『不在の探偵』04 たとえば、忘れられた町の忘れられた路地を進んだ先に、いかにも世の中から忘れ去られたといったふうな建物があったとする。四角いビルが二階建てだか三階建て、あるいは五階建てくらいはあるのかもしれない。なぜなら『窓から飛び降りる』ことができるからだ。壁は煉瓦だかコンクリートだか、あるいは木造か、おおむねそんなところだ。なんならビルでなく洋館でもいいのかもしれない。だが大理石の宮殿のようにおおげさなものを想像されると、後の話に支障が出る恐れがある。だからまあ、仮にビルということでいいではないか。 さて、かの書物において神は七日間で世界を作り上げた。はじめに天と地を創造し、光で満たして闇を落とし、水に草に星にと作った最後に人間をお作りになられた。しかしどのような深慮がされたものか、神は大水によって大地を洗い流し、人々を一掃せしめられたという。 しかるに、探偵事務所のはじまりは、まずは掃除からおこなわれた。このn階建てのビルに巣くう無限の埃を一掃せんとする働きが、なによりも重要視されたのだ。とはいえ人は神ほどに万能ではない。たっぷり七日目の時を費やし、八日目にはぐったりとして打ち伏す二つの人影があった。 「これからどうするかねぇ」 実際のところは『これからどおおおおおするかねえぇ』と。顔のない怪人は天井に向かって間延びした声を上げた。長い手足をだらりとソファに投げ出して、いまにも溶け出す直前の飴細工のごとき様相を呈している。 「どうするもこうするも、どうするんだい」 少年のほうもさすがに疲れ切っていたから、全身を椅子の背に預けたまま目だけを怪人に向けた。敵対者を前にしてだらしないありさまだが、いまは休戦中だ。怪人のほうでも椅子を机を運ばされ、挙げ句の果てには天井拭きや電気掃除にと走り回らされていたから、いまここでなにかを仕掛けてくる元気はないだろう。仕方がない。少年はかわいらしい少年であるがゆえ、体力はあっても身長がないのだ。高い場所の掃除はすべて怪人の分担だ。 「まずは引越祝いに出前でも取るかな」 怪人は脱力したまま言った。 「きみがダイヤルしてくれたまえ。なに、電話線はつながっていないだろうが、店屋物を食べたいという気持ちでダイヤルすればつながるから」 「のんきだなあ。先を憂えて言ったんじゃないのか」 「さしものおれもこうひもじくっちゃかなわないよ。探偵のやつが向こうからやってくるってんなら話は別だがね。どうせ時間は腐るほどあるんだ。あったかい天麩羅蕎麦でも食べているほうがよほど有意義じゃないか。それともなにかね、きみにはなにかとんでもない秘策でもあるのかね?」 「秘策なんてないよ」 「ほう」 「でも僕らがやることなんて決まっているでしょう。先生の行方を捜すことだよ。そのために探偵事務所なんて立ち上げたんじゃないか」 「そうそう、探偵もいない箱だけ用意したってわけだ」 「……元々はおまえの案だったじゃないか」 あまりにも他人事のような物言いなので、少年は頬を膨らませた。 「自分がいないのに探偵事務所ができたと聞いたら、先生をおびき出せるかもしれない。よしんばそうでなかったとして、先生を探すための情報くらいは入ってくるだろうって。なのにこの事務所には情報どころか人っ子一人現れやしないじゃないか。本当に先生を探すつもりがあるのかい?」 「もちろんあるとも」 怪人はごろりと寝返りを打って少年のほうを向いた。 「そうでなけりゃ、窓からつり下がって掃除なんかしないよ。やつがいないとおれだって困るんだ。おれはまだやつの鼻っ面を明かしてやっていないからね。――で、ものを探すのは探偵の仕事じゃないか。あいにくおれは盗むのが専門さ。でもここにはうってつけの人材がいるじゃないか! 探偵の片腕、探偵助手くん。きみの仕事っぷりには期待してるぜ。で、なにからしたい?」 呆れた口振りだ。