Sのつく怪異と踊れ



 たとえば唐の玄宗皇帝が悪鬼に見舞われた際、鍾馗しょうきという男が夢でこれを救い、皇帝の病を見事に癒やした。唐、つまり中国の古い話、具体的には八世紀前半のことだ。玄宗皇帝はいたく感激し、鍾馗の絵を貼れば邪気が払われるとして、民間にも広くお触れを出したという。同じような話は唐の太宗皇帝にもある。夢枕に立つ悪霊を祓うため、武功の厚い武官二人を立たせたところ、うなされることがなくなったという。この出来事が転じて二人の武官は二柱の門神となった。扉に門神二柱の絵を貼れば悪いものを寄せつけぬとして、彼らは現代においても民間信仰の中で生き続けている。
 何が言いたいかというと、悪夢の話である。
 人間は昔から悪い夢に悩まされ続けてきた。
 思えば夢くらい本人の意思でどうにもできないものもない。夢は時に残虐で理不尽であり、なすすべもなく人を飲み込む。だから人は門神を扉に貼ってこれを祀る。ニンニクやタマネギを窓辺に吊す。弦を張った弓を枕元に置く。金物を置く。鏡を置く。水を入れた器を置く。神にも祈れば仏にも祈る。それらはすべて、悪夢を寄せつけぬための防衛手段である。
 なんともいじらしい抵抗ではないか。寝ている周りをどんなに守らせたって、どんなに夢が怖くたって、眠らずにいることなんてできない。人間は生きている限り眠りが必要であるし、夢を見ることになる。そしてその内容は、現実世界で幾ら対策を講じたところで、悪夢であるときは悪夢なのだ。
 だからTは、次は自分なのだと思った。
 あの男は前回「次に来た時は最後」だと言った。
 次とは今だ。
 次とは自分だ。
 次は自分が呼ばれる番だ。
 それは思い込みでもなんでもなく、確信だった。
 なぜならTは、本人がそれと自覚する間もなく、気がつけば電車の座席に揺られていたからだ。辺りはすでに暗く、トンネルの中に入っているらしい。その電車は、電車と言っても遊園地にあるような「お猿さん電車」だ。トロッコのような車両が数珠繋がりに並び、乗客は進行方向に向かって一列になるよう座っている。Tの座席は後ろから三番目だ。この夢を見始めた最初の日に、Tは駅でその座席を選んで座ったのだ。
 ――夢? そうだ、これは夢だ。

「次はえぐり出し〜、えぐり出しです」

 先頭車両の方向から、陰気な声で男のアナウンスが響く。
 駅のアナウンスを模しているくせに、電車が駅には止まることはない。
 すべて夢だ。Tがこの夢を見るのはこれで三度目だった。
 オレンジとグリーンと紫の灯りに照らされたトンネルの風景も。
 頬をよぎる湿った風も。
 すぐ後ろから聞こえる女性の、こちらの鼓膜が破れそうなほど大きな悲鳴も。
 血と汗の生臭いにおいも。
 振り返らずともわかる肉の飛沫も。
 見えぬところでカサカサと蠢く、小さな気配も。
 夢とは思われぬほどに臨場感を帯びているが、これは夢に違いないのだ。
 夢ではまず始めに一番後ろの席の男性が呼ばれた。その次に後ろから二番目の女性。そして三番目がTの席だ。一番後ろの席の男性は「活けづくり」だった。だから生きたまま刃物で解体され、魚の活けづくりそのものの姿にされた。後ろから二番目の席の女性は「えぐり出し」だった。だからギザギザとしたスプーンで生きたまま眼球をくりぬかれた。ならば、三番目は何だ? 三番目は何とアナウンスされる?
 考えがそこに至るにあたり、Tは膝に置いた手を硬直させた。手のひらに食い込む爪も、噛みしめた奥歯の軋みもあまりにリアルで、所詮は夢だと切り捨てることはできなかった。夢だとしても、夢を見ている者にとって痛みは痛みであり、死は死以外の何物でもない。そう思えばこそ、どうやっても震えが来るのをこらえることはできなかった。

