そうだ、次に移る前に一つ後日談を記しておこう。 後日談――いや、考えようによってはこれがなによりの『真に恐怖すべき』問題だ。 土日をまたいで月曜日、ぼくはまたしても授業ギリギリの教室入りとなった。ギリギリといっても今回はギリギリアウトの方だ。 席についたときには、出席点呼はもうヤ行の山田くんが呼ばれたところだった。いくら汗水垂らして教室に入ったとしても、この先生の授業は出席に間に合わなかった人間は遅刻と見なされてしまう。ぼくが遅刻か否かは先生の裁量次第だ。 これ以上の遅刻が続くと生徒指導から呼び出しをくらってしまう……。 それに、呼び出しで二度目の反省文をくらうと家に連絡がいってしまう。それだけは避けたい。 ぼくは先生を期待をこめたまなざしで見つめた。 すると先生はぼくの方を見て―― 「ん、転校生か。ヨシダ。……ん、ヨシダー? ヨシダじゃないのか?」 「キッタです。先生」 後ろの方から声が飛んだ。僕の真後ろからだ。 「お、これでキッタって読むのか。名簿に書いとくよ。……このところずっと休んでたんだな。もういいのか?」 「はい、もう大丈夫です。よくなりました」 「そうか。授業の範囲は――」 そこから先はほとんど耳に入らなかった。 振り返ったぼくの後ろの席にはキッタくんが座っていた。 三日前に見たときと同じ姿だ。 厳密に言えばもちろん、あの時のような黒い中国服は着ていない。ぼくと同じ学校の制服を着ている……んだけど、同じ学校の制服なんだけど、あれ? キッタくんはぼくの視線に気づくと、意味ありげに口の端をちょっと上げた。 やわらかそうな薄紅色の唇。前回と前々回とはマスクで隠れていたから、それを見るのはこれが初めてだ。 その唇がぼくに向けて開く。 「僕がいてよかったね」 「え?」 「出席。君もギリギリセーフだぜ」 「あ、いや、うん。え?」 完全に思考が停止している。 気の聞いた返事とか、出席のことまで頭が回らなかった。 そんなことより、今目にしているものがどういう意味を持つのか。ぼくはこれをどう受け止めればいいのか。ええと、ぼくの高校の制服は男子は学ラン女子はセーラーで学年カラー赤だからスカーフとか上履きとかが赤くって、紺セーラーに赤スカーフって個人的にかなり嬉しいっていうかこれ冬服じゃん女子は紺襟白セーラーが夏服で男子は夏はシャツでいいけどもうすぐ衣替えの時期だからぼくも制服出さないといけなくて、だから、つまり―― 「キッタ、さん?」 出遅れた思考が追いつくより先に口が勝手に結論を出していた。 なんだそれは。 言った自分でも信じられない解答だ。夢じゃなかろうか。 だがしかし、目の前の転校生の存在はじわじわと現実をつきつけてくる。 ぼくは自分でも驚くようなか細い声で「もしかして――」 「でも今まで通り『キッタくん』でいいんだよ、Tくん?」 初めて聞く、しかし覚えのあるハスキーボイス。そしてそのなにもかもを見透かした物言いに、ぼくは『それ女装なの?』と言おうとする苦し紛れの口を閉ざされた。 “百七十あるかないかの小柄な方” “男の子にしてはちょっと高めの声なのかもしれない(風邪声でかすれているが)” “服はなんだかぶかぶかして肩のとこなんて落ちてるし (病気だから余計にそう見えるのかもしれない)” “(病人らしく不健康そうな) 色の白い手” 思い返せば伏線はないでもなかった。いや、気づくタイミングはいくつもあったと考えるべきだ。そもそも何度も会っておいて、それなりの時間をかけて話をしたのに。それに僕はそれ以上のことを――その話はやめよう。ともかく、どこかで気づいてもよさそうなものじゃないか。 ぼくはおそるおそる、上から下へと視線を落としていった。 一ヶ月ほど早い冬ものだってこと以外はぼくらの学校の制服だ。――制服の、セーラー服だ。 目の前のキッタくんはぼくの学校の、女子用制服に、身を包んでいた。 いやいや、もっとちゃんと現実を見よう。 『キッタカタリは女の子なのだ』、と。 ――ああ、ぼくはきみの言ったとおり馬鹿だよ、キッタくん。 心中でそう呟くぼくに応えるように、後ろの席の転校生・キッタカタリはいたずらっ子さながらの笑みを見せた。 「キッタカタリ」 了 back |