探偵の首



 四方は本に囲まれている。天井までの高さの棚が、扉を避けるようにぐるりと取り囲んでいるのだ。仮に小柄な探偵助手が、上段の本を持ってくるよう命じられたのであれば、梯子が必要になるだろう。もちろん、この部屋にはそれを想定した梯子がちゃんと設置されている。見えるはずだ。部屋の奥、車輪のついた移動梯子が、蜘蛛の古巣に錆びついたまま。
 ここは書斎だ、見ての通り。他には机と椅子、それからソファが置かれている。生活を前提とした空間ではなく思索を目的にした場所だから、必要最低限の調度だけが設置されているのだ。とはいえ、室内は決して簡素というわけではない。むしろこの部屋を見た者の多くが雑然とした印象を覚えるのではないか。その理由が、所狭しと積まれた本の山だ。畳一枚分はあるであろう机の上はもちろん、ソファの上にまで本が載り、あるいは伏せられあるいは開かれたまま、床は部分的に絨毯の切れ目が見えるといった具合だ。それも仕方のないことだ、どうせまたすぐ読むというのに、梯子に上って本を戻すのは手間なのだもの――を続けていくと、こういうことになる。
 背の文字は国内外を問わず多種多様、内容はおよそ犯罪と犯罪に関わるものすべて。つまりは万物にまつわる書物が所狭しと詰まっているということだ。見るものが見れば財宝にも等しい価値を持ち得るだろう。もっとも、そうでない者にとってはなんの意味をも持たないが。

 侵入者は、後者である。
 つまり、犯罪の本になど微塵も興味を示さなかった。どころか、入ってくるなり埃っぽさに鼻頭を押さえ、頭上を見回した。換気用の窓を求めたのだ。だが、入ってきた扉の他には窓も扉もないことがわかると、面白くなさそうに眉を上げ下げした。
 この部屋が書斎であることは明白だ。そして、絨毯や棚、机に積もる埃の具合から、長らく主を招き入れていないことも。それでも侵入者は慎重そうに、埃のひとつも舞わないよう、後ろ手に扉を閉めた。書斎机の上に置いてあるものを見止めて露骨に顔を顰めると、足音もなく裏側へと回り、真実誰も隠れちゃいないことを確かめる。それから、ついでとばかりに机に付属するキャビネットの中身を改めはじめた。この間、彼は本職の者らしく物音ひとつ立てやせず、まるで自分の所有物であるかのような図々しさで引き出しを暴いていった。
 まったくもって堂々たる不届き者だ。それでも、彼の目にとまるのは最上段のシガレットケースくらいだったらしい。しげしげと返しつつ眇めつつ、書斎の中央に備え付けられた布張りのソファにどっかりと腰かけた。座ってみてから気づいたのだろう、億劫そうにばらばらと本を脇に寄せ、自分用のスペースを確保する。
 侵入者は、「彼」というくらいだから男だ。
 年かさはよくわからない。しっかりとした足取りは年若いようにも思えるし、手つきの老練さからすると、見る者によっては物凄く年配の男に映るだろう。男だというのも便宜上そう分類しただけのことで、上背があって背広を着た体格が男性のように見えるという、ただそれだけの理由だ。あるいは女が男に化けているのかもしれないが、詮索しても意味のないことだろう。彼にとって男のような女を演じることは容易いだろうし、逆もまた然りだからだ。
 男に顔はない。
 言葉どおりだ。見たままを表せばそうとしか言いようがない。その顔に目鼻口を見止めることはできるだろうが、視線を外せばもう思い出せない、そういう不思議な顔立ちなのかもしれないし、顔の部分が文字通りすっぽりと闇のように抜け落ちているのかもしれない。もしくは会うたびに顔が違うから、変装の達人であるというのを比喩的に「顔がない」と言っているのかもしれない。本当の顔は本人ですら忘れてしまった、と言われ続けたことで、本当に顔のない人間になってしまった、というのが一番ありそうな説ではある。
 その顔のない男はというと、ソファに腰かけて特になにをするわけでもなく、さっきの引き出しからくすねた煙草を吹かしていた。顰めた眉はどうやったってうまそうに吸っているようには見えないというのに、くすんだ煙を肺の奥まで吸い込んで、少し溜めてから天井へ向けて吐き出す。後半はほとんどため息だ。霧散していく煙が髪につきまとうのを嫌ってか、ふるふると首を振る。紙巻きの先の灰が絨毯に落ちるのにも、構う様子はない。どうせなら書斎ごと燃えてしまえばいいとでも思っているのだろう。それで時折、視線を書斎机の方へと向ける。
 顔のない男はさきほどからずっとその繰り返しだ。
 煙草を吹かす、その行為自体に意味はない。彼は元来、喫煙者ではないはずだ。背広の内側にジッポーを忍ばせていたのは、彼が今現在演じている役柄か、あるいはこれから演じることになる役柄が喫煙者であるせいだろう。考えを整理するときに煙草を吸う習慣は彼にはない。
 逃げ場のない煙が靄のように立ちこめては薄らいでいく。あるいはシガレットケースの紙巻きが続く限りそうしたのかもしれないが、結局は二本ほど消費したあたりで、次の手を止めてしまった。
 顔のない顔が、ゆっくりと机の方へと向けられる。
 正確には机の上のものに、だ。
 彼にはそれが誰なのか、一目でわかったはずだ。

