天国へようこそ 不意に鼻先をチョコレートの匂いがくすぐったので、少年は薄く目を開けました。ところがそこにチョコレートなんてありません。代わりにチョコレートの黒よりももっと濃い、真っ黒の服を着たご婦人が、目を閉じる前とそっくり同じに、今しも少年の目元へ触れようと手を差し伸べたところでした。 「オヤ、どうしたの」 少年が目を開けたのに気づくと、婦人は手を引っ込めて尋ねました。 その手には小さな刷毛がつままれています。反対側の手には手のひらに収まるくらいの茶色いパレットが広げられていて、どうやら甘い匂いはこのパレットからしているようです。 「なんだか甘い匂いがするものだから」 少年が落ち着きなさそうに言うと、婦人はにっこりと微笑んで「気になるのかい」と快くパレットを見せてくれました。そこには横長の四角を四つに区切って、茶色っぽいのから黒っぽいのまで、微妙に色の異なる茶色がそれぞれ収まっていて、婦人の手の動きにあわせて表面に光の粒がきらきらと輝いています。小さなチョコレートが詰まっているようで、なんとも愛らしい品でした。 「普段は子供扱いはよしてほしいような顔をして、甘いものが気になるだなんて、存外に坊やらしいところもあるじゃないの。悪いねぇ、本物のチョコレートじゃなくて」 婦人が忍び笑いを漏らすので、少年はむっとして言い返しました。 「そんなんじゃないよ。また悪戯をされるのじゃないかと思っただけさ」 「ご心配しなくったって、誰もチョコレートを塗ってやったりしないよ。いまはこういうのがあるのさ。化粧の粉自体に香料が練り込んであってね。面白いでしょう。そっちのリップバアムは味もついてる代物だ。後で試してごらん。気に入ったら差し上げましょうか」 と笑みの形にゆがむ唇は、不思議な黒に塗られています。一見すると黒一色のようですが、光の加減でときおり深い緑にも、紫にも見えるのです。色の白い肌のうえで唇だけがまるで別の生き物のように、婦人の言葉に合わせて動くのです。そのさまはさながら小さな蜥蜴が身体をくねらせるようで、得も言われぬ妖しさをこの黒天使の唇に宿らせていました。まさに変幻自在の黒色です。 と、その唇が引き延ばされ、合間から白い歯がのぞきました。 「それともなんだい、悪戯のほうがよかったの」 からかうように婦人が言いますので、少年はぶんぶんと首を振りました。この婦人というのは、うっかり顔を合わせようものならつい見とれてしまう美しさの持ち主なのです。 さて、読者の方々には、この黒い貴婦人はいったい何者なのかと訝る声もあるでしょう。ここはご存じのとおり、かつては日本中に名を馳せたとかいう探偵の、その事務所の一室であります。いまは名もない探偵の事務所でありますが、ここには主の帰りを待つけなげな少年助手と、その宿敵であるはずの怪人とが、やむにやまれぬ事情からふたりぽっちで詰めていたはずではありませんか。ところがいまは少女らしい少年と、黒衣に身を包んだ謎の美女とが顔を突き合わせて、なにやら秘密めいたやりとりを交わしています。少女に見まごう少年のほうは少年助手に相違ありません。このかわいらしい少年は、美少女に変装するのが得意なのです。ではその真向かいで化粧道具を握る女のほうは何者なのでしょうか。 ここは記憶でできた町。皆さまの記憶に間違いがなければ、少年と怪人のふたりは探偵事務所を切り盛りするふりをして、いなくなった探偵を探していたのではなかったでしょうか。ではこの婦人は誰なのか。まず考えられるのは、依頼人という線です。探偵事務所には探偵(怪人が化けた偽者の探偵ではありますが)と、その助手がいるのはもちろんのこと、事件の依頼に来るお客さんがいなくてはお話が始まりません。するとこの見慣れぬ婦人は、探偵事務所へ相談に訪れた依頼人なのでしょうか。 でもそれにしては、なんだか様子が変なのです。