 なぜ自分がこのような目に遭わなければならないのか。煩悶するが答えは出ない。強いて言えば最初に電車に乗ったのが悪かったのだろうか。だが、夢で、駅で、電車が来たのだ。そのときの自分に乗らない選択肢はなかったように思う。
 夢は、一度目は駅で電車に乗るところから始まった。二度目はもう座席に座った状態で電車が発車していた。そして三度目は「活けづくり」の後からだ。間違いない。この夢は近づいてきている。自分に狙いを定めているのだという確信がそこにはあった。

 君、それは『猿夢』だね。
 とYが言った。YというのはTの高校の同級生だ。
 そのYはTのすぐ右手側にいた。走行中の電車の外から身を乗り出すような体勢だ。
 とはいえ電車と言っても屋根のない、遊園地で子供が乗るトロッコ列車のようなものだ。車体といってもたかが知れている。あの体勢では足を地面に擦ってしまうのではないかと思われるが、それもそのはずでYの身体は腹から上の部分だけしかなかった。上半身だけでトロッコ列車に腕をひっかけているのだ。
 おい君、そこは“トロッコ列車”ではなく“お猿さん電車”と言わないと。と、Yはよく回る舌でもって言った。そもそもだね、『猿夢』ってのは猿が出てくる夢じゃない。よく間違えられるが猿は関係ないんだな。不吉な停車駅を告げるアナウンスと、処刑役の凶悪な小人、それがこの夢を構成している。『猿夢』という名前はね、この夢を語った人物が電車を“お猿さん電車”のようだと評したから、便宜上そう呼ばれているだけなんだよ。お猿さん電車に乗せられる夢だから『猿夢』なんだ。
 上半身だけのYはよくしゃべった。Yはそういう方面には詳しい友人だ。だからTはこの奇妙な夢が続くようになったころ、Yに相談したのだ。Yは続けて言う。だがそれが続くとどうにもまずいぜ。だって、次を見たら君は最後だ。ほら、耳を澄ませてみるといい。そろそろだ。
 とそこで、どんよりとしたアナウンスが流れる。

「次は挽肉〜挽肉です〜」

 マイクの先にいるのはきっと陰気な男だ。そいつは車両の先端のほうにいて、いかにも憂鬱という顔で電車を動かしている。そして億劫そうにマイクのスイッチを入れるのだ。
 次の駅は、挽き肉。
 鍾馗に願ってみるか? 門神を頼ってみるか?
 でもそれはおまじないのようなものだ。現実では、夢の中の現実では効果がない。
 ウイーン、という音にTは後ろを振り向いた。後ろの車両から、ぼろきれのようなものをまとった小人が四人こちらへ飛び移ろうとしている。一番大きい小人は自分の身体の倍もありそうな機械をかついでいる。ウイーンという音はこの機械が発する音だ。歯医者が使うドリルにも似ているが、より大ぶりで、人間の腕くらいなら簡単に飲み込みそうな、穴の開いた機械。
 そして次の駅は、挽き肉だ。
 これから自分が何をされるのか、どんな目に遭わされるのか。Tにはそれが手に取るようにわかった。
 ならどうすれば助かる、これが夢ならばどうすれば覚めるのか。当然ながら次に考えるのはそれだ。だがそんなTを嘲笑うかのようにYは言った。無理だね。普通にやったんじゃ助からない。夢から覚めろと念じてみるのもいいが、それは一時的な対処法であって解決策にはならないんだ。
 なぜなら夢は夢だから。人間は眠ることなしに生きることはできない。どんなに夢が怖くたって、いつかは眠るし、夢を見るのだ。夢に、呼ばれるのだ。
 と言う間にも、大ぶりな機械を持った小人が、身軽な動きで車両を飛び移った。ぴょんぴょんと縁を伝うようにし、Tのすぐ真ん前を陣取る。トンネル内のオレンジと緑の光が、醜悪な小人の笑みを不気味に照らす。その顔は老人とも子供とも言いがたい。ニタニタとしたシワだらけの小人が、Tに見せびらかすようにミンチマシーンを揺らしてみせ、ウイーン、と回転を強めてみせた。
 後ずさろうにも、遊園地のお猿さん電車の小さな座席だ、たかが知れている。前には小人、そして後ろには『えぐり出し』、さらに後ろには『活けづくり』だ。
 電車に受ける風だけではない、脂の臭いを伴う風圧が鼻をつく。
 と、そのときだ。