 それが――その首が、誰のものなのか、ということは一目でわかったはずなのだ。

 首は、部屋に入ったときから当然のように机の上に置かれていた。
 まるで来訪者を出迎えるかのように、ただ静謐にだ。
 首は語らない。
 ただ一見してみるに、首は、男の首だ。浅黒い肌の色と、もじゃもじゃとした黒い髪の色から、支那かあるいは東洋系の人種であろうことは察しがつく。しかしそのわりには彫りの深い顔立ちをしていた。目の色でも確認できればもう少し出生を絞り込めるかもしれないが、あいにくと目蓋は降りている。
 作り物ではない。本物の首だ。生首だ。人間の首だ。
 生き人形? 違う。あれは生きた首なのだ。斬首された人間の首だ。
 それでも人形ではないかと疑う気持ちもよくわかる。だが見たまえ。口元から顎にかけて丁寧に処理された髭の跡、耳たぶにうっすらと残る産毛、目尻の小さな皺。そのひとつひとつにいたるまで、まるで今にも目を開けそうな首なのだ。凄惨な感じが薄いのは、ひとえにこの首の表情にあるのだろう。首ひとつだというのに苦痛の跡はなく、それこそ胴体がないだけの生きもののように見えはしないか。
 そのような首がおあつらえ向きに据えられてある。
 繰り返しになるが、彼にはわかったはずなのだ。それが誰の首なのか。誰の首が置かれているのか。彼には一目瞭然であるから、入ってくるなり顔を顰めたのだ。
 ではこの部屋で、この書斎で、この首で、自分がなにをするべきなのか。
 それをわからない彼ではない。
 ではなぜすぐに行動に移さないのか。理由はいくつか考えられるが、様子を伺っているか、あるいは単に気に入らないのだろう。おそらくは、自分に割り振られた役が気に入らないのだ。彼という人間はそれが悪だくみであれなんであれ、自ら計画して準備するのが楽しいという稚気を持った人間だ。それが他人に用意された服を着て、他人からあてがわれた役を演じさせられようというのだから、面白いはずがない。
「昔は良かった」
 男は不意にぽつりと言った。
「……なんてのは、とてもおれらしくない台詞だ」
 やっと口をきいたと思ったら、憂鬱そうな台詞を独り言つ。
 彼は銀色のシガレットケースに吸い殻を押し込み、ふーっ、と今度はため息だけを深くふかく吐いた。
「知恵比べは楽しかったかい、先生。おれの知ったことじゃないが、あんたはきっと生来そういうものが好きなんだな。謎を解くことにこだわって、他人がこつこつと積み上げてきたものを台無しにするのが性分だ。随分と趣味のいい生き方だと思わないか?」
 わざとらしい語調でせせら笑う。若くも年寄りでもない声で。
「あの悪党連中は尽く死んでいったね。おまえのまえに立ち塞がった、イヤ、おまえこそがやつらの前に立ち塞がったのだ。おまえこそがなによりの障害だったのだ。やつらはみな尽くおまえに追い詰められて死んだのじゃないか。ことによっちゃ、どんな悪党より恐ろしいお方だ。おまえはそこにいるだけで人を殺すのだから。でもおまえは自分じゃそんなことは露とも思っちゃいないのだ。探偵ってのはただそこにいるだけで、他人の生き方を歪めてしまえるのだもの。恨まれたっておまえは涼しい顔だ。涼しい顔で、他人の夢や野望を踏み潰すのだ」
 今度は手のひらを返す仕草でそっぽを向く。
「責めてるわけじゃありませんよ。おれだって似た性分だもの。でもねぇ、おれはこれでも紳士な泥棒だからね、付き合いのある連中とはちゃんとまっとうなビジネス関係を築いているんだよ。でもきみの場合はそうじゃない。そうやって遊び相手をみんな潰していって、誰も残らなかった。最後まで付き合ってやったのはおれくらいのもんさ。きみは相手のやり口をそっくりそのまま返してやるのが手だからね、人殺しじゃないおれを殺すことはできなかったってわけかい。ええ? いい気味じゃないか」