と申しますのも、彼らが先ほどから互いの息のかかるような距離で向かい合って、何をしているのかと申しますと、お化粧です。婦人のほうが少年の顔に、化粧道具でおめかしをさせてあげているのです。そういえば今日は少年探偵の格好もやけにめかしこんでいます。いつもは活動的な半ズボンや学生制服を着込んでいるのに、今日は裾の広がったキュロットスカートを穿いて、少女とも少年とも見分けのつきがたいあわいに身を置いています。 「そら、ひとつ嗅いでごらん」 と対する婦人は、少年とは親子ほども年が離れているように見えますが、まさか少年の母親ではありますまい。少年の鼻先に粉末のパレットを近づけると、婦人はにこにことして言いました。 「良い匂いがするでしょう。本当はコロンを使おうかと思って探したのだけどね。坊やのようにかわいい子には、変に甘い香水を吹いちまうよりも、こういうさりげないほうが合うのじゃないかしらと思い直したのさ。こいつはそんなに匂いが強くないでしょう。向かい合って話す距離になって、ようやくわかるくらいじゃなくって? だからね、遠巻きにかわいらしい子だと思って眺めていたのが、いざ話をする段になって甘いチョコレートの香りがわかるって算段なのさ。なんともおいしそうだこと。五感が刺激されるじゃないか。ねえ?」 覗き込む視線とまともに目が合って、少年はぐっと息を詰めました。この黒婦人というのは先ほども申しましたとおり、はっとする顔立ちの、一度見たら忘れられぬ美貌の持ち主なのです。少年は居心地が悪そうに言いました。 「なんでもいいよ。早くやっておくれよ」 「オヤ、きみが色々教えてほしいと言ったんじゃないの」 「化粧の技術を教えてほしいと言ったんだよ。変な寄り道はいらないよ」 「だから教えてあげてるんでしょう。きみの変装術ってのは、誰か他人そっくりに化けるんじゃなく、女の子の格好で相手を油断させる潜入術でしょう。香りは大事よ。いくらかわいい女中さんに化けていても、召使いの身でコロンなんて吹かせていたら、相手は変だと思って警戒するわ。そうでしょう、探偵さん? それを寄り道呼ばわりだなんて、心外ったらないわ」 大人びた女の声でいて、まるで拗ねた子供のような言い分です。いったいただの依頼人が、探偵助手にこんな親しい口利きをするものでしょうか。 「さ、もう一度目を閉じて。目頭のほうから塗ってやるからね」 婦人は少年にそう促すと、自分はゆったりとした服の裾を払って座りなおしました。この婦人というのは、手首から先と頭部の他は少しの肌の露出もなく、真っ黒い支那服に身を包んでいるのです。真っ黒な婦人なのです。そして婦人が広い袖口をばさりとやりますと、先のチョコレートの匂いよりも濃く、気品のあるパルファムが香るのです。 花の香り、でしょうか。なんの花なのかはわかりません。 少年は言われるままに目を閉じましたが、どうにも落ち着きません。目を閉じたことでより匂いの気配が強く感じられてしまうのです。 「アラ、アンタ緊張してるの」 婦人は少年の身体が強ばっているのをめざとく見つけ、からかうように言いました。 「ほら、力をぬいて、リラックスして。なにも取って食おうってんじゃないんだから、そう力が入ってちゃうまく塗れませんよ。坊や、ほら、姉様がかわいらしくしてあげますからねぇ」 と左の肩をぽんぽんと叩かれます。少年は普段のように何事か言い返そうとしましたが、くすくすと笑う声がどうにもくすぐったくてたまらず、むっすりと口を引き結んでしまうのでした。 ――というところで、賢明な読者諸君であれば、最前からお気づきのことでありましょう。 いまこの場にいるのは、少年と婦人のふたりだけ。本来ならこの事務所にいたのは少年と怪人のはずなのですが、ここでちょっと思い出してみてください。この怪人とは何者であったでしょう。探偵に化けて探偵事務所に居座るこの怪人は、元はといえば変装の達人だったではありませんか。 