 ピリリリリリ、と音が鳴った。

 電子音だ。ピリリリリリ、ピリリリリリとなおも朗らかに鳴り続ける。あまりにも場違いな音なので、Tは最初、四人いる小人のうちのどれかが発する音だと思った。だが小人のほうでも、おまえかおまえか、どこだどこだとせわしく首を回している。
 音は、Tのズボンのポケットからだ。
 手で触れると堅い感触がある。
 取り出すと、それは携帯電話だった。
 電話の着信音だったのだ。画面には「非通知設定」とある。
 Tは一瞬どうしたものかと迷った。見れば、小人たちもこんなことは初めてなのか、おいどうするどうするよと顔を見合わせあっている。そんな彼らの動揺を断ち切るように、プツン、とマイクのスイッチが入る音の後、沈黙を挟んで、

「……携帯電話は電源をお切りいただくか〜、マナーモードでご利用ください」

 と息継ぎさえも面倒という調子で、車内アナウンスが入った。
 アナウンスの間にも電話は鳴り続けている。僕なら出るだろうね、とYは言った。すでにYの姿は周囲のどこにもない。電車に乗ったのは最初からT一人だ。だからこれはTが夢で作り出したイメージであって、Yという人物はどこにもいない。そのYは、振り向けばすぐ後ろにいるような近さでTに囁いた。
 思うに、ルールに従ってはいけないんだ。場を作る怪異というのはね、自分の敷いたルールを守らせることで場を支配するのさ。だからルール内に助かる方法がないなら、そのルールは守っちゃいけない。破るべきだ。だからね、いっそこんなのはどうだろう。ほら、昔から言うだろう。目には目を、歯には歯を、化け物には化け物を、とね。
 ピリリリリリ、と電話はなおもTの手の中で「非通知設定」の画面を光らせている。
 で、どうする? 僕は君に任せるよ。
 いくら逡巡したって、最後には結局電話を取るのだ。
 ……だってこれは君の夢なのだから。
 確かめずにはいられないだろう。人間は、いつだって箱の中身を覗きたがる。
 Tの指は通話のボタンを押していた。自然な動きで耳に当てる。

『もしもし、ぼくさとるくん』

 電話口から聞こえてきたのは、男の子の声だ。
 それはきっと幼い、声変わり前の少年の声としてTの耳に届く。
『いま、後ろの車両にいるの』
 Tはぐっと息を呑んで振り向きたい衝動をこらえた。
 やっと思い出したのだ。自分が同じような電話を、すでに複数回にわたって受け続けていたことを。ただしそれはこの夢の中の話ではない。現実でだ。
 ――彼が『さとるくん』の電話を受けたのは、これが初めてではない。
 呼び出せばなんでも答えてくれる、『さとるくん』はそういう便利でポップでキュートな怪異だ。電話のたびに距離が近づいて、最後に後ろに立ったときに質問すれば、どんな悩みも解決というわけである。Tは現実にこの怪異を試した。だから電話が来た。まさか夢の中にも電話が来るだなんて思ってもみなかっただろうが、電話は鳴ったのだ。
 だからTは、質問しなければならない。
 もっとも、この状況で尋ねることなんていくつもないだろうが。

