地獄でなぜ悪い



 チョコレート作りには熱が肝心だ。単にチョコレートの塊を溶かして別な器に入れて固めるだけじゃないのだ。溶かすにも適切な温度が必要なら、保管するにも固めるにも必要な温度というものが決まっていて、それを守ってやらないと表面が白くなってしまうしくちどけも悪くなる。以前はそういうものなのかしらと他人事に思っていたけれど、いざ自分で作ってみるとあれはそういうことを言っていたのだなと腑に落ちた。湯の温度を調整してやるのが難しいが、ここを自在に操れるようになると、へらを回す指先にも成功したのがわかるようになって気分が良い。ヤアこっちのはなかなかうまくいったぞ。失敗したのは溶かして別な焼き菓子にでも作り変えちまおう。しかしせっかくうまくいったってのにむき出しで置くってのは味気ないな。ドレ試しに包んでみようか。ラッピングの練習もなにかの役に立つかもしれないものな。オオこれはなかなかそれらしいんじゃないか。我ながら見栄えがいい。これなら先生に差し上げたって支障ないんじゃないかしら。先生の机に置いて、こう、いくつか無造作に……いや乱雑なのよりはきっちりそろえてみて……ウン、悪くないぞ。こうして見るとなんだか、先生のもとに留守中にたくさん贈り物が届いたようで「あの世の先生にお供え物かい。熱心だねぇ」

 とつぜん割り込んできた声に、少年は静かに後ろを振り返った。さっきまで事務所にいなかったはずの怪人が、すぐ少年の後ろににこにことして覗き込んでいる。
「そんならおれも後で手を合わせてやろうかね。それとも菓子職人にでもなるのかい? 今朝も朝一番に冷蔵庫の様子を見に行ってたろう、ずいぶん熱心な様子じゃないか」
「……たったいま熱が冷めたところだけどね」
 いつ戻ってきたのか。いつからいたんだ。そんな言葉をぐっと飲み込んで、少年は気丈に答えてみせた。すると怪人は、探偵そのひとに寄せたモジャモジャ髪を掻き上げて、アッハハと笑った。
「そいつは残念だねぇ。きみが店を構えたらさぞ贔屓にしてやるのに。探偵なんざ乱暴な商売よりそっちにしておくがいいよ。なに、保証人だとか立上げ金だとかはぼくが援助してあげるからね。きみは安心して構えているといい」
まるで水を得た魚と言わんばかりの威張りようだ。少年は頬をつついてくる指をすげなく払い、「間に合ってます」と慇懃に答えた。怪人のやつめ、ここまで口出ししてこないと思ったら、きっとこのタイミングを見計らっていたのだ。チョコレートが冷えて固まるのを待つように、からかいに現れるタイミングを隠れて待っていたのだ。

 怪人? ええ、怪人だとも。
 この探偵事務所にいるのはこの少年と怪人のふたりっきりだ。
 少年は少年探偵。怪人は読んで字のごとく、怪奇にして怪傑なる賊の首領。なぜそれが探偵の格好をして探偵事務所にいるのだとか、なぜ少年探偵はその正体を知っておきながら賊を捕えないのだとか、なぜ賊を捕えないばかりか呑気にチョコレート菓子作りに時間を費やしているのだとか、そういう理由は聞かないでほしい。話すと長いし、今回はそこまで尺もないからだ。怪人は怪人、少年探偵は少年探偵で、そういうものとして受け止めていただきたい。