怪人の変装は誰にも見破れません。どんなに明るい場所で、どんなに近寄って、化粧をする顔と顔の距離でながめてみても、少しも変装とはわかりません。誰にも正体がわからないのです。どころか怪人自身ですら、自分の顔も姿も忘れてしまったというのです。 であれば先程までの少年と婦人の不自然なやりとりにも理由がつきましょう。 この黒衣のご婦人は、怪人が化けた姿だったのです。 婦人に化けた怪人が、少年に化粧を施していたのです。 実にうまく化けたものではありませんか。たしかにいまの彼はすらりとして背は高いとはいえ、黒い支那服に身を包んだ、妙に威容のあるうつくしい婦人の姿をしています。これで煙管でも持たせれば暗黒街の女王と呼んで差し支えありません。これでは誰も彼のことを女性だと信じて疑わないでしょう。 「アラッ、あたしの正体が男だなんてどこの誰が言ったの。性別なんてあれは仮初めのものでしょう。つまらないことをお言いでないよ。少年探偵が少女であったっていいんなら、正体不明の怪賊の素顔が女であってもいいじゃありませんか」 そうは言ってもこの顔は素顔じゃありません。 声も体型も変えていますが、あくまでこれは怪人の持つ顔のひとつ。このところはずっと名探偵のふりを続けていますが、本来この怪人には無数の顔があるのです。 「おやおや、ただの変装だと思ってもらっちゃ困るねぇ。今回はあくまで下地は先生のまま、その上からお化粧を施しているのだよ。おれがやるならもっとうまく仮面をつけかえるとも。先生が変装をしたらどうなるかを再現しているのだ」 まったく賊というものは、嫌がらせにしたって器用なことをするものです。 それに、なんともややこしいものです。男性であるところの探偵が女装をしたていで、男物の衣服に身を包んでいるのです。だから容姿体型こそ女性のものでありながら、格好は男ものの支那服――いわゆる長袍です。それはかつて探偵が大陸のほうへ逗留した際に手に入れたものでありましたが、それは誰も知らぬこと。洋服箪笥の奥にしまってあったのをわざわざ引っ張り出してくるとは、いったいどういう風の吹き回しでしょう。この貴婦人には同じ黒ならイブニングドレスでも着せるのが似合いでしょうに。 「いやいや、なぁに! きみが惚れちまわないような配慮だよ。太股のこぉんなところまでスリットの入ったドレスもあるが、慣れぬ色香は目に毒だからね。あんまり見とれて、うっかり『少年探偵の初恋』ってな章題がついちまったら気の毒じゃないか」 「なんだいそれ。余計なお世話だよ」 「ホホホホホ、あたしのことはお姉様と呼んでくれてもいいんだぜ」 と軽口を叩く口元にもすらりと手の甲を添え、黒い唇を艶めかしくゆがめます。 少年がさっきから何度も気まずい思いをしているのは、相手がいつもの賊とはわかっていても、声から姿形までまったくの別人だからです。探偵の顔をした怪人の変装に慣らされすぎていたのです。 そもそもなぜこの少年探偵は、怪人に大人しくお化粧なんてされているのでしょう。 理由はとても単純です。先日、少年が怪人にチョコレートを振る舞うことになった一件を覚えていますでしょうか。少年がチョコレート作りに熱中するあまり、机にあふれかえるほども作りすぎてしまった一件です。チョコレートはふたりがかりでやっと完食したのですが、もう当分甘味は不要だというのは両者とも意見の合致するところ。そのうえで怪人が「ごちそうされた礼に何かしてやろうか」と言うので、少年は何とはなしに「今度お化粧でも教えてもらおうかしら」と答えたのです。 少年もまた少年探偵として変装術のなんたるかは心得ています。化粧もその一つです。かつての日々のことは忘れても、手が道具の使い方を覚えていました。一度身体に覚えさせた技術というのはそう簡単に失われないのです。 ただ、そう思って自分で自分にお化粧を施してみても、なにか違う気がします。 