「この夢から覚める方法は?」

 それがTの質問だ。
 もちろん、『さとるくん』にはお見通しだ。Tがその質問をするであろうことも、もちろんそれに対する回答もである。
 だからこう答えた。

『簡単だよ。後ろを向くんだ』
「え?」
『後ろを向いて。振り向くんだよ』
「だって、それは……」

 Tの声色に困惑が混じる。どうやら物忘れの激しい彼には珍しく、覚えていたらしい。
 だからTはいまこう考えている。本当に言うとおりにしていいものか、と。
 後ろを振り向くこと、すなわち見るなの禁を破ることは、『さとるくん』における絶対のタブーのはずだからだ。にもかかわらず、その『さとるくん』本人が後ろを向けと言ってくる。いったいどちらを信じるべきなのか。考えるのは道理というもの。だがその道理がいつまで続くものか。
 だってここはまだ『猿夢』電車の中なのだ。
 耳を澄ませるまでもない、例の車内アナウンスが鳴る。
「お客さん、車内での通話はマナー違反ですよぉ〜」
 Tへ向けた直接のアナウンスだ。男の低い声はわずかに苛立ちを含んでいる。職務に不真面目なわりに、仕事を邪魔されるのは気に入らないらしい。苛立ちの理由は明らかに『さとるくん』との通話だ。通話中の間、処刑道具を持った小人たちは、なぜか細かく痙攣を繰り返すばかりでその場を動かない。見えない力に押さえつけられているがごとく、襲えないのだ。
 膠着状態の中、声だけが行き交う。

「聞こえてますか〜?」
『後ろを向いて』
「電話をきってください」
『いいからこのまま』
「ひどいめにあいますから」
『はやく そうしないと』
「おそろしいめにあいますよ」
『こうかいするよ』
「いまからそちらに」
『うしろに』
「いきます」
『いるよ』

 電車は止まる気配がない。
 トンネルは永遠に続いているとしか思われない。
 そんな中、何両か向こうの運転席の扉が開いた。
 オレンジとグリーンと紫の、地獄のハロウィンじみた明滅の先。
 扉からのっそりと頭を出す。駅員帽をかぶった長身の人影が。顔は見えずともこちらをたしかに見据えている。人影は走行中の電車であることなど意にも介さず、長い手足でまたぐようにして一両目の車両に侵入した。アナウンスから感じた気だるさとは真逆の俊敏さだ。まるで人間離れした動きにTは動揺した。だから彼は、手に持った携帯電話のことを一時的に忘れた。
 突然の敵の襲来につい逃げ場を探してしまうのは、生物としての性だ。
 そんなつもりはなかった。それはもちろんそうだろうとも。
 事故のようなものだ。決意など持っていなかった。
 言い分はわかる。
 わかるとも。
 だがこの人間は振り向いた。
 ――後ろを見た。見たのだ!

 後ろに待っていたもの。Tが見たそれを形容するとすれば――たとえば、闇が口を開けていた、とでも言おうか。何しろTはそれを目にした瞬間、死ぬほど後悔した。それは刃物や、それこそ小人が突きつけてきたミンチマシーンのように、目に見える痛みとは違う。もっと根源的な恐怖だ。身の底から湧き上がる、耐えがたい怖気だ。
 Tは思わず電車の縁にしがみついた。この闇に身一つで飲み込まれるくらいなら、挽肉なり活け造りなり、別な死に方を選ぶほうがましだと思ったのだ。ところがしがみついたTの手に、闇はまるで寄り添うようにその腕をすべらせた。皮膚の上を無数のムカデが走り回るような感覚に、Tは思わず悲鳴を上げた。とても生きた温度をしていない、粘性を帯びた冷凍のムカデだ。
 むちゃくちゃに振り回されたTの腕に、小人の一人が電車からはたき落とされる。それを見たTの脳裏に、電車から飛び降りるという解決策が浮かぶがすべてがもう遅い。ぞるん、とTの胴体に腕を回した闇は、そのままTを悠々と持ち上げた。持ち上げて、丸呑みにした。頭から丸呑みにした。呑まれる瞬間に悲鳴が上がったが、すぐに消えた。

 それで終わりだ。
 後に残ったのは空席だけ。

 最初から誰も乗車していなかったかのように、がらんとした空席だ。その足元に携帯電話だけが明かりを光らせている。八年も前に発売された古い型だ。物に愛着を持ってというよりは、無頓着であるがため古くても構わずに使い続けているのだ。通話終了のボタンを押し、画面を閉じてポケットに入れる。蒐集そのものに特に意味はない。謂わば戦利品のようなものだ。