「だいたい、お供えだなんて縁起でもないよ」
 少年はりんご色のほっぺをふくらませ、怪人の先刻の軽口に抗議した。
「まるで先生が亡くなっているみたいな言い草じゃないか。失礼だよ。先生はただ長らく留守にされてるだけだってのに」
「そうだろうとも。おれたちをこんなところへ置き去りにして、自分だけどこぞへ遊行してらっしゃるのさ」怪人は靴の音をコツコツとさせて、少年の正面へ回り込んだ。「だけれども、行き先も知らせない、安否も知らせないってんじゃ、生きてるか死んでるかなんて定かじゃないだろう。あの世ってのはものの喩えだよ。ここじゃないどこか。どこか別な場所。極楽であってあるものか」
 と、ふてぶてしく机に腰を下ろし、身体を前傾させた。怪人の長身が少年の目線の高さに合う。その顔は探偵の顔だ。もちろんそれは変装であり、本物ではない。かつてここにいたはずの、いまとなっては名すら思い出すことのかなわない、想像上の探偵を模したもの。実際の探偵とイコールのものではない。だがその顔が「僕は不滅だ」と探偵の声でせせら笑った。
「それに先生のことだ。あの世にしたって、天国へは行かれないだろうしねぇ」
「それはたしかにそうだけども」
「へえ」
 怪人はおかしそうに目を細めた。
「きみこそそんな非礼をいいのかい、仮にもお師匠に向かって。僕は天国には入れないような悪人かい。可愛らしい顔をして、そんなふうに僕を思ってたのだね」
「別に先生が悪人だなんて言ってるんじゃないよ。先生が亡くなってなんかないって、そっちのほうに賛成したかっただけで」
「ほう」
「だって、似合わないでしょう」
 少年は物怖じひとつせず、からかいに徹する両の目を真っ直ぐに見つめかえした。
「先生は事件がないと生きていかれないひとだもの。天国にいるのは善い人ばかりでしょう。犯罪はもちろん、殺人事件なんて起こりようがない。もちろんそれは良いことだけども、先生ならきっと退屈されるに決まってる」
「それが理由か?」
 怪人は胸を張るようにして身体を伸ばすと、両手を後ろについた。
「ならおれはもっと別の理由だね。やつが死んだところで、やつを恨む連中が、やつに酷い目にあわされてきた連中が、やすやす天国へなんて送ってやるものか。連中きっと手ぐすね引いて待ってるぜ。地獄の底へ引きずり込んでやろうとね」
「僕らの先生がそんな簡単に捕まるもんか。悪党に捕まる前にさっと身をかわすのさ。むざむざ落とされたりするもんか。先生が地獄にいるとしたら、きっと閻魔大王のようなお役目を授かるんじゃないかしら。安楽椅子探偵さながら、浄玻璃の鏡を駆使して罪人たちの真実を曝くんだ」
「あれが安楽椅子におさまるがらかね! やつは鏡を使うほうじゃなく、真実を暴く鏡そのものだろう。ひとつところにおさまって、そのうちきっと飽き飽きするぜ」
「そういうきみは、まず間違いなく地獄行きだろうね」
 少年探偵はにっこりと笑った。腕を組み、組んだ腕の上のほうの指で怪人を指す。怪人の、ごく自然な動きで包装紙を剥がそうとする手と、その手に握られたチョコレートの箱を指す。
「ひとのものを盗む人間は、天国へなんて入れてもらえっこないからね」
「ハハハ、せいぜい地獄でも楽しく愉快に暮らすとするさ」
 指摘されたところで、怪人はちっとも手を止めやしない。
「聞けば天国ってのは夜がないのだってね。いつも日に満ちていて、穏やかな音色に満ちているのだと。そういう場所はいたたまれないよ。つまらないよ。ぼくらみんな天国が似合う人材じゃないのさ。ねぇ?」
 賊の首領は悪びれもせずに言って、剥がした包装紙をぺらりと机に置いた。
 たしかにそうだ。あの世なんて似合わない。少年の知る探偵は――知っていたいと、願う探偵はそうだ。あのひとの背中を思い出そうとする。おぼろげにしか浮かんでこない背を思う。あれはいまここにしか、この瞬間にしか、現在にしか生きられないひとなのだ。そうだったか? 本当に?

