Sのつく怪異と踊れ 温泉卓球というのは、温泉でやるからこその温泉卓球だ。 ぼくが知る限り、「温泉地の名前を言いながらやる卓球」のことではない。 ――と、ぼくが素直な感想を言うと、キッタくんは大きく頷いた。 「だろうね。僕が知る限りでもそうだ」 「じゃああれは、」 「でも本人が言ったんだよ。温泉卓球をやるから暇なら審判をしてくれって」 「温泉じゃないのに? なんで?」 さあ、とキッタくんはこちらを見もせず肩をすくめた。その視線の先では激しいラリーが繰り広げられている。ラケットを持つ両者とも、頭から水でもかぶったみたいに汗だくだ。そりゃそうだろう。だって今日は雲一つない青空――もとい、炎天下だ。今週は夏のぶり返しとなる暑さらしいが、今日は特にひどい。季節的にはもう秋だというのに、卓球台で焼きそばでもできそうなくらいの照りつけだ。日陰に入っていても木漏れ日がつらいくらいなのに。 ……暑さでどうにかなってしまったんだろうか。 そうとしか思えない。この暑い中で青空卓球、もとい温泉卓球……いや、温泉卓球ってなんだ? 町のどこを探しても温泉なんてないのに? なんで温泉? 「ルールは単純明快。先に2セット取った方の勝ち。ただし特殊ルールとして、球を打つタイミングで任意の温泉地の名前を言うこと。すでに一度出た地名を言ったらミスとして相手側に1点追加。地名を言わずに打ち返した場合も同様に1点。それ以外は普通の卓球と同じだよ」 「温泉って結構色々あるんだね」 キッタくんが横で補足してくれるが、そんな感想しか出てこない。 たしかにカコンカコンいうタイミングで何か言っているが、念仏でも唱えていると言われたほうがまだ納得できる気がした。聞き取ろうとしてもぶつぶつ言ってるだけでよくわからない。それでいて両者ともに鬼気迫るものがあり、なんだか霊に取り憑かれた人がやる卓球って感じだ。温泉卓球というのどかなイメージからはかけ離れている。 「やっぱり温泉卓球ってあんなんじゃないと思うな……」 「あれを温泉卓球と呼ぶかはさておいて、やってること自体は非常に高度だよ」とキッタくんが解説の口調で言う。「卓球ってのは普通は屋内でやるだろう? 球が軽いから風に流されやすい。それを屋外でやるんだ。風向きや気温、日差しもある。それらすべてを計算しながら相手の打ち筋を見極め、かつ温泉地の名前を唱えながら卓球をやる。口で言うのは簡単だが、尋常でない集中力と体力が必要だ」 「たしかに、息継ぎとかむちゃくちゃつらそうだよね。ラリー速すぎて言い終わる前に次の球がきてるし。これほんとに三十分前からやってるの? そろそろどっちか倒れない?」 「ちなみに台は売店のテーブルに即席でネットを張っただけだからね」 「え? あ、ほんとだ」 この公園に卓球台なんてあったっけ、と思ったが、池の脇にある食べ物屋の長机をそれっぽく改造しただけらしい。ということはラケットと球だけ持ってわざわざ卓球台のないところへ卓球しにきたのか。ますます謎だ。 「とはいえ、彼とまともに打ち合うなんて対戦相手は何者なのかな」 「どういうこと? あのひと卓球部だったっけ」 「都市伝説『さとるくん』は質問されたらどんなことでも答える怪異だろう? その彼とまともに試合なんてできたものかなと思ってね」 「……」 「おい君、まさか」 「わ、忘れてたわけじゃないって。名前も思い出したし。ただ、そうだっけ……って思って」 キッタくんのじっとりとした視線に声がうわずる。 漠然とクラスの誰かだと思っていたが、卓球をやってる片方はたしかに『さとるくん』だ。都市伝説の、電話で来るという。ひょんなことから同じクラスにいる怪異なクラスメイトだ。 忘れてたわけじゃない。でもさとるくんは髪染めてるしピアス空けてるし色も黒いから、見た目からして遊んでますって感じの見た目だし……ぜんぜん都市伝説のイメージじゃない。むしろ集団で肝試しにいって馬鹿騒ぎして祟られる側だ。だから、油断すると忘れてしまうというか……。 「ほら、今日は眼鏡かけてないみたいだし、いつもの、ほら」 と手で眼鏡の形を作りながら言うと、キッタくんがベンチの脇からすっとなにかを取り出した。縁が大げさまでに太くて目立つ、黒縁眼鏡だ。 