 なにか言ってみたまえよ、と。
 言われた側は当然のように返事をしない。
 すると彼はソファの肘掛けに肘をついて、
「だんまりかい。良いご身分だね」
 と言ってフンと鼻を鳴らした。
 返事がないのは当然だ。彼がさっきから話している先には首しかない。首には喉も肺も胸筋もない。閉じた瞼はピクリとも動かず、返事などあろうはずもない。だが男はなおも構わずに話を続けた。
「そういう意味では、おれはきみの唯一の理解者であるともいえるのかな。だって考えてもみたまえ。おれだけなんだよ。おれは死なない。きさまがどれほど死体の山を築こうと、おれだけは最後までぴんぴんして、きさまを追い詰めてやるんだ。おまえの悔しがる顔を見るまでは、この胸がすかないんでね。そうやってきみはまた新しい遊び相手を得るというわけさ。なかなかどうして、立派な共犯関係じゃないか!」
 男は大げさに胸を張って両腕を広げた。
「ああ、共犯といえば、そうだ、きみとおれは同一人物だって話もある。表向きは探偵をやっていて、裏では……ああ、逆かな。盗み一本のはずのおれが、探偵の影武者をやっていたんだったか。本当のおれか、それともきみか、そのどちらかは途中で死んでいて、あとは一人二役というわけだ。あるいはどうやら、きみの猟奇趣味を別人格に落とし込んだのがおれなんだと。いやまったく、暇人たちの思いつくことはわからんもんだ。おれときみが別々の人間だなんてのは、今さらわかりきったことじゃないか。ねぇ?」
 男はそう言って自分の首に手を回した。
 おれの首はおれの首、おまえのはおまえのとしてあるじゃないか、と。そういうことを言いたいのだろう。自分の首を絞めてべえっと舌を出し、それでもなお、なんの返答もないとわかると、男は一気に鼻白んだ。
「そうやって黙られちゃ調子が狂う。あのよく回る舌はどうしたんだ。それとも、おれにきいてやる口などないってことか?」
 とふてくされた様子でソファに寝そべった。長身の彼がやけっぱちで飛び込むのだ、ソファに元から積まれていた本は、彼に追い出される形で埃を上げて落下した。
「……ね、おれはきみの退屈しない遊び相手だったかい」
 男はか細い、かすれた声で言った。
 いかにも哀れっぽく乞うように、天井に向けていた目をちらりとやって言う。
「きさまはいつだってそうやって、にこにこと笑って勝ち誇った顔をしてやがる。おれは自分のこともあんたのことも薄ぼんやりにしか思い出せないがね、きさまのその笑みがどんなに憎らしかったかということだけは覚えてるんだ。その余裕ぶった顔を驚かせてやりたい、アッといわせてやりたい、やっつけて、負かしてやりたい。それはときに美術品を集めるという情熱をも凌駕するほどだ。おれをこんな気持ちにさせる相手ってのはどんなものか、知ってるんだろう?」
 話す声に熱が籠もり、彼はその勢いのまま癇癪持ちの子供のようにまくしたてた。
「おい、まさかほんとうにくたばっちまったってんじゃないんだろう。死んだと思わせるのがやつの手だものな。このおれの告白だってどこかで聞き耳を立ててるに決まってる。いいか、よく聞け。おまえがその気なら、おれは今度こそ六百万の凡百どもを地獄の底へ落としてくれるぜ。空に火焔が燃えて、黒煙が地を覆い尽くすのだ。ああ、それはなんて退屈でない景色だろうねぇ。悪魔から生まれた子! あれはおれだった。うっすらとだが覚えてる。火星の運河で串刺しになった男、あれはおれだった!」
 長い手足を死にかけの蜘蛛のように投げっぱなしにし、男はわっと顔を覆った。

