『不在の探偵』08



 要は悪魔の応用だ、と怪人はナイフを片手にそう言った。
「きみは知らないだろうねぇ。むかしそういう男がいたんだ。悪魔の血を分けた男、地獄から生まれきたと豪語する男がね。そいつは身の内にひそむ狂気に突き動かされるまま、帝都六百万の凡人どもが恐怖にうろたえるさまを夢見たんだよ」
「趣味が悪いね」
 と少年が言う。
「否定はしない」
 と怪人は肩をすくめた。ナイフの切っ先がこちらを向いたことに少年は眉をしかめ、ご機嫌そうな怪人から半歩分の距離を置き、それから言った。
「それで、どうせ夢見るだけで済まなかったんだろう?」
「もちろん。さすがに察しがいいね」
 少年に目配せしつつ、怪人は台に向き直った。
 ざくり、とナイフの刃が小気味よい音を立てる。
「彼にとって不幸だったことは、夢を現実にするだけの力があったことだ。良くも悪くも行動力があったのさ。それも尋常のものではない。人は生きながらにして悪魔になることができるのだねえ。彼がその力をもってなにをしたと思う?」
 ざく、ざく、ざく、と慣れた調子で切り分けていく間にも、怪人はぺらぺらと喋り続けた。
「東京の地下に自分だけの地下帝国を作ったのさ。まったく呆れるよ。うつくしい人魚の入った水槽、空には血を吸った振り子が揺れ、半人半獣の闊歩する……まさに人工の地獄だよ。なんのためにそうしたのか、だって? それはもちろん、地上の景色を自分の作った地獄とそっくり入れ替えてやることを夢見たのさ。トンネルを通じて毒を流す計画だったんだね。しかもほとんど完成目前までいったそうじゃないか。まったく、我らがにっくき先生の干渉さえなけりゃ、もっと早くに壊滅して……ああ、ちがうな。あれはやつじゃなくて、おれの、おれの仇敵が……」
「おい、もっと丁寧に切ってくれないと困るよ」
「……? おっと」
 と怪人はそこで初めて気がついたというように顔を上げた。いつの間にわたしはこんなに前のめりでパイを切っていたのかしら、と。そんな顔だ。
「おしゃべりに夢中になりすぎだよ」
 少年は溜息とともに言った。こちらは途中から相槌ひとつ打ってやしないというのに、いったいいつ話を中断させようかと見計らっていたのだ。だがもう見ていられない。
「せっかくきみがミートパイを作るというから手伝ったのに、粉々になっちゃうじゃないか。代わるかい?」
「そうだなあ。それじゃ代わってもらおうかしら」
 と怪人が素直にナイフを置いたので、少年はひそかに胸をなで下ろした。表面では協力をうたっていようと相手は賊だ。そうでなくとも精神のよりどころが不安定なのだ。そんな相手にこれ以上刃物を持たせていたくなかった。いくらかぼんやりとしたまま少年へ立ち位置を譲った怪人は、そのままぼーっと薬缶へ水を注ぎ、火にかけたところでやにわに手を打った。
「さて、きみはなにがいいかね? いまならモカもグァテマラもあるぜ」
「コーヒーよりはお茶のほうがいいかな。パイにコーヒーじゃどっちも味が濃いから」
「はいはい。それじゃ探偵助手くんの言うとおりにいたしましょうかね」
 そう言って戸棚へ向かう怪人はすっかり元通りに見える。
 少年が不便だと思うのはこういうときだ。力ではどうやったって太刀打ちできない。もちろんそれもある。だがそれ以上に、『相手について知らないことが多すぎる』というのは少年にとって不便で仕方がなかった。以前の自分であればもっと対等に渡り合えたのだろうか?
 たとえば料理ひとつ取ったって。