「あー……あれ伊達なんだ」 「怪異だからそうそう目が悪くなることもないだろうしね。割れるといけないからって試合前に預かったんだ」 「その、『さとるくん』って卓球がすごい上手みたいな話だったっけ?」 「まさか」 とキッタくんが笑うので、ぼくもつられて苦笑した。どのみち、ぼくがいかに忘れっぽいかということはキッタくんも承知のとおりなのだ。隠すことでもないし、隠せることでもない。 「じゃあ、なんで卓球なんてやってるんだろ」 「それはわからないが、これが彼にとって有利な勝負というのはわかる。卓球に力は不要だからね。小さな子供が大人を平気で負かすことができる。それに、僕はね、『どんな質問にでも答える』ということは、未来の内容についてもある程度は予測できるということじゃないかと思うんだ」 「どういうこと?」 「天気予報と同じさ」 とキッタくんは事も無げに言う。 「あくまで仮説だが、仮に『さとるくん』があらゆる知識に精通しているのだとすれば、確率の高い予測を行うことはできる。たとえば相手が次にどう動くだとか、球がどこにくるかだとか」 「相手がどこに打ち込んでくるかわかるってこと? 反則じゃない?」 「そうかもしれないね。でも君、できるかい? 卓球の最高速は新幹線と同じくらいの速さだというぜ。いくら落ちる位置がわかっているからといって、打ち返せるかな。新幹線の速さで矢継ぎ早に放たれるピンポン玉をさ」 「無理」 考えるまでもない。目の前の試合を見ていればわかる。 キッタくんも「だろうね」と卓球台に視線を戻した。 「打ち筋が事前にわかってもそれに合わせて動けないんじゃ意味がない。わかることとできることは違うのさ」 「じゃあ、すごい高度な勝負ってことか」 「君は素直に感心してくれるなあ。これは別に怪異関係なく、普通の卓球でも同じような読み合いはあるだろうに。……だが『温泉卓球』の特殊ルールが加わると、これは圧倒的に彼のほうが有利なんだよ。普通の人間には温泉地の名前をあれほどすらすら暗唱するのは無理だ。『さとるくん』があらゆる質問に返すことができる怪異だからこそ成立する特殊ルールだと思うんだが。むしろ相手方がどうしてここまでついてこられるのか不思議なくらいだ」 相手がただの卓球がうまい温泉コンシェルジュなんじゃない? と言いかけたとき、試合に動きがあった。ラリーが止まったのだ。 「タウポ……さっき、一度出ましたね……」 「……そーだっけぇ? 誰かさんが、口の中でごにょごにょ〜って言うばっかりだからぁ、聞き取れなかったなあ。っていうか、自分が言ったって、勘違いしてるだけじゃない?」 「…………審判」 ぜえぜえと息も絶え絶えのふたりがこちらに審議をあおぐ。 キッタくんが対戦相手側に1点を入れると、さとるくん側からはクレームの声が挙がった。 「あんた誰の味方なんだよ!」 「僕は誰の味方でもない。審判は公平だからね。君もそれでいいと言った」 このひと、本当に審判としてここにいるらしい。 「これで両者とも同点だ。先に点を取った者がこのセットの勝者、ひいては2セット先取の勝利者となる。心して臨んでほしいな」 そしてよくわからないが熱い対決であるらしい。 「ここで止めときゃいいのに、まだやるわけぇ? ここで大人しく負けを認めて引き下がっときゃいいのに。あんたは俺には絶対勝てないんだって。見えてんだよ。わかれよ」 「…………怖いんですか」 「はぁ?」 「…………負けを認めるのが、怖いんですね」 「はあぁ?」 治安最悪だし。スポーツの秋にふさわしくなさすぎる。 ……本当に、なんで炎天下で卓球なんかやってるんだろう。 「そんなに言うならわからしてやろうじゃん。泣いちゃったらごめんね〜?」 サーブはさとるくんからだ。余裕ぶった態度とは裏腹に、無造作ふうに束ねた金髪ももはやぐちゃぐちゃで、傍目に見ても気の毒なくらい消耗しているのがわかる。 「…………」 対する相手は無言でラケットを構える。 「――ゲッレールト!」 かけ声とともにピンポン球が盤面に放たれる。 全然知らないかけ声が出たな、と度肝を抜かれるぼくに、キッタくんが新設にも「ハンガリーの温泉だよ」と解説を加えてくれる。その手に開かれているのは『世界の温泉 索引篇』と書かれた辞書みたいな本。なにそれ、と尋ねるのも馬鹿馬鹿しい気がして、ぼくはそっと口をつぐんだ。