怪人が先ほどもっともらしく評価してみせたとおり、少年が覚えているのは潜入捜査における変装技術。これはいかに違和感なくその場に溶け込むか、あるいは少年探偵と見抜かれずに潜入するかという変装ですから、着飾るのが目的ではありません。それにこの少年は元々の顔立ちがかわいらしいので、お手伝いや少女に化けるにも、わざとらしく化粧をしてみせる必要はなかったのです。また、毎日の鏡に映る顔が一定しないのが目下の少年の悩みでありましたから、違和感の原因はそれかもしれません。自分がどんな顔なのかわからなければ、自分に似合う化粧というのがどんなものなのかもわからないのです。 その点、この百面相の怪人は、姿を変えることに関しては文句なしの腕前です。もしもこのプロフェッショナルの技前を伝授してもらうことができれば、どんなに頼もしいことでしょう。 しかしそこは商売上の機密もあるというもの。簡単には教えてくれぬだろうと、少年でもその場では軽く流していたのですが、相手のほうではこのときの話を律儀に覚えていたようです。やりとりから数日後の今日、黒衣の婦人のいでたちで待ち構えていたかと思うと、少年に断りもなく「休業中」の札を表に出し、お化粧教室を始めてしまったのです。 怪人が言うには近々――と申しましても、いつのことかは定かでありません。ここはとっくに時間軸が馬鹿になっているので、近々というのが今日のことやら来年のことやら。近々来る過去のことやもしれませんが、ともかくその近々――お祭りがあるというのです。 「ご想像のとおり、なにを祭るのかはだれも覚えちゃいないのだけど。でも祭りは祭りだ。せっかく賑やかな場所へ出るんだもの。そんなら愛らしいお付きをつけたいじゃないか」 と怪人は少年の頬をつっついて言いました。 それで自分はどうして黒衣の貴婦人の姿を取るのかといいますと、 「探偵なんざのしょぼくれた背広姿で祭りを歩いたら恥をかくよ」 とそんな理由で、言い分には引っかかるところがありますが、少年にその技前を見せてくれることになったのです。 とはいえ、この賊は一世一代の大盗賊。懇切丁寧に教えてやるつもりは毛頭なく、生きた人間で人形遊びをしているような、技を披露してやるから盗んでごらんと言わんばかりに気ままな手つきです。 少年探偵のほうでも、まさか相手に手のひらを明かしてもらうような期待はしていません。だからせめて従順に、どんな順でなにをされているのかを無心に追います。上を向けと言われれば向きます。目を閉じろと言われれば、よしと言われるまで閉じたまま開きません。言われるがままです。言いなりです。自分が頼んだことなのですから文句のひとつも出ようがありません。ただ、自らはされるがままに、怪人が操る筆や指の感覚だけを追っていると、自分が本当のお人形になってしまったような心地になりました。 ただこうして目を閉じているとやはり、ときおり鼻をつく香水の匂いに意識を奪われそうになります。これはいったい何という香りなのでしょう。まるで夜道を歩いているときに不意に香る濃厚な花の、しかし姿は見えない、夜の香りです。 それに、「きみはまつげが長いねぇ」だとか「柔な肌だね、りんごというよりは白桃のほうが合ってるよ」だとか、耳慣れない婦人の声が褒めそやしてくるのも落ち着きません。その声に滅多なことを言われると、照れる――というのとはまた違う気がします。果たしてまな板の上に載せられた鯉が、包丁を持った板前に「鱗が良い」「活きの良い魚は目が違う」などと称賛されて喜ぶものでしょうか。少年が感じている据わりの悪さというのはそれです。自分が品定めをされているような、そんな感覚が落ち着かなくさせるのです。 でもまあそれももう少しの辛抱です。あとは口紅を塗るだけのはずですから。 というところで、なかなか次の手が伸びてきません。 少年は不思議に思って視線を上げました。 