 まるで自暴自棄な振る舞いに対し、首はなにも言わない。
 語るべき言葉を持たぬ石膏像のように、引き結んだ口はなにをも言わないのだ。
 これは、一人芝居だ。物言わぬ首を相手にした一人芝居。百面相役者も顔負けの彼にしてみれば、児戯に等しきものだろう。
 しかしこれは舞台ではない。本来あるべき物語はここに存在しない。そんなものはとうの昔に終わってしまって、ここにあるのは記憶の残滓であり、ただの『場面』だ。彼のこれは謂わば舞台裏のようなもの。公演後の幕をめくって裏側を覗き込むものなどいないように、室内にいるのは彼と首だけだ。物語はここになく、見ているのはあなたくらいのものだろう。
 であれば彼の態度にも説明がつく。常であれば観客を意識して振る舞う彼も、観客のない舞台裏で、どの顔が自分であればいいかを決めかねているのだ。でなければあれも、幻覚を見るほどに狂ってはいまい。帝都を火の海にせんと目論んだのは彼であって彼であるはずがなく、長く語られるうちに別人の所業が彼のものとして舞い込んだに過ぎない。我々のよく知る彼であれば、そのような方法をとらずとも、もっと馬鹿馬鹿しくて奇抜な方法で人の世をかき乱すことだろうに、そんなことすら忘れてしまったというのだろうか。

 と、顔のない男はひとしきり背を丸くしてうつ伏した後、やにわに起き上がった。
 そして深いため息をつく。それはすべてを諦めた者の吐くため息だ。
 涙を拭うような仕草をして顔を上げる。顔のないのだから涙の跡もあるはずがない。さっきまでのはすべて演技で、すべて振りだ。だがそれでも、男ははっきりと憮然とした表情を浮かべ、憂鬱と共にソファから立ち上がった。
 続けざま、自分の服を腕から腹から忙しくはたきだす。埃っぽい部屋の埃っぽいソファで寝転がったのだ、背広は当然のごとく埃にまみれ、糸くずは髪にまで及んでいる。彼は時間をかけてそれらを払うと、ようやく観念して机の前に立った。
 しかし何事も起こらない。
 首は、やはり何事をも語らない。
 顔のない男は、無言に徹するその首を、いま一度充分に見下ろした。どこかバタ臭さのあるその顔に、いったいなにを探し求めたのか、あるいは見つけられなかったのか。
 男はやがて言った。ぽつりと言った。

「いいさ。今さら話すことなんてあるものか」
 そうとも、話すことなどなにもない。
「第一、こうも一方的じゃ会話にもなりゃしない」
 一方的に話し続けているのはそちらのほうだというのに。
「初めましての邂逅なら、一千年の昔に済ませたはずだ」
 あの鉄道ホテルの一室で?
「さて、」
 おっと。