……世界には色々なものがあるんだな。 「君は別に平気そうだね?」 油断していたところにキッタくんが突然そんなことを訊いた。 「平気ってなにが?」 「対戦相手だよ。都市伝説『さとるくん』とまともに渡り合うような人物だ。なにか感じたりはしないのかい?」 「つまりそれって、人間じゃないかもってこと?」 そうとも、とキッタくんがうなずく。と同時にぼくのほうでは、さっき試合が中断する前に尋ねようとしたのはこれのことだな、と感づいた。 「オレのこと霊能探知機かなにかだと思ってない? さとるくんもだけど、ぱっと見ではわかんないからなあ」 透けてるとか、手足が多いとか、そういうわかりやすい特徴があると楽なんだけど、と言いつつ目をこらす。 少なくともぼくの記憶にはない。 というより相手は大人だ。しかも知り合いにはいないタイプっていうか、服装がものすごくメンズっていうか、B系な感じっていうか……近寄りがたい雰囲気だ。対するさとるくんは黒いシャツにジャラジャラとアクセサリー……物理的にもチャラついた感じだ。この二人を見比べると、ある意味友達でもおかしくなさそうな気もするが、相手のひとのほうはなんというか、不健康な感じがする。路地裏で怪しげな薬を売りつけてくるのが似合いそうな、そんな雰囲気。 坊主なのが悪いんだろうか。ぼくも実家が寺だからひとのことは言えないが、強い格好をしたときのスキンヘッドはカタギに見えない。つば付きのキャップのせいで緩和されていなくもないが、キャップから出た耳にはさとるくんに負けずとも劣らずの数のピアスがついているし、背もすごく長い。正直に言って怖い。怪異じゃなくても積極的には関わり合いになりたくない。 「そもそも、相手のひとってさとるくんの友達か何かなの?」 「いや、様子を見るに初対面のようだよ」 「初対面?」 「うん。僕は途中で通りがかっただけだから経緯は知らないが、互いにろくに相手のことを知らなさそうだったし、さっき駅前で出くわしてそこからって」 「待って待って。初対面の人と温泉卓球で意気投合することってある? 本物の温泉でならともかく駅前で? なんで?」 「それは知らないよ。でも意気投合はどうだろう。相手のほうはどうにも困惑した様子でね、『温泉卓球というのは、温泉地でやるから温泉卓球じゃないんですか』ってさ」 「それはそうだろうね」 対戦相手のひとに一気に親近感を持ってしまいそうだ。一方でさとるくんに対しては不信感が募る。 だってそんな、初対面の人に……辻温泉卓球を……? それもあんな怖そうな人に……よくもそんなこと……。 クラスメイトとはいえ怪異。することなすことよくわからないな。普段から意味もないのに授業中メール送ってきたりするし、夜中の2時に着信履歴残してきたりするし……と渋い顔になるなかで、 「Tくん」 とキッタくんがぼくを呼んだ。 「君、今日は僕に用があったんじゃない? 今朝方メールを送ってきただろ」 「ああ、そうそう、そうだっけ。あー……でも、改めて考えてみると別にそこまででもないっていうか、なんでもないことなんだけど。起き抜けで多少混乱してたっていうか」 「なんだい、気になるじゃないか」 キッタくんがずいと身を寄せる。ぼくのほうでも話したくないというわけではない。むしろ話すつもりでキッタくんに連絡を取ったのだ。ただ、公園に着いてみると温泉卓球が予想外に白熱していたので、なんとなく切り出すタイミングがなかった。今なら話す良いタイミングだろうか。 実はさ、と好奇心に満ちたキッタくんの目を見つめ返す。 「晩に変な夢を見て」 「夢?」 「うん。妙にリアルな夢で、列車に乗る夢なんだ。遊園地の、お子様列車みたいな。それがちょっと変な……嫌な感じの夢で、それでちょっと、話を聞いてもらいたかったんだけど」 「……その夢というのは、」 なにか思い当たるところがあるところがあるのだろうか。 開きかけたキッタくんの口がつむぐ、次の一言に期待を寄せたそのときに。 ――唐突に、鋭い破裂音がした。 思わず身体がビクッと飛び上がる。 銃撃でもあったのか? 反射的に音のしたほうに視線がいく。卓球台のほうだ。ただしラリーは止まっている。