「どこだっていいさ。先生のためなら命だって惜しくない。先生のためなら、地獄へ立って極楽へだって、僕はどこへだってお供するさ」

 それがどんなにか虚しいのかはわかっていても、少年探偵はその台詞を口にしないではいられなかった。自分が置いていかれたのだとは思いたくなかった。先生がここにいないのは留守中なだけで、置いていかれたわけではない。机の上の箱も留守中に届いてしまっただけで、受け取る手のない贈り物ではない。思いたいだけだ。信じたいだけだ。忘れていたく、ないだけだ。
「ああ、よくできてるじゃないか。で、どれが先生の好みなんだい」
「えっ」
 急な問いかけに少年は虚を突かれた。怪人は、開封した箱を手に、少年が作ったチョコレートボンボンを面白そうに眺めている。と、その目がちらりと少年を見た。
「どうしたい。先生の好みを思って取りそろえたんじゃないのかい。おれはよく知らないけども好物なのか。普段からよく食べてたかな。色々作ってたろう」
「いや、それは」
 再度問われて少年は口ごもった。
「作っておいて何だけれど、先生はこういうのはあまり召し上がらなかった気がするね。甘い物はお好きだったかしら。取り立てて好物ってことも、嫌いってこともなかったような……どうなんだろう。どれもあまりぴんとこないけれど」
 作るほうに夢中になっていて、そこまで考えが及ばなかったのだ。
 思い出せないだけなのか。単に自分が知らされていないのか。それとも先生自身が元から食にこだわりがないほうだったのか。少年には判断がつかなかった。紙巻きなりコーヒーなりの嗜好品は好んでいた気もするが、変に捏造して固定すると後が怖い。元から存在しない設定/ものを思い出すことはできないし、仮にそんなものが無から湧いて出てくるようになったなら、真っ先に疑わねばならないのは自らの正気であるはずだからだ。作るほうにばかり気が向いていた。それがチョコレートだったのはただ、これが世話になった人に思いをこめて贈るものだからだってだけで――それはたしかか? いったいどこの世界の話だ? どの僕の/だれの記憶を参照している?

「へえ。じゃあなんでまたこんなに……ああ、」
 怪人はなにかを納得したように深くふかくうなずいた。重ねて、なにごとか得心したように生暖かい目で少年を見つめる。なにやらよからぬ情感のこもった視線に、少年は直前の悩みも置いて、たじろいだ。
「なんだよ、不気味だなあ」
「いやぁ、きみも可愛らしいところがあるじゃないの」
 と立ち上がり、机の向こうに回り込むと、探偵そのひとのためにあつらえた椅子を引いて今度はそっちに腰かけた。形だけ見れば、探偵事務所の机に探偵が配置された形である。そして机の上には少年が積んだチョコレートの箱が色とりどりに並べてある。怪人はエヘンと咳払いして、少し気恥ずかしそうなふりで言った。
「よく来てくれたね。実はきみに頼みたいことがあるんだ。先日、幽霊塔の事件があっただろう。こいつは、そのときの依頼人が是非にと贈ってくれたんだがね、ちょっと困っているんだよ。ぼくも決して甘い物は嫌いじゃないが、さすがにこの量はちょいとこたえる。きみはチョコレートは好きかい。ならちょっと手伝ってくれないか。ほら、よくできているだろう。口を開けてごらん。遠慮しなくていい。ぼくが手ずから食べさせてあげようね」
「勝手に人の心を斟酌して、勝手に立ち回らないでくれ」
「でもそういうのがしたかったんだろ」
「したくない!」
 少年は真っ赤な顔で言い返した。
「そんなこと考えるわけないだろ。邪推だよ。邪推!」
「名推理だと思うけども」と怪人は少年に向けていたチョコレートボンボンを自分の口に放り込んだ。「ああ、うまいじゃないか。先生も好きだよこれ。もとい、甘い物もたまには悪くないね。可愛い弟子が僕を思って作ってくれたんなら、たとえそれまでほんの少しの興味もなくたって好物のひとつに数えるさ」
「先生の顔で適当言わないで。食べていいとも言ってないしおまえに食わせるためじゃないし」
「ハハハハハ、そんじゃきみ、この量ひとりでやけ食いするつもりだったのかい。よしておきなよ。そんなに甘いもんばっかり食べて、にきびでもできるたらどうするんだい」
「別にぜんぶをぜんぶ片づけなくたっていいもの」
 怪人があんまりからかうので、少年はぷいとそっぽを向いた。
 この町では認識されないものは存在しないのと同じなのだ。早い話が冷蔵庫の奥の奥にでも入れておけば、記憶の俎上にすらのぼらない位置に追いやれば、チョコレートを作った事実もチョコレート本体もなかったことになる。材料として使ったチョコレート自体、どこから出てきたのか曖昧なのだ。だってこの時代、一般にはまだそこまで気軽に自作できるほどの種類もレシピも――この時代? この時代ってのはいつの時代だ? 駄目だ。また曖昧になっている。境界が曖昧に溶けている。