「手が止まってるようだけど」 やはり達人といえども仕上げの色には迷うところがあるのでしょうか。少年はそんな軽い気持ちで尋ねたのですが、対する相手のほうは妙に神妙な面持ちです。黒真珠のような瞳に見つめかえされ、少年はどことない不安を覚えました。 「どうしたんだい? ここまできて考えごとがあるもんかな」 「いや、少しね」 「少しってのは、なにが」 「人間を剥製にって感性はわからんが、うつくしいものをうつくしいかたちのまま、永遠に残しておきたいってのは、存外、わからんでもないね」 と表情の読めぬまま、なんだか脈絡もなく物騒なことを言います。 少年が眉をひそめると、相手は一転してにっこりと笑い、 「そういう趣味の賊がいたのよ、むかしね」 と蜥蜴のように黒く艶のある唇で言いました。 「人間の美しい姿を永久に保存する方法を思いついて、それを実行に移してみたの。あなた、それがどんなものか想像がついて? ウフフ、それはね、生皮を剥ぐのよ。皮を剥いで剥製を作るの。人間の剥製よ。特殊な薬を使ってね、きれいに皮膚と毛髪だけを剥がして、人間の形につくった蝋のかたまりにぴったりと、シワひとつなく貼り付けるの。肉は駄目よ。腐るもの。肉は残しておけないの。骨のほうは残るけれど、ちょっとばかし頭頂骨の形が良いわ、美しいわなんて褒めそやしてみたって、大抵の人間は大差ないじゃない。それは美しさではないわ。人間の魂は外側の、姿形にこそ宿るのよ。だから皮膚だけを丁寧に人間の形にしてやれば、生きていれば失われたはずの美しさを、一番良いところで止めておけるの。永遠にそのままに保管しておけるの。すばらしくはなくって?」 まるで抱きすくめるかのような自然さで、婦人の手が少年の両肩を押さえました。甘く濃い花のパルファムがより香ります。真っ黒な目はうっとりとして少年を見下ろしていました。 「かわいい坊や。一度あたしの博物館に遊びにいらっしゃいな。特別にガラスを開けて見せてあげてもよくってよ。そうすればきっとあたしの言っている意味がわかるわ。近くに寄ってみればきっと。坊やが人形になったら、どんなにかわいいだろうね」 「それは、」 少年は言葉を詰まらせました。いつだったか賊自身が言っていたではありませんか。この賊には顔も名前もないのです。顔がないから何者にだってなれるのです。何者にだってなれるから、ここにいるのは誰でもないのです。ならばとばかりに少年探偵は言いました。 「遠慮します。そいつは、だってずいぶんと退屈じゃありませんか」 ひとたび言葉を発してしまえば簡単です。あとは言うに任せるままです。 「物を言わぬなら人形で十分です。命を奪う必要なんて少しも感じません。エジプトのミイラを見たことがありますか。僕はあります。ミイラの布の下は、水分がなくなってカラカラに枯れてるんですよ。人間の皮膚は永遠なんかじゃありません。カラカラになった皮膚は色も黒く、茶色くなって、骨にこびりつくようにしているのです。だから、剥製人形でしたか、そんなのは無駄です。たとえ皮だけ剥がして別なものに貼り付けたって、そんなものに永遠は宿りやしません。人間の魂ってのはもっと別なものです。ほんの刹那にしか留め置けないものです」 言いながら、少年の脳裏をかすめるものがありました。それはいつか、いつかの少年探偵が関わった事件の記憶であったのかもしれません。どんなものだったのかははっきりとしませんが、少なくとも、 「――少なくとも、僕はそんなものにはちっとも魅力を感じませんね」 と、はっきりと言い切ることができました。 「僕の先生もきっと同じように言いますよ。生きた人間を相手に、命のなくなった人形がかなうはずありません。剥製にするために命を取るってんなら、ミイラのほうがずっと綺麗でロマンがあるじゃないですか。僕はそっちのほうが好きです。ミイラがあるなら僕、お呼ばれしてもいいですよ」 豪胆にもそんなことまで言ってのけ、少年はにっこりとほほえみました。