探偵はここにいないがために 食に興味のない人間には山芋も里芋も長芋も区別がつかぬのが世の常であるが、事が事だけに少年探偵は怒った。立場上ここは怒るところだった。長芋は山芋の一種だから厳密にいえば同じものだし、クリとクヌギだって言ってみれば同じドングリだろ、などというへりくつに流されるわけにはいかない。なぜなら今回は人の命と一生がかかっているのだ。 今回、つまりこの事件――孤島の館に集められた十人が嵐の山荘で不可解な密室で殺される不可能犯罪なダイイングメッセージの裏には時効を迎えた二十年前の雪で閉ざされた妖怪伝説になぞらえた見立て殺人とともに犠牲者たちにはみな共通点として謎の双子の老婆の数え歌によって列車という密室内に隠された殉教者たちの十字架には手品の最中に突然現れた連続首なし死体の謎から導き出される科学捜査の甲斐も空しく血痕から検出された毒物の影で暗躍する吸血鬼の謎に苦しめられる刑事の傍ら名を呼ぶことすら許されない神が支配する集落の怪オランウータンと殺人ゴリラの呪いの前に立ちふさがる鉄壁のアリバイに守られた容疑者たちの時刻表トリッ―― 「収拾がつかないじゃないか!」 少年探偵は思わず資料を放り出した。複雑に絡みに絡み合った人物相関図と家系図と、館と屋敷と室内と客室と客船と各種死体発見現場と村の見取り図と周辺地図と時刻表と度量衡換算表と、その他諸――の紙が机にちらばる。 「どうだい、おれもなかなかに仕事をやりおおせただろう」 と少年のはす向かいでは”血と暴力を好まない”怪人が得意そうにふんぞり返っている。 「こんなにあれば、ひとつくらいは先生のお眼鏡にかなうものもあるってもんじゃないか」のセリフのとおり、束にした資料を十も二十も抱えて探偵事務所に参上したのはこの怪人なのであるが、少年は四分の一も目を通さないうちからうんざりしてしまった。早くも頭が痛い。言いたいことはたくさんあるがとりあえず、 「数打ちゃ当たると思ってやしないかい」と少年探偵。 「だって人殺しなんてどれもそう代わり映えしないだろう」と怪人。 「ミステリファンに殺されかねないことを言うんだから」と少年がとがめれば、 「そんなのはおれの知ったことじゃないね」と怪人がはぐらかす。 彼らはともに探偵のいない探偵事務所に詰める者同士であり、よって事件は起こらず、依頼人も訪れなければ、警察が協力要請に電話を鳴らすこともまたないはずであるが、どういう経緯によるものか、彼らが手に取ってながめているのは何らかの事件の記録である――しかも、膨大で多岐にわたる。 「で、どこからまわるんだ」 怪人がのんきに尋ねると、少年は眉間にしわを寄せた。 「そうは言っても、旅行のパンフレットをながめるのとはわけが違うんだぞ。どうするんだいこんなに。どれかひとつを選ぶにしたって、どこが糸口やら、糸がからまりすぎているよ」 「そいつを考えるのがきみのお役目だろう。集めるのがおれの仕事、収めるのはおまえの仕事だ。おれはちゃんとおれの仕事をやりおおせたぜ。これがクリでクヌギでブナでとより分けるのは、専門家におまかせさせてもらうよ」 それは、まったくそのとおりなのだ。 怪人は怪人。百面相の変装と仮装で世を騒がせてやまない泥棒。だからまぎれもなく悪党で、犯罪者であるには違いないのだが、こと殺人に関しては話が違ってくる。この怪人は血と暴力を好まない犯罪者なのだ。だから殺人事件には詳しくない。興味がない。『どれもそう代わり映えしない』と思っているから個々の区別がつかないし、ましてや先生の好みなんてわかるはずもない。 そういった事情は、少年のほうでも理解できないわけではない。 「……だからといって、僕も専門家ってわけじゃないのだけれど」 それも、まったくそのとおり。 少年は少年探偵であるがゆえ、探偵の片腕として解決せしめてきた事件は山の数。ただしかし、それは探偵あっての話であって、単独で殺人事件の捜査を受け持つことは、実はほとんどない。ましてや推理は探偵の得意分野であって、少年探偵はたぐいまれなる知恵と度胸をもってして、探偵の推理がうまくいくように補佐するのが主な役目である。少年が少年探偵として単身でいどむのは、だれであろう、目の前で自分だけ冷えた麦茶をかたむける、この神変不可思議の怪人を置いて他にない。 だからこそ、悩むのだ。 少年探偵団の団長ではなく、名探偵の愛弟子であり助手としての自分を総動員させる。まだかろうじて少年といえる、少年と青年のあわいに身を置く探偵助手の少年に主導権を握らせる。探偵の――先生のとなりで助手をつとめた自分になりきる。 「先生がお好きなのは、もっとこう、ケレン味に満ちた謎というかだね」 「おっ、じゃあこの妖怪伝説の、とか、嵐の山荘の、なんてのはどうだ」 「そういうのとはまた違うんだ」 少年は迷いながら、しかしよどみなく怪人の提案に答えた。 