ラケットを振りかぶった体勢のまま、両者ともにどこか驚いたような表情で、彼らの視線がゆっくりとこちらを向く。こちらを――正確には、ベンチと卓球台の間の地面を。 そこにはつるっとした、オレンジ色の半球が転がっていた。 直感でわかった。これはピンポン球だ。 ラリーの激しさに堪えきれず、ピンポン球が破裂したのだ。 「……いや、そんなことある?」 「ピンポン球はこれで繊細なつくりだからね」とキッタくんが無残な姿の半球をつまみあげる。「破裂とまではいかなくても球がくぼんだり割れたりするくらいはあるよ。基本的には衝撃に弱いんだ」 「ふーん。ちなみに、試合の途中で割れたらどうなるの?」 「さあ……普通に考えれば球を交換して再開になるんじゃないか?」 「ちなみに球の換えは?」 「ここにはないね。彼らが用意してなければだけど」 彼らが、というか彼一択だ。さとるくんが温泉卓球を持ちかけたなら、道具や一式は彼の仕切りだろう。対戦相手のひともまた同じように思ったのか、キャップの下からさとるくんをじっと凝視している。 「……やめたやめた! やーめたっと!」 二方向からくる視線に堪えかねたさとるくんがそう言い出すのは秒だった。 ラケットをテーブルの上に滑らせるように放り、空いた両手で額から垂れてきた汗を拭い取る。 「球が割れたんじゃ仕方なくね? 卓球抜きで温泉言い合いっこ〜とか、締まらないことしたくないっしょ。ね? だーかーら、今回は見送りってことで、決着が着くまで約束は保留、それまでは手出し無用ってことで」 約束? 手出し無用? よくわからないが、なにか賞品でも賭けて戦ってたんだろうか。 「…………別に、いいですけど」 大きな息を吐き出してから、対戦相手はぼそぼそと喋った。声が低い上に張りがないので、ベンチからだとかろうじて喋っているのがわかるくらいだ。 「いったい、…………まあ、興味ないんで……どのみち今日はオフですし……」 耳を澄ませても断片的にしか聞き取れない。卓球で疲労して気だるげなのか、それとも元からこんな感じなのか。一見するだけではどちらとも解釈できる。 ひとまずは試合終了、ということでいいんだろうか。 「引き分けってところかな」 キッタくんが腕を挙げて大きく伸びをする。 「審判ってのも疲れるね。休みの日にするもんじゃないなぁ」 「おつかれさま。……キッタくんも、なんで審判なんてやってたの」 「通りすがりだよ、本当にね。豆を買い足しに行く途中で声をかけられてさ。知ってのとおり、彼は僕のことを煙たがってるだろう? その彼がなぜか嫌々って感じで声をかけてくるもんだからね、これは面白そうな……もとい、なにかありそうだなと思ってついてきたのさ」 「キッタくんほんとそういうとこあるよね」 「でも肝心なところはなにも説明なし。公平さにもとるから審判をやれだと。ちょうどいい、君から聞いてみてくれよ。卓球対決も終わったみたいだしさ」 そもそもなんで卓球対決なんかやってるのかって点が謎だもんな……。 もしかすると、初対面だけど卓球を通じて仲良くなりたかったとか。あるいは友達の友達的な、微妙なラインの知り合いだとか。想像は色々できる。だが、 「このあたりに温泉は?」 「さあ? ジジイじゃあるまいし、温泉とか入らねーから。ググってみたら?」 「…………では公衆電話はどちらに」 「はあ?? ンなくだらねー要件で呼び出したらマジ殺すからな!」 ……ふたりのやりとりを見ていると、関係はかなり微妙だ。 さとるくんのほうが若干余裕がないというか、ピリピリしている気がする。これでどんなテンションで「温泉卓球やりませんか。そこの公園で」って誘ったのか気になるところだ。 「銭湯ならあるんじゃないかい?」 と、キッタくんが不意に会話に口を挟んだ。 「ほら、あっただろう。住宅街の途中にさ」とまさかのぼくに話を振る。 キッタくんは夏休み明けに来たばっかりの転校生、この中じゃぼくが一番土地の古株だから、ここでぼくに話が来るのは当然だ。だけどなんの心構えもしていなかったもんだから、咄嗟に言葉に詰まった。 「あ、ああ、それって月乃湯のことだね。……ええっと、ここからなら、公園のあっち側から出て、交差点の方向に歩いた先です。たぶん十分くらいで着くかな。