた。これで明日のことを心配せず、心行くまで夜を過ごせそうだ。今宵の祭りを見物したら明日の晩までホテルで体を休めて、ふるさとの川で来年の夏まで鋭気を養うとしよう。

 すぐ横を通り過ぎた親子連れの姿に、彼は自分の姿を確認した。地味な色合いの着流しと下駄、それに祭りの日に『ひょっとこ』をかぶった人物を見て、不審に思う人間はいないだろう。殊この町では猶の事――

 この町では中秋の名月を迎える日、『月見台の丘』に月から神様が降りてくる。人間たちは秋の豊穣を祈って戸口をススキで払い、月を称えるお祭りを行う。それがこの町――月上ゲ町(つきあげちょう)に根付く月見の風習だ。
 神の宿るといわれる丘はこの晩に限り出入が禁止されてしまう。その代わりに神社では縁日に露店を設け、静かな夜に活気を与えている。町の人々の多くはこの祭りを訪れ、月と共にこの日の訪れを祝うのだ。
 しかしながら、この月を祝うのは何も人間だけではない。

 月から降りてこられた神様へ挨拶をするために、多くの『人ならざるもの』が訪れる。彼らは月上ゲ町を通って丘へと向かう。
 そこで、この夜道を歩く人間は、彼らに行き逢ってしまったときのため、必ず『お面』を携帯しなくてはならない。もしも道の先から来るものが人間ではなかったならば、そのときはお面をかぶってやり過ごす。さもなくば――という、町の人間ならば誰もが知っているお話だ。

 初めてこの話を聞いたとき、面白い考え方だ、と《うそぶき》は感心した。
 木の皮や布着れ一枚を顔の前につけただけで、そこに別の存在が出現する。お面をつけた彼らは、もとの人間から一時的に神や精霊に化けてしまうのだ。人間が、人でないものに変身する。お面こそ変身の道具。町にただ一つの『面打ち』が面売りの人手を雇うのはただこの日のためだ。……もっとも、さっき通り過ぎた親子を見る限り、近年では合成樹脂のアニメ・キャラクタのお面でもいいようだが。
 だから今晩は町中どこへ行こうが気にする必要はない。
 しかし《うそぶき》は月美晴ノ丘へなど行くつもりはなかった。
 神社へ行くのも気が引ける。何より煙が立ち込めている場所は好きではない。

 空気の透き通った、雲のない好い夜だ。そして何より非の打ち所なき――丸く満ちた月の素晴らしさよ。くまなき空に理想的な月。こんな夜は外灯など全て打ち壊して、人工の明かりを絶ってしまいたくなる。町外れ、月明かりに傘を差し、悠々と風を感じて歩くのが心地よい。
 それともう一つ――酒があれば。
 《うそぶき》にはそれらの条件を全て満たす当てが一つだけあった。


 その場所は神社やホテルとは反対の方角にある。そこに近づくにつれ街灯は、ぽつぽつと次第に減ってゆき、左は田畑、右は山らしき草木の傾斜、果てかと思しき道の明かりから、脇道へ真っすぐ伸びる石段がある。大人でもそれなりに足を持ち上げなければならない、妙に厳しい石段を月明かりだけ頼りに登る。左右は有象無象の茂みが寄せている。頂上が近づくと辺りを木々に囲まれた中に、いかめしい山門が現れた。闇の奥に中身と思しき建物の影がうかがえる。――寺の名を、金屈寺(きんくつじ)という。
 その金屈寺の境内、畳二十畳ほどのひらけた場所を使って宴会が催されていた。三十人ばかり、灯篭の火と、木に結びつけた電飾のわずかな明かりで酒を酌み交わしている。酔って面をつけているのやらつけていないのやら、方々に『できあがった』御仁たちが月もそぞろにくつろいでいる。

 月見を名目に宴会を開くという話はかねがね聞いていた。酒を扱わない神社では子供らを遊ばせ、その裏、寺の方では大人たちが盃を片手に楽しもうという素敵な計画だ。一夏中彼らの間を飛び回っていた《うそぶき》は、彼らが用意していた中から袋一杯ばかりの酒瓶を失敬し、大胆にも盗んだ酒を手土産に、月見酒の会場を訪れたのだった。
 境内いっぱいに敷かれたレジャーシートの、人の集まる地点を選んで座り、さも「ただいま神社から参りました」という様子で人々に、持参した酒を注いでゆく。すると彼らは疑いもせず「ここまで疲れただろう。よく来たよく来た」と余ったグラスを回してくれる。
 存在感が希薄な《うそぶき》のことだ。気づかれぬよう紛れ込むのは得意中の得意と言える。
 それに酒の回った彼らのことだ。「御郷は江州守山(ごうしゅうもりやま)、蚊どころの」と口を滑らせたとしても、洒落心ある男は風流だと笑い飛ばすに違いない。
 《うそぶき》は面を少しだけ持ち上げて杯を煽った。この顔の下を見せるようなことがあれば彼らは一体どのような反応を見せるのだろう。
 案外この場に集ったものがみな人間ではないというのはどうか。一人が正体を明かしたかと思えば我も我もと面を脱ぎ、その下は鬼もかくやのおそろし顔――なるほど。愉快、ゆかい。

 酔っ払いたちとの杯を交わしつつ、《うそぶき》は一人月を仰ぎ見た。
 高く、他に遮られるもののない夜空には、ひときわ煌々と耀いている。四角い黒の厚紙に丸く穴を切り抜いて、金色の空に宛がう。厚紙はそのまま夜空になり、穴からは『本物の空』の光が差し込む。そんな気さえ起きるほどだ。中秋の名月が投げかける月光はそれほどまでに強烈で鮮明だ。月の神とやらにお目にかかったことは未だないが、おそろしく美人なのだろう。幻想的な想像から急に、下卑たことを考えて目線を下げる。酒の水面ではいつのまにか月がゆらゆらと揺れていた。
 器の淵にちょうど月が収まるようにと工夫してみるが、ビールの銘柄が入ったグラスではどうにも格好がつかない。苦笑して、季節外れの梅の香を喉に流し込んだ。

 ふと一人の女が、月見る《うそぶき》に肩をもたせた。途端に香る濃い酒の臭いに混じり、火照った体の発する濃密な『汗』の匂いが彼の触覚を刺激した。酩酊した女はそれと気づかずぐったりと体重を預けてくる。そんなつもりでここへ参じたわけではない。しかし期待していなかったかと問われれば嘘になる。酒漬けの人間の血は彼の大好物だ。幸い、女の意識は酒の見せる夢と現の間から戻らない。少しくらい、今年最後の美酒を味わってもいいのではないか――考えが頭を巡る。
 人目を気にし、《うそぶき》も酔ったていで彼女の体にしなだれかかる。
 そして和製吸血鬼を気取って、女の首筋にそっと唇を――『ひょっとこ』の口先をあてがった。痛みは感じさせないし、痕だってこの季節長引きはしない。
 なに、『蚊にくわれた』ようなものだ。と嘯いた。


 夜は更けれど祭りの夜はまだ長い。
 宴は続く、月が沈むそのときまで。





・うそぶき
狂言で使用される面の一つ。うそふき、嘯き、空吹きとも。
形状としては限りなく「ひょっとこ」に近い形。
この面を使った狂言で有名なものが「蚊相撲」
「蚊相撲」の演目中、うそぶきの面は人間に化けた蚊の精を演じる。



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