窓には青い青い星。
 あの子はひとりきりでその星、地球のことを見つめていた。
 そして満足のいくまで見つめた後は窓へ向かってうんと手を伸ばし
「やっぱりちきゅうはあおかった」
 と地球の言葉で呟いた。
 宇宙船は既に対象が目視できるところまで近づいていた。彼らが数多の声援に見送られて星を発ったのはいつのことであったのか。乗組員の間に子がなされ、その子が成長して、新たに子をなし、そして死ぬ。その循環が繰り返された。長いフライトの最後に船に乗るのがいったい何世代目の子孫なのか、ということを考える行為には意味がなかった。
 あの子がたったひとり残った最後の乗組員だったからだ。
 そしてあの子は、彼らは、地球という目的地に到達したのだから。
 電波の手が届く距離に生まれたあの子は、地球の知識を詰め込んだ。あの子は誰よりも――おそらくは地球に住まう誰よりも――その星についてあらゆることを知っていた。誰よりも詳しかったから、その星がもう長くないのだということも知っていた。
 あの子に残された道は二つだけ。
 行くか、残るか。
 船にはもう引き返すだけの燃料は残っていない。たとえもし十分な燃料があったとしても、『故郷』に着くまでにあの子のねじは切れていて、空になった宇宙船だけが生まれた星に帰り着くのだろう。
 あの子が呟く。

「かみはいなかった」

 誰に聞かせるわけでもなかった。あの子を止めたかもしれない母親も、勝手にしろと息巻いただろう父親も、あの子のそばには誰もいなかったからだ。そしてあの子は、哀れな子羊たちを見守っていてくれることになっている神の存在を一度たりとも信じたことがなかった。
 まっすぐに地球を見つめる。あの子の心は決まっていた。



 合わせた額から伝わる映像が暗んでいく。
 目を開けたヨウコが見たのは、宇宙人の黒い瞳だった。不意に、自分が終わりなく深い宇宙の淵を覗いてしまったような感じがして、ヨウコは身を半歩後ろに引いた。そして、俯瞰視点になってようやく、拾い集めたトランプがその手から滑り落ち、床の上で好き勝手に広がっていたことに気がついた。宇宙人は飛び散ったトランプを見下ろしていた。
「しゅうまつです」
 宇宙人の抑揚のない話し方のせいで、ヨウコの頭の中にとっさに浮かんだのは『週末』だった。もちろん週末のことではない。ユウマが言っているのは『終末』のことだと理解した。
 理解していながらなお、ヨウコはてんで的外れの答えを返した。
「なんでも知っているのに、このカードのことはわからないのね」
「わたしはきっとだれよりもちきゅうをべんきょうしていてくわしいです。りめんばー・ろけっとしってます。でもりゆうわかりません」
「どうしてこんなものを入れたのか?」
「はい」
「誰にもわからないわよ。そんなこと」
 本人以外はね。ヨウコは自分でも少し意地悪な切り方をした。
 宇宙人は黙って首をかしげた。口をわずかに曲げて否定の意思を表しているのだ、ということはすぐに知れた。

「でもかんがえています。ずっとかんがえています」
「答えは見つかった?」
 宇宙人は首を振り、ただ一言「みけいけんです」と言った。
 まだなかば繋がったままの回線がヨウコの頭に、宇宙人がひとりでトランプ遊びをしている映像を結ばせた。五十四枚のカードを手札に、一ペアずつ引いていく。もしくは裏返ったカードを淡々とめくり続ける。それらが全て想像であることは否定できなかったが。
「そう」
 ヨウコはそっけなく言い放った。

 斜陽が照らす赤らんだ空間に二人の影だけが伸びていた。
 ヨウコの方がユウマよりも頭半分ほど背が高い。だからユウマはヨウコの顔を見つめようと思えば当然、少し上を見上げる形になる。
 宇宙人はひどく小柄でちっぽけな少女の姿でヨウコを見つめる。