町の風呂屋って感じだから、そんな立派なやつじゃないですけど」 しどろもどろの説明が聞き取りづらかったのだろうか。卓球相手の男のひとはふらっとこちらへ近づき、ぼくの真ん前に立った。こちらがベンチに座っているのもあるが、近くに立たれるとものすごい威圧感だ。おそるおそる目線を上げる。 「……あの」 無言だ。なにもいわない。 キャップの下の影になった両目が、無言でじっとこっちを見ている。 いらぬ道案内を言ってしまったことを後悔したが、今さら目を離すも恐ろしい。相手の両目の下には影だけではない、分厚いくまがあった。くまだ、と一目でわかるくらいに濃いくまを見るのは初めてだ。いったいどれほど眠らなければこんな濃くくまになるんだろう。どこか生気のない目で見つめられると、卓球の疲労だけではない、このひとの不健康さは生来のものなのだという気がしてくる。 「なるほど」 「え?」 じろじろとこちらの顔を眺め回した挙げ句、相手は小さな言葉とともに口元を撫でた。というか撫でるその唇のところにもピアスを通している。耳だけで結構な穴が空いてるのに口も。こういうのって痛くないんだろうか。 「……つきのゆ、ですね。交差点の先の」 どうも、とお礼を言われたのだと気づいたのはその後だ。 彼がキャップのつばを指でつまんで少し下げ、まるで挨拶でもするかのように目深にかぶった、その後で気づいた。 「…………またのご乗車を、お待ちしております」 ぼくはその声を、似た台詞を、どこかで聞いたことがある。 なんの脈絡もない台詞。そのことになぜ一瞬だけ背筋が寒気立ったのか、その理由は自分でもわからない。 だがぼくは相手の男がこちらへの興味を失ったように、ゆらりと踵を返したことに、少しだけほっとした。背の長い後ろ姿が遠ざかる。キッタくんかさとるくんか、もしかするとそのどちらかが呼び止めるのではないかと不安がよぎるが、ふたりもまたぼくと同じく、銭湯方向へと遠ざかる男のひとをじっと見ていた。あのひとがどういうひとなのか。考え事をしているふうなキッタくんに尋ねてみたい気はしたが、どうしてだか気が引けた。 「行った、な」 ――と、さとるくんがその場に滑り落ちるようにへたり込んだ。 突然のことにぎょっとしたが、直後に「死ぬ! 疲れた! 疲れ死ぬ!」とわあわあわめきはじめたので安心した。緊張の糸が切れた、そんな感じなのだろう。さとるくんのいつもどおりの感じが、いまは無性にありがたかった。 「……そんなに卓球好きだったっけ。選択体育、バスケとか取ってた気がするけど」 「これの、どこが好きに見えるわけぇ?」 軽口のつもりでこぼれた台詞に、さとるくんは口元を引きつらせた。 「だーれがあんなんと好き好んで卓球なんかやるかって! 温泉の名前言いながらラリーって、馬鹿かよ! 温泉卓球ってのは温泉でやるもんだわ! 知ってるわ! 行動予測と温泉地暗唱と超高速卓球と全部同時進行って、マジふざけんなって感じなんだけど」とここまでを吐き捨てるようにまくしたてる。腰が抜けて立てないみたいな体勢だが、思いがけず元気そうだ。よかった。 「いやよかねーわ。死にそうだわ。もうスマホより重いもん持てねーわ。こんなしんどいなら家で寝ときゃよかった……」 「じゃあなんで卓球なんか」 「だってこっくりの兄ちゃんがさぁ……」 「こっくりの兄ちゃん?」 「それって『こっくりさん』かい?」 考え事をしていたキッタくんがぱっと顔を上げた。さとるくんのほうでは、しまった、という顔をしたがもう遅い。目を輝かせてさとるくんに詰め寄る。 「やあ、やはり怪異同士ってのはつながりがあるものなんだね。差しづめ、問われて質問に答える怪異同士ってところか。君とは兄弟関係なのかい? 君は電話でこっくりさんは紙を使うが、連絡にはなにを使うのかな。それとも直接……」 「あーもー! だからあんたを呼ぶのやだったんだよ! 根掘り葉掘り聞こうとするからきらい! もーきらい!」 「じゃあ答え合わせだけさせてくれ。――さっきのあの男は『猿夢』だろう。Tくんが見たという列車の悪夢に関係している。駅でばったり出くわしたと君は言ったね。それは偶然かい? それとも君が呼んだのかい?」 ぼくの夢がなんて? キッタくんが言わんとしていることがまるでわからない。なんだろう答え合わせって。