「……なんでもできるんだよなあ、意外と」
「ハハハ、意外とは失敬な。ぼくはこれでも熱心な料理家だぜ」
 言いながら、怪人は自分の皿にミートパイを移し替えた。
「こっちにきてからはきみにも何度かごちそうしているだろう。あれはぼくが作ってるんだ、知らなかったのかい?」
 そう言ってにこにこと、指についた油をなめる。形だけでも探偵を模すためとはいえ、背広だ。さっきも背広で台所に立っていたし、いまは背広でパイを手づかみしている。
「そりゃごちそうになってるけど……『怪人』がそういうことするのは意外だなと、つくづく思ったのさ。身の回りのことはぜんぶ部下にやらせてるもんだとばかり。コックとか、いただろう。ええと、ほら、アジトに雇ったりして」
 どうしても話しながら確かめるような口調になる。ぼんやりとした景色が頭にあるものの、どれもこれも少年にはうろ覚えの風景だ。幸い、怪人はパイからはみ出たミンチを口に入れながら、「そりゃあアジトには何十という部下がいるからね」ともごもご言った。
「コックでも雇わなければやっていけないじゃないか。各々が勝手に台所を使うより、一人にまとめて作らせたほうが効率が良い」
「たしかにね。でも悪党の親玉が手料理を振る舞ったりしないだろう?」
「振る舞うかもしれないよ? 現にいまそうしてるじゃないか」
「僕は悪党見習いになったつもりはないけどね」
「そりゃ残念だ。ハハハ……」
 怪人がさも愉快そうに笑う。話が途切れたのをいいことに、少年は途中になっていた食事を再開した。そもそものパイの直径自体、少年の顔ほどもある大きさだ。食べやすいよう八分の一に切ったとはいえ、怪人のように手づかみで頬張るには少し大きい。それでも、フォークで少しずつ味わっていると、少年は無性に自分がいま生きているという気がしてきた。香辛料のきいたミンチソースで喉が渇いたし、額に汗がにじみ出しているのがわかる。大人の味だ……にこにこしながらこちらを窺ってくる怪人には腹が立つが、だからといって食べるのを止める気にはならないうまさだ。
「マア、料理なんてね、あれだ、こういうものは下積み時代に一通りの芸を身につけているもんさ。おれが料理くらいできても不思議じゃない」
「うん? 下積みなんてあったのか。初耳だなあ」
「ハハハハ、さしものおれも最初から悪党の軍団だったはずはありませんよ。きっとどこかで……どこかしらでなにかしらをしてたはずさ。それより、きみのほうこそ芋なんて洗ったこともないって綺麗な手をして、よく動くもんじゃないか。さては探偵殿に相当こき使われたんじゃないか?」
「僕は先生の助手だからね、一通りのことはできて当たり前さ。家事炊事くらいは……うん、実際どこまでやってたかはともかく、隈なくこなせるはずさ」
「おれだってそうだ。コックに化けて芋の芽のひとつも取ったことがないんですってんじゃお話にならない。竹箒ひとつ満足に操れないメイドはあやしまれる……うん、さすがだ。チーズを振ってもうまいね。焼くときに入れてやってもよかったな。そら、きみもたんとおあがんなさい」
 そう言って少年に皿を勧めておいて、自身はもう五切れ目だ。
 少年はこうやって怪人と暮らしてみてよくわかった。『怪人』に生活感がないという認識は訂正するべきだ。この怪人は馬鹿みたいによく食べる。初めに出くわしてからしばらくは、少年のほうでも怪人とは飲まず食わずの超人なのかと思っていたが、なんのことはない、ただのイメージだ。三食しっかりよく食べる。たしかに怪人も探偵も、思い出してみれば身体が資本みたいな仕事じゃないか。もしかしたら、怪盗業で稼いだ金の大部分は食費にあてられていたりするのではないか。
 と、少年はそこでなにか妙な引っかかりを覚えた。
 いまのはなにかが変だ。口の周りをミンチソースまみれにしてパイを頬張っている怪人……はどうでもいい。そっちじゃない。後半のほう、『金』の部分だ。怪盗の資金源。普通に考えれば金銀財宝や札束を盗んで得たものだ。それが一番手っ取り早い。だがなぜだろう。営利目的の強盗、という部分に無性に引っかかりを覚えるのだ。
 食事が終わってからでも本人に確認してみよう。
 と、少年は少し焦げたパイの耳とともに言葉を飲み込んだ。
「現金は……言われてみればあまり盗みに入った覚えがない」
 怪人は食後の紅茶を飲み干すまでの間、たっぷりと考えてから言った。
「とはいえ資金がないと活動に支障をきたすから、必要な分くらいは……おれが……いや仲間が……? 多少は失敬してくるんだ、たしかそうだ。そういう仕事をする連中がいて……待てよ、銀行へ予告状を出したことなんてあったか?」
「覚えてないよ。僕も、あんまりよく思い出せなくて、ええっと」
 怪人が頭を抱えて考え始めるので、少年も自然と同じようなポーズになった。ここで怪人が答えに詰まるのは、少年にとっても意外だった。どうやら怪人にとっても曖昧だった部分らしい。それはそうだ。自分がなにを覚えていて、なにを忘れているのかを意識するのは難しい。忘れたことすら忘れてしまっていたのなら、思い出すべうもないではないか。
「たしか予告状が届くだかして、そこから先生に話がきての流れだったから……でも、銀行強盗なんてのはそっちの仕業じゃなかった気がするなあ。盗むってなると決まって宝石だとか、絵だとか、あとは……仏像とか?」
「仏像? どうも強烈に嫌な記憶を思い出しそうな……いやいや大体、美術館を作るのに現ナマだとか金塊だとかを盗んでどうするんだ? そんなのはあくまで資金調達の一環だろうに。あって困るものじゃないが、単に金目的なら強盗と変わらないからねぇ。おれをそんな強盗風情と一緒にされちゃ困るよ。怪盗はもっとロマンがなくっちゃ務まらない」
「……」
「オヤ、『強盗も怪盗も変わらないでしょう』とは言わないんだな」
「いや、きみにも一応、美術館をつくるって目的があったんだなと」
「ハハハ、今更なにを……」
 いつものように一笑に付そうとした怪人は、はたと言葉を止めた。探偵の顔で探偵の声で、しかし感情の失せた一瞬の表情は、間違いなく怪人そのひとのものだった。
 少年は、黙りこくった怪人に代わって言葉を続けた。
「だってほら、盗みにも色々あるでしょう。美術コレクターに売ったり、それこそ海外へ持ち出したりだとか、金に換える方法はいくらでもあるからね。でもきみはそういうことをしなかった。そうに違いないね。それはきみ自身がコレクターだったからだ」
「……」
「つまりきみの目的は、美術品の蒐集だ」
 話しながら、少年には不思議な確信があった。それは自身を『少年探偵』たらしめる要素がそうさせるのか、それとは別に少年個人に起因するなにかなのか、少年には判断がつかない。確かなことは相手の反応と、自分の考えが決して間違っていなかったということだけだ。
 だらりと指を組んで黙り込む、その表情から感情は読み取れなかった。