それではつまり、自分で働く気はないということではないか。 少年は身を起こし、両足をしっかり地面につけて椅子に座り直した。 先生がいない以上、頼りになるのは自分だけだ。それに相手は時に先生の頭脳をも出し抜く悪党……の、はずだ。薄汚れた格好でソファに寝っ転がり、にたにたとこちらをあざける姿からは想像できないが、なにも考えがないとは思われない。 「じゃあ、僕からひとつ提案させてもらうよ」 相手の考えが読めないのなら、こっちで勝手に主導権を握ってしまうまでだ。改まった声で言う少年に、怪人は「拝聴しよう」とだけ顎をしゃくった。 「僕たちの当面の問題は、先生の行方がわからないことだけじゃない。先生がどんな人なのかわからないってことだ。そりゃあ先生が僕らを訪ねてくれるなら早いけど、そうでないなら闇雲に探したって見つかりっこない。だからまずは僕らが先生を思い出すこと――先生の手がかりを得ることが、なによりも必要なんじゃないかな」 「へえ。なるほど。きみは賢いねぇ」 怪人はうれしそうに手を叩いた。こちらの出方を試しているのか、ただ馬鹿にしているだけなのか、腹の底が読めない相手だ。 「それじゃさっそくやろうじゃないか」 と怪人はここでやっと身を起こした。 「やるってなにを」 「だから、思い出すんだよ。ひとり分の記憶よりふたり分の記憶だ。紙とペンがあるといいな。取ってくれ」 「取ってくれったって、そっちはまだ荷ほどきしてないでしょう」 「ああそうか、実に不便だなあ。仕方ない、おれのを貸してあげよう。ただしペンのほうは横の突起を押すなよ。煙幕が焚かれるからね」 「そんなら自分のを使うから紙だけでいいよ。それよりも、僕が書くのかい?」 「当然だとも。なにを言うんだ」 顔のない怪人は大げさに驚いてみせた。 「似顔絵や人相書きは探偵術の基本じゃないか。ならこれはきみの領分だ」 「都合がいいなあ」 少年が唇をとがらせつつもペンを取ったのは、自分が言い出したことであると同時に、ひとり分よりふたり分の記憶だという意見には頷けるものがあったからだ。座椅子からソファへ移り、怪人のよこした手帳ほどの紙束を机に広げる。 怪人はさらさらと顎を撫でながら言った。 「さて、男だったか女だったか」 「そんなところからなのか?」 「記憶のすり合わせだよ。なにせおれたちはやつのことを『探偵』ってところ以外ほとんど忘れちまってるんだから。きみはどっちで記憶してる? 男か、それとも女か」 「男だったよ」 少年は慎重に記憶をたどりながら答えた。 「たしかに男だった。だってご夫人がいたもの。名前は……ええっと、名前までは思い出せないけど、でも覚えてる。事務所にもいらっしゃったんだ。僕にも大変良くしてくれていた……はずだよ」 ここでの記憶違いは深刻だ。下手すれば永遠に見つからない人物を探すことになる。幸いにも、『探偵事務所』という場所にあって、少年の脳の働きはこれまで以上に円滑だった。これなら無事に思い出せそうだ。 「それに先生と銭湯へ入った覚えもある。背中を流して差し上げたんだ。この記憶が確かなら、女の人ではあり得ないよ」 「フン、まあそうか。女だったらさすがに困る。記憶と合わないもの」 「へえ。そっちのはどんな記憶だい」 「やつがおれを罠にかけたときの高笑いさ」 怪人が歯を食いしばる。ぎりぎりと腹立たしげな音が聞こえてくるのは気のせいではあるまい。大きく開いた太股に手を突き、怪人は勢いよく床に向かって言葉を吐いた。 「やつめ、自慢のペテンでおれをコケにしやがって。こっちが困ってると決まって笑い声が迫ってくるんだ。嫌な感じでさ。おれを追い詰めるときに限ってにこにこ笑って、嫌なやつだった。やつのことは思い出したくもないが、性格が悪いのだけは確かだ。とても悪い。そら、そこにもそう書いておけ。きみんとこの探偵は性格が悪い! ご愁傷様だ!」 