「そう」

 声がすぐ頭上から聞こえた。
 いつの間に移動したのか、長身が少年のすぐ背後にある。身体が反応するよりも先に後ろから伸びてきた腕に拘束され、もう反対側の腕が口元に迫ってくるのが視界の端に見えた。すわ眠り薬か――少年は口を結んで息を止めた。唇に触れる、ずいと押し付けられた硬い感触。遅れてその正体がわかったが、相手の真意がつかめず抵抗を続けていると、長い指が唇を押し開いて歯にまで及ぶではないか。これには少年もたまらず口を開け、押し込まれたそれをほおばった。
 丸い、甘い舌触り。噛み砕く。
 さっき怪人の手にあったチョコレートボンボンだ。
 少年が口の中の甘味を飲み込むと、やっと二本の腕が引っ込んだ。
「ほら、うまい」
 頭上では探偵の顔がにこにこと微笑んでいる。なんのつもりだ、と言いかけて少年は言葉を止めた。ぞっとした。それ以上に相手が「きみは手先が器用だねぇ。菓子作りも思いのままだ」と何事もなかったかのように続けたからだ。
「これを捨てちまうなんていただけないね。物の価値がわからんやつだ」
「……それ、褒めてるつもりなの」
 口元を指で拭い、甘ったるい口で少年は言った。
「そうだとも」
 怪人は探偵の顔をして、指についたチョコレートを舐め取った。
「おれはこれで美食家なんだ。食には一家言持っているつもりだぜ。それがきみの手作りを褒めてるんだから、もっと自信を持ってしかるべきだろう」
「きみに褒められたって嬉しかないよ」
「『僕は、きみのような助手を持ってしあわせだよ』」
「どうせ褒められるんなら、本物の先生に褒めてほしかった……」
「はいはい。そうだろうともそうだろうとも」
 ぞんざいな返事とともに鼻を鳴らす。さっき有無を言わさず少年の肩を押さえつけたのと同じ手が、今度は少年の背中を軽く叩いて言った。
「最初から素直にそう言えばいいんだ。あの世がどうのと、そんなのはおれたちの知ったことじゃないんだから」
 ああ厭だ。なんて地獄だ! なんて地獄だ!
 少年はばつの悪いのをどうにか誤魔化さずにいられなかった。少年はただの少年に非ず、少年探偵であるがゆえ、聡明にして機敏ゆえに。敵から慰められている自分に気づかずにいられるほど、愚鈍ではいられないのだ。
「……それはきみのほうでしょう。励ますんなら、もっと素直に言えばいいでしょう。落ち込むなとか、元気出せとか、もっとあるでしょう」
 少年はこういうときにこそ思わずにいられない。大蛇や大虎と同じ部屋で暮らすことは可能だろうか。人間を丸呑みできるだけの身体を持ちながら、気まぐれにひとに懐いているだけの、不殺不傷をうたう獣と、共存することは可能だろうかと。
「好物かは知らないが、」
 誰でもない怪人は、素知らぬ風で言った。
「こうなると熱い茶が飲みたいね。知ってるか。チョコレートには熱い緑茶が合うんだぜ。茶の渋みが甘いのをうまく引き立ててくれるんだ」
 と口の端だけをつり上げてにっこり笑い、身体を傾けて少年の目線に合わせた。少年はここで視線の意図をあえて無視することはできた。さっき怪人が少年にしたのと同じようにだ。だが、少年探偵は少年探偵であるがゆえに、視線を真っ向から受け止めた。
 演技を続けることを求めている。ならばこたえてやろう。
「そんなに言うなら、ひとつごちそうしてもらおうかな。美食家のせんせが言うんだから、きっとチョコレートの礼になるような、すばらしいやつなんだろうね」
「フフフ……おれがなにもしないでいたと思うのかい。昨日のうちからきみがキッチンで菓子作りに励んでいるのを知って、みすみす見逃すおれだと思うのかい。それは油断が過ぎるんじゃあないのかな」
「お手並み拝見だね。受けて立とうじゃないか」
「そうこなくては」
 ぐいと背を押す手のひらには、熱と質量がある。その実存にいまだけはこたえてやろうと少年は思った。そうだとも。どうせぼくらみんな天国が似合う人材じゃないのだ。ここが煉獄であるのなら最後まで演じてやろう。舞台があるうちは、探偵の帰りを待つうちは。






2022/2/14公開短編
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