「犯人の異常性が際立った、といえばいいのかな。人間の異様な情念によって成し遂げられた犯罪には、特別に興味を寄せられていた、と思うよ」 「異様な犯人ねぇ。じゃあこの復讐の手品師だとか謎の老婆だとか」 「怪オランウータン」 「なに?」 「ウン、……」 言葉を濁す。怪オランウータンが一番近い、とは言い直せなかった。 「少し考えることにするよ。たしかにここからは僕のお役目のようだから」 探偵個人に対して異常なまでの情動を燃やす異様な犯人――それはとりもなおさず、目の前にいるこの怪人のことだ。宇宙人やトラやゴリラや怪髑髏。次から次へと姿を変えて謎を生み出す、奇抜にして無二の一個人。目の前にこんなまぶしい適役がいるのでは、密室のひとつやふたつを積み重ねたところで、十把一絡げにかすんでしまう。 だが、それは言わない。言うとつけあがらせそうだからだ。もっと言うと、自分が犯罪を後押しした形になりかねない。正義を遵奉するものとしてそれはいささかどうなのか、と少年探偵であるところの少年は思うのだ。ええい、いまは探偵助手としての自分を前に押し出さねばならないというのに、怪人がすぐ前にいるせいで少年探偵の自分が引っ張られていけない。 「きみは考えぶかい子どもだねえ」 悩む少年をよそに怪人はからから笑って、空っぽのグラスを手にソファから立ち上がった。 「感心、感心。そんならゆっくり考えるがいい。どうせどの事件もまだ起きていないし、これからも起こらないのだ。ここにない、存在しないのだ。探偵がいない事件ってのはどれもこれも、事件にならないようだからねえ」 「そうは言っても人の命がかかるじゃないか」 「そうだとも」 なにをいまさら、と怪人はちょっと軽蔑するように片目を細めた。 「それを好むのがやつの性分じゃないか。おまえだって先生の好みはよくご存じのはずだろう。だからこそ反対しなかったのだ。それがやつにとって有効な手だと知っているのだ」 「そうだね。それは否定しないよ」 少年はことさらに取り乱すこともなく答えた。 「先生は事件がないと生きていかれないお方だからね。この事務所にいないんなら、きっとどこかで事件の捜査に取り組まれているはずさ。たとえこの世から殺人事件というものが消え失せてしまったんだとしてもね」 「別に人を殺そうってんじゃない!」 給湯室から怪人の反論の声とともに、不服そうな顔だけがぬっと少年のほうを向いた。 「いまにも人殺しが起きそうなところに出向いていって、先生がやってくるのを待ち構えようってだけだ。いわば待ち伏せだ。きさまややつは得意とする手だ」 たしかにこの怪人は人殺しが嫌いだ。血が嫌いだ。人殺しを強要する戦争なんてものはこの世からなくしてやろう、支配して一掃してやろう、という気概もある。しかし、だからといって、正義の人であるはずがない。怪人は一貫して悪人だ。世の中で殺人事件が起きたとして、義憤に駆られることもなければ、好奇で解決に挑むこともなく、ましてや未然に防ごうと尽力するはずもない。あくまでも、自らの主義として血を流させないのを自慢にしているだけなのだ。悪人だ。 「人の命がかかっている以上、選ぶのは慎重にしたいだけさ」 だからこそ、少年は徹底して正義の側であらねばならない。 「特にはじめのは慎重に選ばないと。ほら、こっちのなんて犠牲者が十から飛んで関係者がほとんど全滅だ。こうなってくると僕の手に負えないよ。先生の好みを推理するのも大事だけれど、なにか手段を考えないとね」 少年はまだ目を通していなかったほうの資料の束をめくりながら言った。ミッシングリンク――つまり、一見すると別々の事件のようで、実は一連の事件であったということ――として解釈するには、あまりに雑多で収拾がつきそうにない。やはり無理に収拾させようなんて考えず、個々の事件としてあたるのがいいだろうか。孤島や村落といった要素だけを拾えば、どうにか解体はできそうだ。 「なににせよ、人の命はなるべく失われるないほうがいいよ。犠牲者がいないに越したことはないんだから」 たとえこれらの事件がまだ起きていなくて、これから先も起こらないのだとしても、と。 まったくもって善人の吐く台詞ではないな、と少年自身も思ったがそれこそいまさらだ。探偵を見つけるために、一時的にとはいえ悪人と手を組んで……その悪人の手から、コーヒー牛乳のグラスをおとなしく受け取っているのだから、どの口が言えたものでもない。 「どうも。きみだって、望んで殺人現場に立ち会いたいわけじゃないだろう。それなら僕の考えていることもわかるんじゃないのかい」 「フフン、おたがいに仲良くしようじゃないか」 怪人は調子よく口笛を鳴らしてソファに座り、机の端に自分の分のコーヒー牛乳を置いた。