「そりゃあ犯罪者から見たらそうに違いない」 「そうだろうよ。だがおれは犯罪者でもごくまっとうなほうだし、これでも紳士だ。おれが悪党ならやつは性格異常者だ。変態だ。ろくなやつじゃない」 よほど恨みが深いのか、聞くに耐えない悪罵はとどまるところを知らない。怪人が書け書けとうるさいので、少年は紙に『犯罪者にとっては天敵』と書いた。 「年齢や背格好は……どうだっただろう。僕が先生と出会ったころにはたしか、すでに事務所を持っていたんじゃないかな。若いころのイメージがぜんぜん思い浮かばないんだ。お爺さんではなかった、くらいにしか」 「お爺さんねえ。それはどうだろう。おれの記憶じゃ少なくとも中年……青年くらいか。さすがに十代ということはないなあ。それじゃ少年だ。きみと年が変わらんことになる」 となると二十代後半から五十代といったところか。 少年はペンを片手に口をへの字に曲げた。あまりに幅が広い。これでは特定できそうにない。怪人も同じように感じたのか。「見方を変えてみるか」とこめかみに指を添えた。 「いくつにしたって体力は有り余るほどだろうね。結構な冒険を繰り広げただろう。探偵というのはなんだってああも神出鬼没なのか」 「ああ、たしかにそれはそうだ。先生はちょっとやそっとじゃ崩れない強靱な体の持ち主だった。おまけに柔道の達人だったからね。いくつにしたって壮健だ」 「柔道……ああそうだったそうだった。そういえば投げ飛ばされたな。腹が立つことにいい調子だ。どうしてなかなか思い出せるもんだね」 少年はそう言われるとわずかに誇らしいものを感じた。自分にとって探偵という存在がいかに大きいものであったか、そしてそれを確認する行為そのものこそ、自分の名前すら忘れてしまった『少年』を手探りで発掘していくことと同等であった。薄ぼんやりとして正体のわからぬ『少年』は、『探偵の助手』としての輪郭を少しずつ取り戻し始めていた。――ただし、記憶を分かちあえる現状唯一の相手が、かつての敵である『怪人』であるというのは、複雑以外の何物でもなかったが。 ともあれ、手のひら大の紙を埋めるくらいには情報が出そろった。 細かい部分で差はあるが、おおむねふたりの記憶は合致する。これは同じ人物を思い浮かべているという点で有意義な結論であった。ふたりのうちで大きく意見の割れたのは、探偵の服装だ。少年のほうでは先生といえば背広姿だ。どれほど土にまみれようと、颯爽と立っている凛々しい姿。そのイメージが元になっているのだろう。 対する怪人のほうでは、なにやら格子模様のだらだらした着物を着ていなかったかだとか、趣味の悪い支那服で現場入りしていなかったかだとか、奇抜な格好ばかりを例に挙げたのだ。 「今日びそんな格好で出歩いているひとがいるものかなあ。かなり目立つし、探偵事務所のイメージにも合わないよ」 「そうかい? 探偵なんざろくな人種じゃないだろう」 などと聞き捨てならないことを言う。少年は腹が立ちこそすれ、さすがは探偵の助手である。憤る自分をぐっとこらえて、不一致の理由について考えを巡らした。 ……もしかして『探偵』というだけで、別のひとの記憶と一緒になってるんじゃないかしら。あるいは僕が知らない時代の、若い先生がそんな格好をしていたなら僕は知りようがないかもしれない。 さっそく少年がその考えを披露すると、怪人は「長い付き合いの間で印象に残った姿が、ぼくのときみのとじゃ違っていたってところだろう」と気のない返事をした。 「まあこんなところでいいだろう。なかなか集まったじゃないか」 「けど肝心の名前がわからないんじゃ、探すには苦労しそうだよ」 「どうだろうね。フム……」 怪人は少年が特徴を書き留めた紙を手に取り、じろじろと眺め回した。 そしてなにを思いついたのか不意に立ち上がり、少年がなにも尋ねないうちから、 「待っていたまえ。