「そうか、そうなのか。おれはおれだけの美術館をつくりたかったのか」

 しばしの沈黙が続いたあと、怪人は不意に言った。ゆっくりと、ひとつひとつをかみしめるような口振りで。目だけを上げて、少年を見据えた。
「この感じ、懐かしいよ。きみは真実、探偵の弟子なのさ。推理を披露してみせるときなんてそっくりだ。得意げにして、憎らしい」
「覚えてないのにわかるもんなのかい?」
「わかるとも」
 と怪人はおかしそうに笑いながら言った。口元を撫で、ソファの背にもたれかかる。
「覚えてなくたってそのくらいわかる。やつには何度煮え湯を飲まされたことか。まったくもって忌々しい。なによりも、そんなことばかり思い出せるのに、自分の野望のほうはきみに言われるまで気づかなかったんだから、まったくもって探偵様々だ!」
 ピシャン! と鋭い音。怪人が両手で自分の頬を張ったのだ。
 面食らって目を丸くする少年に、怪人はふてぶてしく鼻を鳴らした。
「フン、きみもやるか? 勝手にいなくなられてきみも随分迷惑しているだろう。本物がいればもっと酷い目に遭わしてやりたいところだが、いまはこれで我慢してやろう」
「ああ、」
 なんと呆れた子供っぽさだ。怪人は自分で自分を打ったのではない。自分が変装した探偵の頬を打ったのだ。
「やらないよ。意味もなく人を殴ったりなんかしない。おまえとちがって、先生にはなんの恨みもないからね。大体、先生になにかしようとしたら真っ先に僕が止めに入るぞ」
「はいはい。きみはそう言うだろうとも」
 自分で打った頬をさすりながら、怪人は空になったカップの持ち手に指を引っかけた。
「そんなきみだからぼくは頼りにしているんだ。さすがはこの探偵の一番弟子を名乗るだけはある。きみがこのまま探偵事務所を継いでくれれば、ぼくとしては安泰なんだがねぇ」
「それ、先生の物真似のつもりかい?」
「そう目くじら立てるようなことじゃないだろう。探偵(ぼく)だって遠からぬことを思っているんだから」
「怪人(きみ)にはわからないだろうね。事務所を僕に継がせてもいいなんて、仮にとはいえ先生の顔をして言ってほしい台詞じゃないんだ」
「きみのほうこそ、探偵(ぼく)を忘れてしまったくせによくわかるじゃないか」
 そう言って懲りずに探偵の顔でせせら笑う。少年の厳しい視線に、怪人は口元をちょっと上げて笑うと、カップを持ってさっさと給湯室に引っ込んでしまった。
 
 ……先生がそんなことを言うもんか。
 憤懣やるかたない気持ちを持てあますままに、少年はソファに座り直した。腕を組んでも脚を開いてみても威厳がない。そんな自分を、少年のままの自分を、先生が探偵に任命されるはずがないのだ。
 少年の知る限りにおいて、先生の退屈を紛らわすものは事件以外にあり得ない。その先生が探偵を辞めるときはきっと、この地上から事件がなくなってしまったか、あるいは自身が命を落とすそのときだけだろう。そうでなければ、何度も何度も決死の冒険をするものか。先生が賊との戦いで命を落としたという新聞記事を見たときは驚いたが、結局あのときだって先生は生きて戻ってきて――

「……あれ?」

 少年は夢から覚めたように目を瞬かせた。
 そうか、そうだったのか、と。
 忘れたことすら忘れていたものが、不意に引き出しの奥から見つかるときの感覚。思い出すとは、そういうものだ。それらは往々にして突然にもたらされる。にもかかわらず思うのだ。いったいどうしていままでこれを忘れて、無事でいられたのだろう。僕は――
「ぼくはね千林くん!」
 見計らったかのように声が給湯室から響いた。
「きみといると色々と思い出せるよ。おれはおれになれるんだ!」
 もちろん、そうやって朗らかに声を張るのは怪人だ。ここは探偵事務所の応接室で、給湯室で水を流しているのは本物の探偵ではない。ここに探偵はいない。探偵の姿をした、怪人がいるだけだ。
「きみだってそうだろう?」
 顔のない怪人が給湯室から顔を出してにんまりと笑う。
「……じゃあいい加減、僕の名前も思い出してくれないとね」
 だれだい千林くんって、と本物の少年探偵であれば言わないであろう台詞で口を尖らせる、少年もまた少年探偵ではないけれど、いまはまだいい。それでいい。





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