白昼夢のアイスキャンデー 「……あなた方はあの水の音を聞かなかったですか」男は俄にわかに声を低めて云った。首を前につき出し、目をキョロキョロさせながら、さも一大事を打開うちあけるのだといわぬばかりに、「三七二十一日の間、私の家の水道はザーザーと開けっぱなしにしてあったのですよ。五つに切った女房の死体をね、四斗樽しとだるの中へ入れて、冷していたのですよ。これがね、みなさん」ここで彼の声は聞えない位に低められた。 「秘訣なんだよ。秘訣なんだよ。死骸を腐らせない。……屍蝋というものになるんだ」 ――江戸川乱歩「白昼夢」より アイスキャンデーというものをご存知でしょうか。そうです、そうです、果汁や何かを冷やして固めたあれです。アイスクリームとは別ですよ。あれはクリーム。そしてこちらは色とりどりの、棒に刺した氷菓子。見た目からして全然違います。あちらは何やら入道雲のようで、とりとめのない形ですものね。 違います、違います。私がお話ししようとしているのはアイスキャンデーのほうです。私にはよくわかりませんが、あれはきっと冷たい甘美な味がするのでしょうね。だって宝石のようじゃありませんか。白とブルーとピンクで、きれいなアイスキャンデー。まるで魔法の食べ物のようじゃありませんか。 だからね、あなたがたが事件と呼ぶそれも、元をただせばアイスキャンデーのせいであるともいえましょう。つまるところ、すべてはそこにかえってくるのです。そのくらい強く、私はあの氷菓子にあこがれてしまったのです。 そもそも私があれの存在を知ったきっかけは何だったか。 かねてからアイスキャンデーというものの存在は知っていた気もするのですが、少なくとも、私がそれを自覚できたのはこの夏に入ってからでした。 往来を行く人たちが手に何か棒のようなものを持っておりますでしょう。それもなんだか色とりどりの。あれは何でしょうなあと眺めていると、不意にあれはアイスキャンデーというものだねと、胸の内からささやく声があったのです。それでああ、あれがアイスキャンデーか、氷菓子のことだね、とようやく合点がいったのです。 最初はそのくらいで、もの知らずが少しだけ関心を持ったという程度でした。だけど、ちょっと想像してみてください。日がな一日を店先に立っているだけの私にとって、それがどんなに魅力的に映ったことか。日の当たらない軒下で過ごす私にとって、お天道様の下を堂々と渡るアイスキャンデーというのは全く対照的な存在でした。それにアイスキャンデーを手に歩く人たちときたら、いつだってなんだか楽しそうなのです。楽しそうに、かつは気怠そうに、口へ運ぶそれがつやつやとして、溶けた滴が棒を伝います。私はこんなにも暗い顔をしているというのに。 だからなのでしょうね、私はいつしかそれらの光景をうらやましく思っていました。 ええそうです、知ってはいても食べたことはありませんでした。どこへ行けば手に入るのかを知らなかったというのもありますが、私の夫であるという人は、たかだかアイスキャンデーのために外出しようなどとは言ってくれない人でした。私も頷いてくれないのをわかっていたから、あえて言い出さなかったのです。 食べてみたかった、のかしら。 ……いいえ、そもそもあの人は私を美しいと褒めそやすばかり。その美しい妻を店先に置いて見せびらかすので満足という人で、伴侶として連れ立って歩くような意気地はなかったのです。妻のほうでも憤懣やるかたない思いを抱えていたとして、だれがそれを責められましょうや。私にはそれがどんなにか苦しい思いだったかわかる気がします。 だから私は、私の身体に触れたそうにして触れられずにいるあの人を見るにつけ、いくらか哀れで、いくらか胸のすく思いがしたものですよ。 ……ああ、ごめんなさい。こんなこと、人様に話すことじゃありませんでしたね。でも話し相手がいないものですからつい口が軽くなってしまって。許してくださいね。 それで私、飛び出していました。 いざそのときになってみると、怖くはありませんでした。あっけないものですね。ガラスなんて、人の骨よりももろいものです。だのに私は、勝手に出られないものだと決めつけていたのですね。簡単でしたよ。私、これでも結構重いんです。頭から飛び込んだら、ガラスなんて飴細工みたいに弾けて割れました。 ですが、私の足は思うように動かなくて、というよりもあんまり動かなさすぎて忘れていたのですが私、足なんてないのですよね。腕もないのです。それで頭から派手に地面へ飛び散りました。 あ、まずいことをしたな、とは思いました。 だってこの暑さじゃないですか。地面もまるで鉄板のように熱くて。毎日見てるっていってもわからないものですねぇ。いえ、全然笑い事じゃないのですが。ちょっと信じられないくらいの目に遭いましたよ。 だってロウです。蝋なのです。 知っていますよ、あの人が言っていましたからね。 私の身体は蝋でできているのです。 焼ける暑さの中にあって、私の身体はあまりにも無防備でした。汗をかいていると思えばそれは溶けた私の身体なのです。溶け出しているのが自分でもわかりました。にしたって、か弱い一般市民がこのような目にあっているのです、一人くらい助け起こしてくれたってよさそうなもんじゃないですか。