そう時間はかからないだろうから」 と手をヒラヒラとさせて部屋を後にしてしまった。 「なんだか薄気味悪いなあ」 少年のほうでは、怪人の動向を気にする趣はあるが、追いかけるほどの積極的な動機はない。むしろ話が始まってからずっと顔を突き合わせていたから、気詰まりしていたくらいだ。 なにか企みごとをしていなければいいが、怪人のことだ、偽の探偵事務所を立ち上げると言い出したときのように、突拍子のないことをやりかねない。しかしいまの少年は、怪人がなにをしでかそうが見事に止めてみせるという、強い自信と勇気を感じていた。それは先ほどまでのやりとりにより、少年が探偵の存在を意識したのが一番の理由だ。 自分はただの少年ではなく、名探偵の弟子なのだ。ならばどんな事件が立ちふさがろうと、華麗に解決してやるさ。そう考えると勇気が凛々とこみ上げてくる。それでいつ探偵が帰ってきてもいいようにと、少年はせっせと事務所の掃除を再開させた。 そして、帰ってきたのだ。 掃除を始めて四十分あまりが経過した頃だっただろうか。 コンコン、と芝居がかったノックの音につられて少年が振り向くと、そこには黒い服の男が扉によりかかるようにして立っていた。 モジャモジャとした蓬髪に鋭い目。鼻の高い、引きしまった顔立ちをしていて、年ごろは三十代前半くらいの青年だ。男は黒い背広に黒いズボンと黒い靴、と全身黒ずくめの服装をして、まるで扉から伸びる影のような風貌である。 「え、あ、あなたは……」 少年は息をのんだ。 だってこれは、さっきまで話していた『探偵』の姿そのものなのだ。 まるでイメージが形を取って具現化したような、そんな有様ではないか? 「久しぶりだね、岡本くん」 あんぐりと口を開ける少年に、男はにっこりとほほえんだ。 「きみも達者なようでなによりだ。ぼくの留守中にはいろいろと苦労をかけたね。でも、おかげで事件は無事に解決できたよ。きみのほうではなにも変わりなかったかい?」 落ち着いた低い声はたしかに少年の耳膜を揺らしている。 コツコツと革靴が歩けば音がする。幻ではない証拠だ。 「オヤ、どうしてぼくがここにいるんだって顔だね。それはやつの仕業なのだ。つい先ほどまでこの部屋にいた、怪人くんのね。実はさっそくだが新たな事件が発生したのだよ。もちろんあの怪人がらみの事件だ。手強い相手でねえ。間抜けなぼくは彼に先手を取られ、きみのことを思い出してあわてて戻ってきたというわけさ。かわいいきみにもしものことがあってはいけないからね」 満を持してと言うべきか、男はとうとう少年の目の前に立った。 その切れ長の目はじっと少年の表情をうかがっている。 「……おかえりなさい、と飛び込んできてはくれないのかい?」 男は首を傾げて言った。どうにも思っていた反応ではないのが不満らしい、期待たっぷりに両腕を広げて少年に再会の挨拶をせがむのだ。 「ぼくを忘れてしまったわけじゃないだろう? ほら、遠慮はせずにどーんとくるといいよ。岡本くんのために急いで帰ってきたぼくの胸にね」 「……だれがするもんか」 少年はやっとのことで声を絞り出した。 「いくらなんでもそう易々と信じたりしないよ。それに僕は岡本なんて名前じゃないからね」 「だってきみ、名前なんて忘れちまったんだろ」 男は堪えきれないとでもいうように、クククと意地の悪い笑い方をした。 「なにか呼び名がないと不便じゃないか。適当に名前を言っていけば当たるかなってね」 「そんな姿に変装するなんてどういうつもりだ? 冗談にしても趣味が悪いぞ、怪人」 「オヤ、やつに化けるのはおれの十八番だぜ。きみともあろう者が知らなかったのか?」 探偵の姿をした男――怪人は、薄い唇をにんまりとつり上げた。 ああ、もちろん怪人の変装だとも! 当然だ! まさかここで都合よく探偵が帰ってくるなどあるはずもない。