 顔のない男は、自分の髪を掻き上げると、同じ手を「首」に向けて差しのばした。腰を屈めて、指を首筋から耳の下へ、それからゆっくりと顎のラインをなぞる。まるで肌の冷たさを楽しむかのように、恋人にするような手つきで、机に置かれた首を撫であげた。
「『どうして目を開けないんだい。』」
 嘆息交じりに男は言った。
「『どうしてわたしを見ないんだい。それともわたしが怖いのかい? それで、わたしを見ようとしないのかい? それに、わたしに毒を吐きかけた、あの真紅の蝮のような舌ももう動かない。いまはもうなにも言わないのだね、ヨカナーン。』」
 悲劇『サロメ』の一節だ。踊りの褒美にと聖者ヨハネの首をねだった王女サロメ。彼が口ずさんでいるのはその最後の場面だ。斬首されたヨハネの首を相手に、王女が睦言を唱える場面。
「『おまえはとうとうわたしを見てくれなかったね。』」
 くしゃりと髪をつかみ、後ろに撫でつける。黒い蓬髪を。もはや吐く息がかかるほどの近さで、男はねっとりと指を這わした。
「『ああ、どうしてわたしを見てくれなかったんだい。ひと目でもわたしを見さえすれば、おまえはきっとわたしを愛してくれたろうに。』」
 演じているのだ、悪趣味にも、愉悦に唇を歪める処女の役を。二十の名と四十の顔、百の声を持つ彼にとって、演じるのは本心を口にするよりもよほど、容易なことだから。
「『わたしはおまえの美しさを飲み干してしまいたい。身体が飢えているのだもの、いかなる酒も果実もこの渇きを満たしてくれないのだもの。』」
 わざとらしく眉根を寄せる。
「『……ああ、おまえはとうとうわたしにくちづけさせてくれなかったね。』」
 机にゆったりと上半身を預け、首筋に触れる、いまはもう血の通わぬ、凍れるその首筋に。唇を寄せる、いまはもう言葉を交わすことのない唇に、――触れる手前で。
 死よりもただ恋をだに、というのはいかにもきみらしくない台詞だな、と。
 そう言った。酔いにでも任せねば為すべくもないことを。
 真実、顔のない目は少しも酔っちゃいないのだ。

「これは貸しだよ」
 たとえば悪魔が人間を唆すときのように。彼は首のすぐ耳元で、いまはもう音を聞くことのないその耳元で、その人だけに聞こえる声で囁いた。
「高い貸しだ。なんといっても仇敵に恩を売ってやるんだからな。せいぜいおれに感謝することだね。なに、うまくいくのかって? フフフ、誰に向かってお言いだい。おれはきみの生涯のかたき、そしてもしかしたらきみだったかもしれない相手だぜ」
 それに、と耳の下に置いた手はそのままに、彼はするりと身を引いた。
「きみに化けるのがおれの昔っからの十八番なのだ。知らなかったのかい?」
 そう言って、顔のない男は顔のない顔を、たぶん笑みの形に歪ませた。

