おごれる魚




 さあさ皆様、今宵お目にかけますのは夢とも紛う奇跡の数々。もっと近くへいらっしゃい。あなたがたは運が良い。この私こそは楼上の魔法使い! 私の魔法が必ずやあなたがたの夢を叶えてしんぜましょう。

 興行師は広場の中心を気の良い口上を以て賑わせる。それが己の役目なのだ。彼が語るのは魔法により国王にまで成り上がった乞食者の栄華譚、自分が願った御馳走で腹をはじけさせた間抜けな老婆や、果ては姫君と王子の浪漫溢れる恋物語。馬鹿げた寓話と笑うのは結構だが、この男の喉にはまことに魔力が篭っているのか、誰もが彼の夢物語を信じてしまう。そうこうしている間に昇りかけた今晩の月が町を深い青の底に沈める。青い薄暮が胴乱をたっぷり塗った男の肌を魔性のものへと変じさせる。
 そしてそれを見ている“私”はいつしか“彼”になる。

 さあさ皆様、今度はあなたがたの夢をお聞かせくださいな。ああそこの旦那は皮がなければなんとも寒そうだ。火鼠の皮で作った外套を出してさしあげましょう。おおあなたは戦争で片足を失くしてしまったと。ならば下袴を捲ってご確認せられよ。木でできた義足は肉となっておりますでしょう。

 目の前で起こるまさに魔法としか言いようのない光景に、人々は我も我もと詰めかけた。餌に群がる蟻、という比喩さえ陳腐に感じるほど、集まった人々は口々に願いを叫んだ。そして魔法使いはそれに応じ彼らの望むままを与えた。
 何故そんなことができるのか、偉大なる魔法に対してそんなことを愚直に聞いてはいけない。それはただ奇跡として受け取る以外に何ができよう。魔法の解明などと、無粋なことは許さない。
 満足した人々が帰りはじめ、広場の地面が見え出した頃、群衆の輪に入らず、ひとりだけ遠巻きに眺めている娘が魔法使いの目にとまった。降る雨もないというのにその娘だけ、ビニール傘をさしている。貧相でみすぼらしい身なりをした、見るからに貧乏な暮らしをしているであろう身なりの娘だ。魔法使いは人の頭を越え、娘にはっきりわかるように手を差し伸べた。

 さあさ皆様道をあけて! 我らの小さなお嬢さんがこちらに来られず難儀していて可哀想だ。

 彼の一声で海が割れるように人の間に道ができた。人々の目が娘へ注がれる。そんな不躾な視線にたじろぐことなく、けれども娘はこちらへ来ようとはしない。魔法使いは多少大げさな動作で首を横に振った。

 恥ずかしがり屋のお嬢さん。黙っていてはわかりませんよ。金の椅子をあげよう。お座りお嬢さん。聞かせておくれ、君の願い。さあ君は何を望む。

 しかし娘は、椅子にかけもせず、彼の言葉に対し一向に口を開こうとしない。
 はて何故だ、この娘は、折角願いを叶えてやろうというのに。
 遠慮することはない。さあ言ってごらんさい。

 それでも口を利こうとしない娘に衆人の無言の追及はいっそう激しさを増す。その娘の感情を読み取ることはできない。なぜなら魔法使いは娘の感情など蚤の子ほどの興味も駆り立てられないからだ。大切なのは娘が腹の底で何を願っているのかであり、自分にはその願いを完璧に叶えることができるという強い自負だった。

 ないということはないだろう。
 約束しよう。君は憧れたはずだ。君だけを愛してくれる王子様、赤絨毯に見事なごちそう、もちろん城はどの国よりうんと立派なやつだ。ドレスには輝くように星を散りばめなければ。素晴らしいじゃないか!
 千年かかっても使い切れない財宝を!
 千本の腕で抱えきれない宝石を!
 千人が体験したことのない快楽を!
 千代先の子孫まで続く安泰を!
 
どんなに言っても娘は聞いているのか聞いていないのかわからないといった反応すら寄こさない。なんということだ。語るべき夢の一つも持っていないとは。魔法使いは絶望した。
 娘は右手のビニール傘をくるりと回した。

 そういえば、どうして君は傘なんかさしているのかい。雨なんて降って――

 台詞の途中で、魔法使いは気がついた。
 耳の奥でざわめく波の音がする。足元を見れば、冷たい月とは正反対の、重苦しい鈍重の水が、くるぶしほどの高さまでせり上がって来ている。水面には波紋が、消える間もなく次々と生まれていく。
 雨だ、と答えを下すのに時間はかからなかった。それもこんなに。


「御前様は千年先の世でも然様でございますれば」


 水かさは滾々と増し増し、もう立っていられぬほどになった。
 このような水の中では得意の口上もしてやれぬ。苦しい。息ができない。助けて、助けてください。
 娘はついと哀れむような視線を送ると、終ぞ背中を向けて行ってしまった。水はもうじき男の顔を飲み込まんばかりに息巻いている。
 薄暮と思っていたそれはどうやら空気の青ではなく海の底の青であったらしい。
 既に身動きが取れない。そしてそのままとうとう飲み込まれた。



 ざざあん ざざあん




 診療室の鼻の奥をつつくような薬の臭いに、建物の隙間から潮のにおいが侵入してきている。湿気った寝台といい、あまり快適な寝覚めとは言いがたい。
 海だ。海がすぐそこまで迫ってきているのだ。ここももうじき海になる。そうなればもうここにはいられまい。
(真実、沢山の人間が海になった。海がこんなふうになったのはいつからだったろう。いつしかこの異常は平常になってしまった)

 どうにも圧迫されていると思えば娘が腹の上で眠り込んでいた。それも右腕を押さえ込むような形で身体を預けているので始末が悪かった。そのまま眠らせておこう。無い左腕と太腿の途中でちぎれた両脚とではどうしようもない。
 彼は薄ぼんやりと、夢の残滓で気をまぎらわせる。
 抽象的な夢だった。現実の彼は魔法使いでもなんでもない。ただかつてそう呼ばれたことのあるだけだ。神の手、まるで魔法のようだ、と。

 後悔をするわけではなかった。今更そんなことをしたとして過去を改変することはできないと、それは自分が一番よく分かっていた。しかし間違ったことをしてきたつもりはない。それは身体の自由を失った後でも変わりはしなかった。求められたから応じただけだ。感謝こそすれ恨まれる謂れはない。たとえ救ったのが如何なる命であろうとも――

(それが如何なる結果を生んだとしても?)

 馬鹿馬鹿しい。それは“私”の知ったことではないのだ。
 しかし、この娘を不憫に思わずには居られなかった。

(この娘だけでも――)

 逃がしてやりたい?
 酸の海は容赦などしない。母親に見捨てられた子供らは、かつて母親にした仕打ちをそっくりそのまま受けているだけに過ぎないのだ。全ての物は海から生まれたというのならば、海に帰らなければならないときが来たのだろう。笑うしかない。人々を救おうとしてきたその手は、いくらか延命せしめたところで救えるなどと、

(――なんて、自溺(うぬぼ)れ)



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