賊めはどこか空き部屋にでも隠れ、自らにこっそりと悪魔の変装術を施したに違いないのだ。探偵とそっくり入れ替わる算段でも立てていたのか、だとすればそれは甘い見通しだ。こんなものは推理とは呼べまい。 だというのに、である。姿を見たときに確かに心がざわついたのだ。先生が帰ってきてくれたと期待した、一瞬の自分を少年は呪った。 「そう怖い顔をするなよ。おれだって考えがあってのことさ」 怪人は手をパッパと振って、少年の厳しい視線から逃れるようにしてそっぽを向いた。そして来た道を戻ると、扉の影からなにかを引っ下げて戻ってきた。 「それにきみのために急いで帰ってきたってのも本当だ。ほら、蕎麦が伸びちまうからね。ああ、念のために言っとくが盗んじゃいないぜ。手前で運ぶからってんで出前の代金をさっ引いてもらっただけだ」 怪人は早口でしゃべりながら、出前で使うアルミの岡持を机に置き、いそいそとどんぶりを並べはじめた。出汁でふやけてしまわぬよう、ちゃんと天麩羅が別皿だ。 伸びる前にほら、と促されるまま少年はソファに腰掛けた。 怪人が向かいの席にどっかりと座って食べ始めたのを契機に、少年も箸を割った。そしてしばらくは両者ともに黙々と箸を進め続けた。食べているうちに自分が腹を空かせていたことを思い出したのだ。 食べ進めるうちにも、少年は目の前の男の観察を続けた。 黙って蕎麦を食べていれば探偵に見えないことはない。いやいや、この怪人は変装の名手だ。本物と並べたって見破れないくらいにはそっくりなのだろう。ましてや『探偵』の正確な姿を思い出せない現状にあって、最初からこの姿で来られたのなら、いまの少年であればいともたやすく騙されていたかもしれない。皮肉にも、本物が失われたいま、最も精巧な偽物こそが本物を知るための縁(よすが)たり得るのだ。 「その顔、ほんとに変装なのか?」 「うん?」 「近くで見ても『顔』があるようにしか見えないから」 少年から口火を切ったのは、そういう意図はなかったにせよ、怪人の行いに拗ねて黙り込んでいるようで収まりが悪かったからだ。有り体に言えば、子供っぽかったのではないかと。 「そりゃよかった」 怪人は飲みかけのそば湯をぐっと飲み干してから言った。 「むしろそうなってないと困る。ちゃんと『顔』になるようにしたからね。どうだい、ちょっとは存在感が増したろ?」 「解像度が上がったとでも言うのかな。変装前のきみがどんな姿をしてたのか、ちょっと前のことなのに思い出せないもの。どんな魔術を使ったんだい」 顔のない怪人、顔のない男――いまは探偵の顔をした男は、「企業秘密ということだよ」と曖昧に微笑んだ。その表情が、眉のひそみの皺の数までわかるようになっている。薄ぼんやりとした『怪人』と違って、奇妙な実在がそこにあった。輪郭を濃くした怪人は、たしかにここに存在があるのだ。少年がいくら眺め回したところで、変装というよりは無の貌から突如として顔が湧いてきたようにしか思われなかった。 「しかし先生にしたってそんな意地の悪そうな顔だったかなあ。僕の覚えてる限りじゃ、先生はもう少し穏やかな方だったと思うけど」 「そりゃきみには甘いだろうからね。追いつめられる側からするとこんなもんだ」 「ああ……これ以上にないってくらい納得だね」 「マア、これからいくらだって調整がきくとも。それとももっと若い感じが好みかい。きみの好みだというなら、ことによっちゃ寄せて差し上げよう。どうせ手を組むなら付きあいやすいほうがいい」 「……ちょっと待って。いつまでその格好でいるつもりだい」 言葉の間から、不穏な響きが聞こえた気がした。 怪人は答えない。 さて、と手を合わせてどんぶりを片づけ出す始末だ。 「ねえ、いつまで先生の格好でいるつもりだい? まさかおまえ、このままずーっとその格好で先生に成り代わろうってんじゃないだろうね」 少年は立ち上がり、怪人に詰め寄った。 