 彼はそれっきり、しーっと人差し指を相手の唇に当てると、大げさな動きで両腕を挙げ、胸を張った。ちょうど、パントマイムの奇術師が、目には見えぬ観客席へと拍手喝采を乞うようにして。片足を半歩後ろへ引く仕草で挨拶をする。
 そうとも、彼はいまから幕の上がらない舞台の裏、ただひとりきりの芸をお披露目するのだ。
 蜘蛛のように長い腕をするりと自分の首の後ろへ回し、自分の首に手をかける。顎をしゃくって挑発的に、これから起こることはタネも仕掛けもないことを示す。すると蠢く指が、まるで一本一本が別の生きものであるかのように、首の付け根にかけられて、男はというと突然の指の反乱に苦しむがごとき真似を見せ、しかし指のほうでは、ぐ、ぐ、と反動をつけ、やめろ、と恐怖に歪んだ顔が目をつぶり――
 すぽん! と。
 実際にそんな音が出たわけではない。
 だがそれほどまでにあっけなく、男の首は身体から引っこ抜かれてしまった。首があったところの断面は、ぬらぬらとして、肉のどくどくと脈打つさまがありありと見える。白く途切れた断面は背骨であるに違いない。これほどまでの惨状であるというのに、血の一滴すら流れないのは如何なる手妻か。
 両腕で掲げ持つようにされた首はといえば、ぎゅっと閉じていた目をそーっと開き、一段と高くなった視界に口をあんぐりと開けた。白々しくも、苦しみとはまったく無縁の表情で、にっこりと作り物の笑みを浮かべた。
 かと思えば、さっきまで自分のものだった首を乱雑にソファへ放った。とはいえ目測を外したのだろう、首はソファの座面に跳ねると、その勢いのまま弧を描き、床に積まれていた本の山を豪快に崩した。だがその顔にはやはり痛みを感じる様子はない。埃っぽい絨毯にごろりと転がる首は、ただ無機質な目を開いたまま、どこを見ているわけでもなかった。
 ところで身体のほう――首のなくなった彼はといえば、まだ首を抜いたその場に立っていた。首とは違い、こちらにはまだ動く気配はある。とはいえ目は見えない首無しのことだから、彼はあくまでも手探りで周囲を探りはじめた。首を引っこ抜いたことで一瞬前後不覚の間があったのであろう、なにかを探す様子である。
 なにかとは、もちろん新しい首のことだ。
 おぼつかない調子で机を探り、置かれた首に指先が触れたそのとき、彼は注意深く両の手を這わせて顔の輪郭を探った。あれはきっと、目鼻の位置を確かめたのだ。どちらが首の前に当たるのかを。なぜなら、少しのズレならばともかく、前後を逆につけようものなら大変なことになるだろうから。
 なにって、もちろん首のことだ。
 さて、彼は先ほど自分の首を引っこ抜いたのと同じように、机に置かれていた首を持ち上げた。耳の辺りに両手を添えた状態で掲げ、今度は慎重に、そっと身体へ向けて下ろす。ぬちゃり、と断面同士が嫌な音を立てるのにも構わず、両手はさらに念入りに、ぬち、ぬち、と首を身体に押し付けるようにした。
 もうわかるだろう。
 彼は文字通り、そっくり首を挿げ替えたのだ。
 シャツから伸びる首は生っ白い、むしろ青白いと言っていいほどだが、新たに載せた首はどちらかといえば日に焼けて浅黒い。断面で色が異なる二つの首はあまりにアンバランスで、片方の肌に白粉でも塗っているかのようであった。
 ところがどうだろう、不思議なことに、喉の膨らみは色の継ぎ目こそあるものの、ごく自然になだらかな線を描いていた。そう、二つの首は、まさに貝合わせでもしたかのようにぴたりと合うのだ。頭を押さえつつ、右手がさらりと首を撫でる。
 そしていま、新たに挿げられた首のほうにも変化が起ころうとしているではないか。
 先ほどまで人形の如く沈黙していた目蓋が、ぴくりと痙攣した。薄く埃の積もった睫毛が、重そうに持ち上がろうとしているのだ。この段になって彼はようやく、首を押さえていた手をゆっくりと放した。いまや支えがなくなったところで転げ落ちることはない。
 ああ、なんと奇妙なことだろう! 男は頭をそっくり他人のものと挿げ替えてしまったのだ。ことによれば、くちづけよりもおぞましき支配のかたちではないか。
 そうこうしている間にも、ぼんやりと目蓋が持ち上がる。
 と同時に、唇がひらく。
 彼はこの次になにを言おうとしたのか。
 ――しかし、言葉が声になることはなかった。
 ごぽ、と。
 代わりに喉から出たのは、不吉でねばついた音だった。
「う、ぐぅ、っ!? げぷ、うっ、げえぇ……」
 咄嗟に口を押さえた両手の間。
 ごぷり、と血が。
 ねっとりとして黒ずんだ血がしたたり落ちる。
 先刻の余裕はいずこ、彼はたちまち真っ青な顔になり、その場で激しくせき込んだ。この事態は不測の事態であったのだろう。少なくとも彼と、彼自身と化した首は目を見開き、心底驚いているように見えた。
 机に片手をつき、げえげえとえずく声が響く。合間にヒュー、とかろうじて吸い込んだ細い息をたちまちに吐ききるように、ごぼごぼと粘着質な咳がこみ上げる。とうとう立っていられなくなり、彼は床に膝をついた。
「ぐ、ぐぶ、げっ、げほ、げっ……うう、」
 身体を丸め、両手で押さえた指の間から、くぐもった咳と呻き声だけが漏れ聞こえる。
 少しも予想しなかったのだろう、もともと首側の喉に溜まっていた血が、肉体とつながることで肺から上がってきた空気に押し出されたのだ、などと。彼がよほど優秀な探偵でもない限り、そんな事実を予想し得まい。
 いったいどのくらいそうしていたのか、彼は机に手をつきどうにか身を起こした。ふらつきよろめく長身は、自分がそんな失態を演じているのが信じられないとでも言いたげに、死人のごとき真っ青な顔だ。
 鼻から口の周りから、胸元までを血で真っ赤に染めて、吸血鬼だってもっと優雅に食事をとるだろうに。血でぬとついた手でもって、男はぐいと口の周りの血を拭った。それでまた血が広がったが、一向に気にする様子はない。
 男はもう二、三度、痰の絡んだ咳をした。
 ああ、とかすれた息がかろうじて声となる。