でも誰も彼も遠巻きに見ているばかりで、手を出しあぐねているようなのです。中には見た顔もありましたよ。いつも足の薬と痛み止めを処方している、言うなればお得意様です。そんなお得意様をしてさえ、私の姿は見るに堪えなかったのでしょうね。そう思うとちょっと悲しくなりました。が、気のせいです。耐えがたいほどの哀しみじゃありません。むしろ私は、それでいいとさえ思っていた。 ええ、思ったんです。 私はアイスキャンデーは別に食べたかったわけじゃない、アイスキャンデーのようになりたかったのだと。あの人は私を永久に変わらず美しいと言いました。けれども私はとっくに永久なんてものに飽いていたのですね。私の願いはきっと、あの氷菓子のようにさっぱり溶けてなくなってしまうことだったのです。ええそうです。 どろどろに溶かして、もう二度と蘇らないように。 僕は本人から話を聞いたのですよ、と。 たしか男はそう言ったのだったか。 指に触れる小さな刺激で現実を思い出す。それは水滴だ、冷たい、それは溶けたアイスクリームの雫だ。もう半分も溶けかけている、と気づいて私は慌てて口に含んだ。溶けた水分が伝って、棒を持つ右手はべたべたとして不快極まりない。拭くものなど持ち合わせていなかったので、仕方なく服の裾で拭き取った。 「おや、」 と男が遅れてハンケチを差し出す。結構ですと断ると、男は素っ気なく手を引っ込めた。気を悪くした様子はないが、黒眼鏡のせいで表情はうかがわれない。どころか自分より年上なのか年下なのかすらわからない。暮れかかった坂のほうへと向き直る、横顔は汗一つ浮かんじゃいなかった。 そのような男と、駄菓子屋のベンチに二人並んでアイスクリームを食べている、というのはいったいどういう状況なのだろう。 あの、とこちらが切り出すより先に、男は再び話を続けた。 「ところがですよ、屍蝋ってのは別に蝋燭の蝋とまったく同じってわけじゃありませんからね。中心には人の死骸が埋まってるんだ。アイスキャンデーみたく溶けて地面に染み込んではいさよならってわけにはいきません。蝋は残ります。いいですか、溶けたってその場に残るんですよ。それは彼女もわかっていたと思うんですがね」 「なにがおっしゃりたいんですか」 と、その声は予想に反してかすれたものだった。 「いやナニ、もう少しやりようがあったのではないかと」 男はこちらを見もせずに言った。私は重ねて尋ねた。 「それは女のほうにですか」 「いいえ、あなたのほうにです」 「私に?」 「薬屋の主人、女の夫というのはあなたのことでしょう」 私は信じられない物を見る目で男を見た。 僕は本人から話を聞いたのですよ。 たしかに男はそう言ったのだ。ベンチに座る私を見つけ、おもむろに隣へ座り、一方的に話をし始めたのだ。この男は狂っているのだろうか。見ず知らずの相手ではないか。 本人から話を聞いた。それは嘘だ。なぜなら私に妻などいない。私はたしかに薬局の店主をしている。それを知ってからかっているのだろう。悪い冗談はやめてほしい。 「でも軒下に人体模型を置いていたんでしょう」 私の弁明をさらりと流し、男はなんだかニコニコとして言った。 「手足のない人体模型。店のガラスが派手に割れたままになっていましたよ。道路側の、日覆いの下がガラスまみれになったままでしたよ。何もかもそのまんまにして飛び出してきたんですなぁ」 もう日が沈むという中にあって、男には影もあり形もある。 だがこちらを見る目が。たとえば着崩れた着衣を、裸足の足を見る目が、黒眼鏡の奥で見定めるような目つきのあるのを感じずにはいられなかった。それはきっと見咎める目であり、観察する目だ。 「あんた、刑事か何かか」 「いえいえ、刑事なんかじゃありませんよ。名乗るほどの者ではありません。僕はね、通りがかりに何事かあったのかと思って店を覗いてみただけの、ただの物好きですよ。ご主人は留守だというじゃありませんか。どうしたものかと思いましたが。けれども退屈はしませんでしたよ。店番をしていた奥様が相手をしてくださって。麦茶をごちそうになりました」 「妻はいないんだ。本当にいない。いたこともない」 「だから僕は本人から話を聞いたと言ったじゃありませんか」 「殺した女なんかいない。いない妻がなんで出迎えるものか」 「そうおっしゃられても。いるのにいないと思い込んでいるのでは」 「妻を殺して五つに捌き、水にさらして屍蝋にしたと」 「あるいはそのような物語を与えられてしまったから」 「だってそれは、白昼夢に刺す戯れのようなもので」 「おや、あすこにお見えなのは奥様じゃありませんか。迎えに来られたのですね」 男が言った。坂の向こうの方を指した。私はその指の方を見た。人がいた。よろよろと立っていた。それはこちらに向かってくる人影だった。たそがれどきだ。汗が伝った。それは決して暑さのためだけではない。人影はそこにいた。ぼんやりとして人相ははっきりとしない。 だがそれは女のように見えた。 綿津見様主催「#web夏企画 あの夏を幻視する」提出作品(2020/8/31) 使用お題:「黄昏」「つめたい」 冒頭引用:江戸川乱歩作「白昼夢」(底本:光文社『江戸川乱歩全集』第一巻) |