「言ったろう、おれにも考えがあるのだ」 「考えってどんなだい。いまここで僕にも披露してくれないかな」 「つまりだね……つまりおれは考えたわけだ。探偵先生を見つける方法を」 怪人は少年をなだめつつ言った。いぶかる少年の視線を避けつつ、まるで本物の探偵であるかのように腕を組み、歩きながら説明を続ける。 「きみも言ったとおり、ぼくときみのふたりぽっちじゃ闇雲に探してもきりがない。だったら向こうから出てくるようおびき出さなくちゃってのがぼくの案だ」 「それは聞いたよ。でも事務所を立ち上げたからって先生が来てくれるとは限らないじゃないか。どこにいるのかもわからないんだから、事務所ができたとどうやって知らせるんです。耳に入らないんじゃ意味がないよ」 「そうだよ。だから先生の耳にも入るようにするのさ」 「? だから……」 知らせようにも方法がないというのが問題ではないのか。それともなにか自分の考えには見落としがあるのか。少年は言葉を止めた。 ――なにか悪い予感がする。さっきから無性に、悪寒があるのだ。 怪人は椅子の背に手をかけ、楽しそうにギシギシと揺らした。 「わからない? さすがのきみとはいえちょっと思いつかないかい。あのねえ、たとえやつがどこでなにを落ちぶれていようと、そんなことは知ったことじゃないんだよ。ぼくもきみもやつがいなければ、物語の続きを始められないんだから。……フフフフフ、しかしだよ、もしもここにやつと同じ顔と名前をした探偵が現れたらどうだろうね。しかもきみが、他ならぬきみが! その新しい探偵と組んで活躍しているとしたら? メディアでその活躍を目にとめたとしたら?」 「まさか、」 少年は、探偵助手の少年だった。その全盛期の活躍はめざましく、勘は働く頭は冴える。そのかつて磨かれた観察力が告げるのだ。怪人の言葉。そこから導き出される答え。そしてなにより怪人の、獲物を絡め取る蜘蛛のように腕を回した椅子――それがかつての探偵のために用意された、探偵にしか座ることを許されぬ椅子であること。 それがすべてだ。すべて証拠だ。 「ぼくが先生の立場なら居ても立ってもいられないね。ねえ、先生が恋しけりゃぼくを先生と呼んでもいいぜ。なんてったってぼくは今日からこの探偵事務所の先生だもの」 ねえ、森山くん、と。 探偵の顔をしたものはひどく悪魔的に微笑んだ。 理解も驚愕も通り越し、少年が真っ先に感じたのは次のようなことだ。 なるほど、探偵に追いつめられる犯罪者とはこんな心境になるんだな、と。 それから、逃げ道がないじゃないか、とも。 「……」 「…………」 「つまり、探偵として事件を解決するってことかい? 事件を解決して、探偵として有名になって、それで先生の耳に入れると。そういうこと?」 「さすが森山くん、話が早いね」 「僕は森山じゃないけどちょっと待ってくれ……ということはだ、探偵としておまえが、探偵のかたきであるところのおまえが、探偵をやる、と。そういうことになるんだね」 「そうそう。そのためには『顔』が必要になる。きみに任せてもいいかと思ったが、きみの年齢じゃ事務所をやるにはちと幼いからね。それにほら、かわいいきみが自分そっくりの探偵に師事してるってほうが煽らないか? だからこれ、先生の顔ね」 「百万歩譲ってその案を聞くとして、その、『事件を解決する』ってところはどうするんだ? そんなことおまえにできるのかい?」 「できないよ。無論、きみがやるのだ」 「……」 「だっておれは盗み専門のこそ泥だもの。餅は餅屋、探偵行為は探偵にってね」 「…………」 「ヨッ、日本一の名探偵! 名探偵代理!」 少年は名前を失い、怪人は名前を忘れ、探偵の名は元より知らぬ。 それでこの事務所の看板には、だれそれ先生の部分がなく、ただ「探偵事務所」との表記がされているという、どうにもそういう具合である。 |