 さびしかったのかしら、とヨウコは人並みな考えを抱いた。宇宙人のことだ。
 それこそいつかユウマが話してくれた古い映画のように、古典映像のようにこの宇宙人が、『地球侵略』というしかるべき大義をかざしていたならば、おのれ悪の宇宙人め地球はわれわれ人類のものだ、などという紋切り型の台詞でも吐き捨てたかもしれない。でもこの宇宙人には悪役足るべき重大な要素が欠けていた。その足りない要素のおかげで、ヨウコはどうしてもこの宇宙人を嫌うことができなかった。

(嫌いになれない? それどころか)

 ヨウコはそっと身をかがめて宇宙人の顔を観察した。
 赤みがかった頬は窓から差す夕焼けのせいだ。宇宙人ほど表情から感情を読み取れない人間をヨウコは知らなかった。
 でもかまわない。それならば、読み取れないならばいっそこちらの好きにしてしまおう、と。

「あたしならそのロケットの持ち主の居場所を探せるかもね」
「なんねんもむかしです。しんでます」
「お前ほど知識はないけれど知恵はあるのよ。当時のカプセルロケットの管理会社を見つけて、カードを入れた持ち主を探せばいい。見つけ出したら今度はその人について詳しく知れば、カードを入れた理由もわかるかもしれないわ」
「ひとのきもち、わかりません」
「それはユウマが宇宙人だから。あたしは地球人だもの。人の気持ちも何もわかるのよ。秘密の回路があるからね」
「ひみつの、かいろ」ユウマはおうむ返しに反芻した。「ひみつかいろありますか。べんきょうぶそくです」
「そうよ。地球人にはそういうものがある。だから地球人のあたしがいれば全てうまくいくはずなの」

 そう言いながら、自分でも笑ってしまう。
 柄にもなく子供のようなことばを吐いてしまうのも、ユウマのことを嫌いになれないのも、ヨウコの中でそれらの理由は明白だった。
 ヨウコは相手の唇に自分の唇を重ねた。
 宇宙人は身じろぎ一つしなかった。それがかえって驚いているように思われた。いや、驚いていることにしてしまおう。ユウマの唇はヨウコが思っていたよりずっとあたたかくて、どの女の子のものよりやわらかかった。


「あたし、ユウマのこと好きよ」
「どうしてですか」
「やっぱりまだまだ勉強不足ね」


 二人はワックスのはがれた床に横になった。
 ヨウコが四つん這いでかぶさるようにしても、宇宙人はまるでそうすることが当然のように横たわっていた。
 波打つ長い髪がユウマの頬にかかる。薄い薄い幕となって、世界の色から隔離する。ヨウコは相手の顔がよく見えるように指で髪の束を払いのけてやった。これで舞台には二人しかいない。
「しっていますよ」
 宇宙人は楕円形の目を少し細めた。
「しかしみけいけんです」
 そのことばの生真面目加減にヨウコは耐え切れず、小さく吹き出した。そうしてすぐ快活に宣言した。
「何事も経験!」
 とヨウコは両腕の力をゆるめ、ユウマに身をまかせた。もちろん、手加減を忘れずに。
 宇宙人の身体はまるで自分の身体であるかのように、不思議と隔たりを感じなかった。ヨウコはそれを宇宙人が何のにおいも持たないせいだと思った。においをまとわない、あるいはにおいになじんでしまっていて、そこにあるのが他人の身体なのだという違和感がなかった。

「ねえユウマ。考えたってわからないこと、たくさんあるのよ」
「それ、ひみつかいろですか? ちきゅうじんならわかりますか」
「そうかもね」

 心音がリズムを刻む。正確に三回、間が空いて一回、もう二回、少し途絶えて一回。確かに鳴っている。ユウマも相手の、ヨウコの心音を数えているのだろうか。こうしているとどちらの心臓の音を数えているのか分からなくなる。音が重なって、まるで三次元の肉体が平面に溶けあっているようだ。

 たとえばこのままにどとチャイムがならないとして
 それでもこのこころがなるのなら
 きこえなくなるまで、しゅうまつまでこうしていよう。
 どちらともなく、そう思った。



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