「……感心しませんね」

 ぼそりと言ったのは、乗客をなぎ倒すように移動してきた車掌だ。
「無賃乗車は、……困ります」
 アナウンスと違ってマイクを通さないからか、それとも単純に背が高いからか、風を切って走る車両上にあって男の声は聞き取りづらい。
「……横取りも、いただけません」
 聞き取りづらいが、何を言っているのかはわかる。ここは夢で、猿夢で、彼にとっては自分のテリトリーだ。自分の狩り場でよそものが挨拶もなしに好き勝手振る舞うのだから、良い気はしないだろう。だがこちらにだって言い分はある。
「ぼくだって呼び出されてここに来たんだ。謂わば仕事だよ、お互いにさ。で、お互いが仕事をした結果、今回はぼくのほうに利が転がってきた。文句は言いっこなしだろ」
 ――Tは正規のルートで『さとるくん』を呼び出した。友人のYに言いくるめられるまま、『猿夢』に対する対抗手段としてそれをやったのだ。公衆電話に10円玉を入れて自分の携帯番号にかけて「さとるくん、さとるくん、おいでください。」の呪文を唱えて『さとるくん』を呼び出した。正式な手順を踏んだのだから、対象がどこにいようが関係ない。Tが夢を見ていようが猿夢の電車に乗車していようが、介入するには十分だ。
 そして、呼び出された以上は最後まで完遂する必要がある。
「ね。だからやめようよ。大人げないよ。いたいけな子供相手にこういうのはさ」
 なるべくなだめるような口調で言う。もちろん効果はない。
 散り散りになっていた小人たちは、おのおのに処刑道具を携えて『挽き肉』執行予定の車両を囲んでいる。包囲網を解く気はないらしい。本当に大人げないことだ。こんなにもいたいけない、『男の子』としか形容ができない存在を相手に、暴力で対抗しようとは。猿夢車掌の目をしたところで、こちらの姿は何の変哲もない『男の子』だろうに。
「武器なんて持ってないよ。ほらほら、丸腰。ね?」
「……車内で騒ぐ子供には、相応の折檻おいたが必要でしょう」
「いやあ、それって無理だと思うけどなあ。残念だけど」
 だってこれこの文章は最初から最後まで、『さとるくんぼく』の観測するもの一人称だ。これは予見した未来なのだ。
 人は悪夢に対してなすすべもない。そうだろう、そうだろう、そのとおりだろう。だから神に頼る。物に頼る。夢に対してあらゆる防衛手段をとる。
 そしてまた、降りかかるべき未来に対しても人は無力なのだ。災いが起こる。危険が迫る。それらをすべて先んじて知る。遠く先に見えた蜃気楼に対して危害を加えることなどできない。それは怪異である『猿夢』もまた同じだ。彼のすることなすこと考えること、そのすべては手に取るように分かる。これは観測した未来の光景で、正規の手順でここまできた『さとるくん』はとびっきりのハイ。つまりあんたはぼくには絶対に勝てないってことだ!
「おっと、」
 没入しすぎた。距離を間違えると地の文でいなくてはこの地点で取り込まれてしまう。
 もっとも、ここにいたって『猿夢』が見逃してくれることはない。電車の速度はどんどん上がっていく。遊園地のお猿さん電車にはありえないスピードだ。立っているのがやっとなら、無理に飛び降りでもすれば最後、バラバラになるだろう。
 このまま夢から目覚めさせないつもりなのだ。ここに閉じ込めておくつもりなのだ。横取りした乗客の代わりに『挽き肉』にするくらいは平気でやるつもりなのだ。夢は彼らのテリトリ−、そうなんだろう。そのとおりだ。でも――なら、打ち破るのは簡単だ。電話の受話器を置くよりも、もっとたやすい。
 これが夢ならば、最後にこの一文を置けばいい。

 そこで、目が覚めた。と。



「Sのつく怪異たち」了




本作は金木犀様(@higanrindou)主催「電話電車怪異アンソロ」参加作品です。

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