限りなく情報がない中でなにがわかったっていうんだ? さとるくんもぼくと同じかと思いきや、彼のほうではキッタくんの言葉にごく苦い顔をした。 「……あんなもん、呼んで呼び出せるわけないだろ」 「それで君は、ここで邂逅しておくことに意味があったと?」 「Tくんさあ、こんなやつに相談しない方がいいって絶対」 「えっ」 「相談相手なら俺にしときなって、悪いこと言わないから。このひとに相談してもろくなことにならんわ。んで、あんたはあんたで俺を便利道具扱いするのやめてくれます? あんな雑な呼ばれ方しても迷惑なんですが?」 「? 僕はまだ『さとるくん』を試したことはないと思うが」 「するんだよあんたは。するの、条件が揃いさえすればする。間違いなく、 断定口調でそう言って、さとるくんは卓球台――もとい、売店のテーブルにネットを張ったものに手をつき、そのままどさっと卓上に座り込んだ。 「……ほらもー、あんたらと話してたら余計に疲れたじゃん。アイス買ってきてアイス。おいしいやつね。あと飲み物。つめたいやつ。で、Tくんそれ取ってそれ、一式全部」 実に横暴な態度だ。言われたとおりにリュックを取って持っていってやると、さとるくんは中から眼鏡を取り出した。悠々とレンズを拭き、色むらのある金髪を耳にかける動作とともに、目立つ黒縁を装着する。 あとはどこからともなく携帯だ。もう一歩も動きたくないらしい。どうしようかこれ、とキッタくんに視線を送ると、キッタくんはキッタくんで「おだてて口が軽くなるんならいくらでもおだてるんだが」と身も蓋もないことを言うから困る。 「言っとくけど、これギムだから」とさとるくんは液晶画面を触りながら言った。「現時点であんたらは俺に、アイスの100個や200個おごったって足りないくらいの恩があんだからな。そこんとこよく理解してほしいよねー」 「恩って……」 現時点でぼくらは不毛な卓球対決を見せられただけじゃないか。 「全然心当たりないけど、何の恩?」 「ん〜? そりゃああれだって、知らないほうがいいってやつ?」 「いや、なんでそんなもったいぶって」 「知りたい?」 「えっ」 「ほんとにしりたいの?」 さとるくんが僕の腕をつかむ。その感覚にぞっとして思わず僕は腕を振りほどきそうになった。さっきまで卓球でさんざん熱を発散していた彼の手は、驚くほど冷たかった。まるであの世へ引きずる亡者の手のように。 「知りたいなら教えてあげようか」 ――『さとるくん』は呼び出した人間をあの世へ連れて行くことがある。 場違いに思い浮かぶのはそんな一節だ。 目の前の彼はまるでぼくの思考を読み取ったかのように、伊達眼鏡の奥を歪ませてにたりと笑った。 「うん。僕は知りたいな」 とキッタくんがにこにことして、僕の腕をつかむさとるくんのさらにその手をつかんだ。「せっかくならこんなところじゃなく、もっと落ち着いて話のできる場所へ行こうじゃないか。Tくんもそれでいいだろう?」 「え? あ、うん」 「いやそこは『うん』じゃないだろ!」 さとるくんが腫れ物にでも触れられたような勢いで両手を引っこめる。露骨に嫌そうな顔だ。――だがぼくは知っている。こういうときのキッタくんはむしろ止まらないのだということを。 「どうせなら銭湯のほうが良いかい? さっきの彼も今ごろは湯船に浸かって休んでいる時間だろう。どうかな、場を仕切り直すというのは」 「いやいやいやいやどう考えても気まずいってそれはまずいって」 「なぜだい? あれは『猿夢』なんだろう? 夢を支配する怪異なら、昼間の起きてる時間帯に接触できるに越したことはないじゃないか。夜に夢の中で会うよりもずっと危険は少ない」 「ちょっとTくんこのひとどうにかしてほしいんだけど」 さとるくんが助けを求める目でこちらを見る。ぼくにキッタくんをどうにかしてほしいという。気持ちはよくわかった。ぼくは彼の切迫した視線に対し大きく頷いた。無理だ。 「……卓球で汗かいてるみたいだし、ちょうどいいんじゃないかな」 散歩と評して動物病院へ連れて行かれる犬の顔。そんな感じだ。いたたまれなくなって視線を外す。……怖いものは色々あるけれど、人間が一番怖かった、みたいなオチの話なのかもしれない。 「Sのつく怪異と踊れ」B面 または「月上ゲ町奇譚」番外 了 |