その後、とりあえずキッタくんをベッドに押し込んだのだけれど、彼は「大丈夫だから」とうわごとのように繰り返すばかりで、家族の連絡先やなんかについてはなにも教えてくれなかった。 ただ薬だけはあったから、それだけでもと思ったが――驚いた。キッタくんのホテルの部屋には食料品らしきものが一切なかった。薬は食後服用のもの。まさかコーヒー豆だけで生きていたのか? 正直ぼくはこの時点で帰りたくなった。しかし健康そのもので早退してきてしまったせいでまっすぐ家には帰れない。それにキッタくんには散々迷惑をかけた手前、無碍にするわけにもいかず、ぼくはコンビニやドラッグストアを走り回る羽目になった。 後のことは語らなくてもいいだろう。 というより、あまり語りたくない。思い出したくない。 病床に臥せたキッタくんとぼくとの間になにがあったのか。それは想像に任せることにしよう。 ただぼくが、あのホテルには近づかないようにしようと心に誓ったことだけ、付け加えておく。 ――さて、このときのぼくはまだ気づいていなかった。 言い訳がましいが、その日のぼくは『吉田=キッタ』という結論と、それを本人から説明してもらうまでわからなかった自分の情けなさにすっかり意気消沈していたのだ。 その後の忙しさも相まって、ぼくは見落としていた。 ぼくが語った『恐怖体験』 この話にはまだ、『真に恐怖すべき点』があることを。 そしてキッタくん自身にまつわる謎もそうだ。 たとえば、キッタくんはなぜ町外れのホテルに住んでいるのか。 家族は一緒にいないのか。 それに彼はぼくを親しげに『Tくん』と呼ぶが、どうしてぼくの名前を――初対面のぼくの呼び名を知っていたのか。 このときのぼくはまだ、なにも知らない。 back |