それから続けて尊大な口調でくどくどと言う。 「このおれがせっかくちからを貸しているんだから、好意をむだにしちゃいけないぜ。これで先生が見つかったら、おれとも仲もいよいよこれかぎりかもしれないんだからなあ」 「それなら、こういうのはいただけないね」 少年は机にちらばった紙の中から、クリップで留めた薄い束をつまんで引っ張り出した。 「謎の暗号表に、なぜかセットになった部屋の見取り図、……開かずの金庫の設計図。これはどんな事件なんだい。きみ、どさくさにまぎれて自分の出番をまぜこむ気だね」 「ハハハハハ、きみはめざといねぇ」 怪人は大げさに両手を広げた。 「けれどもそいつは勘ぐりというやつだぜ。おれは殺人ってやつには最初から関わらないことに決めているんだ。怪盗の予告状、そこにとつぜん現れる死体、犯行現場は密室、消えた財宝ってな流れで、決まっておれが犯人扱いされるんだから迷惑だよ」 「へえ、いくら血がきらいだからといって、悪いことをするやつのことですから、ね。そう思われても仕方がないんじゃないかしら」 「ほらそれだ。すぐそれだ」 さっきまで笑っていたのが一転、怪人は拳を握って怒りをあらわにした。 「おれはいくら悪いことをしても、人を殺さないのが自慢なんだ。それなのにおれの名前を勝手に使って、おれを殺人犯に仕立てようってのがゆるせない。そんなのは自分の名前でやることだ。まったくいい迷惑だ」 「そう怒らなくても、きみじゃない他のだれかがやったことなら、最後には必ず濡れ衣だったと証明されるさ。先生だって、きみがやってもいない殺人の容疑で裁かれるのは本意じゃないだろうし」 少年は平然とそう言って、コーヒー牛乳をぐびりと飲み、思いついたことをそのまま口にした。 「ウン、そうだね。むしろそれで先生がおびきだせるなら、やってみる価値はあるかもしれないや。容疑者がきみなら心も痛まないし」 「ならおれは役を降ろさせてもらうね」 「オヤ、いまさら降ろすと思うの」 りんご色の頬でにっこりとほほえみました。 「せっかくこの僕がちからを貸してあげているのに、きみのほうでは僕の好意を無駄にするんだね?」 「エエイ、どこまでも憎たらしい小僧だな」 先だっての自分の台詞を逆手に取られたことに気づき、怪人は苛立たしげに頭をかきむしった。 「わかったわかった。おれもスポークマンの役くらいはやってやろう。表向きは探偵のようにふるまってやろう。ただし、おれに殺人の容疑がかかるようなのはなしだ。おれはそれだけは我慢ならないんだ」 「しかたがないね。わかったよ」 「それに、おれに推理なんてものをさせてはいけないぜ。おれは収める役じゃない。集めたものをどこまでも広げるのがこのおれだ。そこんところの線引きは大事だからねえ」 「それについては最初から承知の上さ」 「先生がもしも見つからなくて、」 と怪人はそこで言葉を切った。普段は探偵の変装をしている――しかしいまは顔のない顔の、顔のない目が二度瞬きし、確かめるように少年を見る。 「どうしても探偵が必要ってなったそのときには、だ」 「うん」 「きみが探偵をやるんだろうな?」 「もちろんやってやるとも」 少年ははっきりと答えた。怪人がここでそのように尋ねるであろうことを、少年は心のどこかで予想していた。そしてもしも予想のとおりに尋ねられたら、こう答えるのだということも、事前に決めていた。 「僕はこれでも、先生の一番弟子なのだからね」 「そう」 返事をする怪人の表情は素っ気なく、しかし次の瞬間にはもうにこにことした探偵の顔で「じゃあ、ぼくは一番弟子にまかせて少し休むとするかな」と立ち上がっていた。 「さしものぼくもくたびれたからね。ひと眠りするとするよ」 「ええ、せんせ、ぜひそうしてください。あとは僕がやっておきますから」 少年が冗談めかして言うと、怪人はちょっと満足そうに目を細めて、くたびれていたのは本当なのだろう、大きくあくびをして事務所をあとにした。 運命よ見逃せ。然る後にほろぼせ。 さて、と少年は肩を回して紙束の山と向き合った。 怪人の言に照らせばこれらはまだ起きていないし、これからも起こらない事件の山。だから起こす。存在しない本があるとして、本を無理矢理にでも開かせることにより、『開かれた本』を存在させる。本そのものの実存を認めさせるのだ。だから、と少年は思う。これからやろうとしていることは、おそらく道義的正義に背く行いだ。だが怪人と手を組んだ時点で少年探偵としての道義からは外れている。そしてその事実に、冒険の予感に、自分が静かに昂揚しているのも事実だった。 頬の熱を、グラスに吸い取らせた冷たい手のひらで包み、向き直る。 ――さて、ここからは僕の仕事だ。どう収拾をつけたものか、難しいな。 |