「くそっ、とんだ置き土産だ。また着替えにゃならんじゃないか」

 ねばつき、がらついた、血にまみれた死人の声だ。
 男は背広の胸元をつまみ上げ、辟易した様子で呻きを上げた。それから口の中に残った血をぺっと床に吐きつけた。
 そして今度は咳払いだ。喉に手を当て、あ、あーと何度か声を出して調子を確かめる。
「コホン……さて、どうだね。これはなかなか……えヘン、……うん、んんっ! エー、『なるほど、あっぱれな泥棒じゃないですか。これほど見事に計画を成功させるとは、見上げたもんですね。悪党とはいえ、僕はやつを尊敬しますよ。』……うん、こんなところか?」
 途中何度か声色を変え、納得のいくものが見つかったのか、
「驚いたかね、探偵さん。ぼくに不可能はないのだよ」
 彼はそう言って引きつった笑みを浮かべた。
 もはやいまの彼を『顔のない』とは呼べまい。目と髪の黒いので西欧人とまではいかないが、どちらかといえば彫りの深い、はっきりとした顔立ちの男だ。長らく動かしていなかった顔筋を揉みほぐすさまは少々間抜けだが、血にまみれてさえいなければ、ひとかどの人物として映るだろう。
 その彼は、仕舞ったはずのシガレットケースを懐から出し、一本持ち上げて火をつけた。
「それにしてもこいつ、頭痛持ちだったのか? 一時的にってんならいいが、ずっとこれが続くのなら考えものだな」
 などとぶつぶつ言いつつ、くわえ煙草のまま辺りを探りはじめる。正確には、崩れた本の山に埋もれたままの自分の首を、少し前までは自分のものだった首を、だ。
 もちろん首はすぐに見つかった。
 どこへ行くはずもない。引っこ抜かれたときの形そのままで、半開きの口に半開きの目。彼は自分の首だったというのに容赦なく髪をつかんで持ち上げて、じっと見つめたかと思うと、深く吸いこんだ煙草の煙を、フーッと相手の面前に吹きかけた。
 奪った顔がまだ本調子ではないのだろうか。そのときの彼の表情というのは、どんな顔をも自由に演じきる百面相役者にはあり得ぬ顔――たとえば泣いた子供がむりやり笑おうとするような、ぎこちなさに満ちたものだった。
 手から落ち、落ちた煙草を踏みにじる、その革靴の足の底。
「……『ぼくは、きみにほれこんでしまったよ。』」
 まるで他人の台詞を口にしたかのように、ざらつく舌を指で撫で、今度こそ彼は首に対してくちづけした。ついばむようなくちづけを、たった一度っきり。顔のない首にしてやると、彼はそれでもう満足したのだ。べっとりと移った血を親指で、紅のように唇へ塗ってやり、奪った首の代わりにその首を机の上に据えてやる。
「これが恋の味であるものか。これは血の味、痛みの味。そしてこれは夢なのだもの。うつし世は夢、夜の夢こそまこと。そうとも、覚めぬ夢を見ているのだ」
 舞台はそれでもう終わり。盗まれた首は戻らない。なぜなら彼は泥棒だからだ。だが心配はいらない。彼はあれで盗んだものは丁寧に扱う泥棒だから、たとえば盗んだ首で人肉の面を作るような、そのような無粋は誓ってするまい。とはいえこれを取り戻すのであれば、それこそ高名な探偵でも連れてくるほかないだろうが。
「きみはせいぜい、そこでそうして見ていたまえ」
 扉が閉まる。鍵はかからない。百面相役者はもう二度と帰らない。
 それで終わり。本当に終わり。





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