この少年探偵もまた、根っこのところで置かれている立場は怪人とそう大差はないのです。顔と名前のないもの。時間の止まったもの。誰でもなく、誰であってもいいからこそ、鏡に映る顔は毎日だって違った顔で、ここでこうしているのです。 「エジプトのミイラってのは、」 と怪人はぽつりとそう呟きました。 「なんだか妙に心惹かれる単語だねぇ。そんなのおれのコレクションにあったかしら」 「あったとしたらすぐエジプトへ返すんだね」 少年は間髪を入れずに言いました。「でなければどうせろくでもないことに使ったんでしょう。肝心のミイラを押し退けておいて、自分がミイラのふりをしたりしてね」 「ハハハハハ、そりゃなかなか愉快なアイディアじゃないか」 と怪人は少年を褒め称えるように両肩を叩くと、機嫌良さそうに腕を組んで座り直しました。普段はない胸の詰め物――本物ではないはずです、おそらくは――を鬱陶しそうに組み返す仕草と言い、さっきまでの一幕が嘘のような変わりようです。 実のところ、怪人のこうした不安定さも、少年にとってはもはや慣れっこでした。 怪人がどこまで自分で意識しているのかはわかりません。少年はいまだに、ぜんぶ意識尽くの演技なのかもしれないとも勘ぐっています。けれども少年はそのことをあんまり言わないようにしています。もしも自分が怪人の立場なら、不安定さを指摘されるのはいかにも自分が作り物であるような気がして、面白い気分ではないと思うからです。もしくは計算尽くの演技だった場合でも、自分は望まない遊びに乗ってやる義理はないからです。 少年は首を上げ、あごを軽く前に突き出しました。ところが相手がいっこうに不思議そうにするので、少年は自分の唇を指でとんとんと示しました。 「どうする気なんだい最後は。最後までちゃんとやってくださらないと。せんせ、お祭りへ行くんでしょう」 「うん、ああ、」 怪人はやっといま気がついたというように、まだ色を入れていない少年の唇に目をやりました。ただ、そう急に心変わりしたのでしょう。さっきまでは楽しそうに少年の顔に化粧を施していたというのに、机に広げた三段引き出しの道具箱をあごでしゃくって「どれにする。好きなのにしてやるよ」などと言うのです。 「そんないきなり選べなんて言われても、ここまで鏡すら見せてもらってないんだぞ。どの色が合うかなんて見当もつかないよ」 「探偵ならひとつどれが合うか推理してごらんよ」 にたにたとして無茶を言います。自分でいちからやるのであれば決めようもありますが、少年にはいまの自分の顔がどうなっているのか、ちっともわからないのです。この賊はいったいどんなふうに少年の顔を作り替えたものでしょうか。少年は道具を前に少し悩んで、ほどなく顔を上げて言いました。 「それじゃ、あなたとおんなじのにしようかな」 うげ、とは声にこそ出しませんでしたが、怪人はせっかくの美人の顔を下品な形に曲げました。 「きみにゃこの色は似合わないよ」 この色、というのは例の、深緑にも青にも見える黒色のことです。 「でも綺麗な色だよ。大人っぽく見えないかしら」 「見えるもんか。おれがせっかくここまでめかしつけてやったのに、最後の最後で台無しにしやがるつもりか」 「そんなつもりはないさ。でも困ったな。きみのお気に召さないんじゃ仕方ない。そんなに言うなら、やっぱりきみに選んでもらったほうがいいんじゃないかな」 少年がわざとらしく言うと、怪人はぶつくさ言いながらも道具箱の中から一本を選んでくれました。少年は自分の唇に押し付けられる、淡い桜色のリップを大人しく眺めました。黒く塗った爪はそれ自体がまるで宝石のように、光を鈍く跳ね返しています。すると不意にまた、支那服の袖口からパルファムが香りました。濃密な甘い香に少年は今度こそ、ああ、これはクチナシの香だったのだなと思い当たりました。 |