『不在の探偵』06 探偵事務所の扉をくぐると怪人がいた。黒いシルクハットに黒いマント、それからマントの下には黒い礼服を着ているらしき怪人がいた、いや、いる。いるのだ。ソファに浅く腰掛けて、なにやら顔を深く下げて沈んでいる様子である。 発見者の少年は、十分な距離を取ってこの怪人物を観察した。すぐ逃げ出せるように扉は開けておく。少年が声を上げなかったのは、ひとつには彼があの名誉ある探偵の第一助手であることがまずひとつ。そしてまたふたつめには、彼がとびっきり肝の太い少年であること。そして最後に、怪人自体は別にこの事務所にいても不思議ではないからである。 説明が難しいな。こう言えばわかってもらえるだろうか。この怪人は、探偵の代理人なのである。探偵はこの事務所にはいない。どころか方々を探したところで見つからない。では死んだのか? ――わからない。だれもそのことを覚えていないからだ。では生きていればどんな人物なのか? ――わからない。忘れられてしまったからだ。誰も彼もがその探偵のことを忘れてしまった。少なくとも、怪人と少年には『探偵がいた』記憶はあっても、それがどこのだれで、どんな名前の、どのような背格好の声の匂いの人物であったのかを思い出すことができない。彼らが事を認識したときには、彼らはすでに忘れられた物語であり、自分たちのことすら断片的にしか覚えていなかったのだ。 話が長くなった。ともあれ、探偵不在の事務所において、探偵として仮の顔を立ててやっているのが怪人なのだ。少年がせめて「少年探偵」だったなら、あるいは怪人が自らの名を確立させていたのなら、また違った方法があったのかもしれないが、これは言っても仕方がない。 とにかくだ、少年の知る範囲において、怪人はひとまず探偵的な見た目を保っていた。それがいったい、今朝になってなぜこうも不審者そのものという格好なのだろう? いったい、気でもちがってしまったのだろうか? 急に噛みついてきやしないだろうか? なによりも――と、少年のほうでも思うところはある。 それを確かめるためにもまず、少年には確認しなければいけないことがあった。 そこで少年はまずなんでもないふうを装い、給湯室で茶を入れるふりをして、遠巻きに怪人の姿をうかがった。安全が確認できた……とは言いがたい。だが怪人が顔を落としたままソファから動かないのを見て取ると、少年はふたり分の湯飲みを手にソファへと忍び寄った。机に茶を置く動きのまま、そっと横から、あくまでもさりげないふうを装って、されどじっくりと、怪人の顔を覗き込む。 怪人のほうでも、さすがに少年に気づかないということはない。まじまじと観察してくる少年を、じとっとした目で見返した。その目の周りというのがまた、シルクハットで隠れて見えなかっただけで、黒いマスクが巻いてあるのが異様だった。よく見れば口ひげもある。唇の上に八の字型のが二本、立派に生えている。 「……」 怪人はさっきからだんまりだ。いつもなら、一応は探偵のふりらしく「やあおはよう米俵くん」だとか適当な名前で挨拶をするくせに、今日はそれもない。むしろこの目は、こちらになにか言葉を期待しているような……そういう目だ。 なにを言ってほしいのかまではわからない。 だが違和感というなら、この上もない違和感がひとつある。 「……そんなに『怪人!』って格好してたか?」 「それだよ」 パチン、と怪人が指を鳴らした。白手袋をはめているとは思えないほど音が響き、少年のほうではその音に驚いたくらいなのだが、怪人はそんな様子には構わずペラペラと堰を切ったように話し始めた。 「それだ。そうだよな。自分でも薄々そうじゃないかとは思ってたんだが、いやよかった。きみがなにも言わないもんだからおれは、もしかしてこれがおれの正装なんじゃないかって疑ってしまったじゃないか」 「疑ったって……いったいぜんたいなんでまたそんな格好なんだ。またぞろ新しい遊びでも思いついたのかと思ったけど、今日は例の『変装を暴かれた怪人』ごっこじゃないんだね」 「失礼な。おれは考えたのだ。まあ座りたまえ。茶なんか置いて。ほら」 と怪人に促されるまま、少年は怪人の向かいの席に座った。 「で、なにを考えたって? なにを考えたらその『仮装』になるんだい」 「おれ自身のことさ。探偵のことばっかり思い出そうとしたって限界があるし、腹が立つからね。それでおれが昔はどんな格好をしていたのか、どんな顔をしていたか、と考えたわけだ」 「それってたしか、変装のしすぎで自分でも自分の顔が覚えちゃいない、みたいなことを言ってなかったかい。いまに始まったことじゃなく、わりとあのときから」 「まあそれはそうだがね」 そう言って、手袋の指で口ひげをピンと跳ねさせる。傍目には生えているようにしか見えないが、これもきっと特殊な糊で自然に生えているかのように見せているのだろう。……それよりも、この姿の怪人と差し向かいで普段どおりの会話をしている現状は、少年の目から見て異常だった。なんでこの格好で普通に座ってるんだこいつ。 「それでも思うじゃないか。変装を解いたあとの姿くらいはあるのじゃないかとね。おれだっていつも変装してばかりいるわけではない。きみの前で素顔をさらしたことだって、一度くらいはあるだろう」 「それって、先生がおまえの変装を見破ったときのことかい? それともそこから決死の逃走をはかったときのことかな」 「……マア、一度や二度の失敗でへこたれるようなおれじゃないさ。とにかくね、おれは考えたんだ。おれがどんな姿で活躍していたか、あの日の自分を必死に思い出したよ。でもなにも浮かんじゃこない。衣装を組み合わせて組み合わせて、かろうじてひとつ『もの』になったのが……どうだい? これ」 と怪人がマントを翻しながらバサリと立ち上がる。立ち上がってみてわかったが、ふだんこの事務所でよく見る怪人よりも、いくらか年嵩が増しているらしい。ポーズを取る腰回りにやや厚みが感じられた。 「マスカレードじゃなくて片眼鏡のほうがいいか? どうにか言ってくれよ」 と尋ねてみせる語気はほとんどやけくそだ。 だがどうしたって少年の感想はただひとつだけだ。 「どうって言われても、ほんとにそんな格好してたかな。僕はちょっとぴんとくるものがないみたいだ」 「それなんだよなあ」 「でも言いたいことはわかる気はするな。こうやって見てるとこう、不思議なことに、どうしてだかしっくりくる気はするんだよなあ」 「そうそう、不思議なことに自分でもそう思ってね。絶対にこんな格好をしていた覚えはないのに、不思議と着ていて違和感がない気もするんだよ。警察諸君を相手にこのいかにも捕まえてみろと言いたげな装束で挑むってのも、いかにもやったような、イヤイヤ、やっていないような……やってない気もするなあ」 「……外国の怪盗なんかにいなかったかい?」 少年がなけなしの記憶を辿りながら言うと、怪人は「ああー」と感心したように頷いた。いかにも悪事を働きそうな見た目で、こうも素の反応をされるとますます『仮装』の感が増す。少なくとも、まだ朝日も抜けきらぬ時分からする格好ではない。 「それも思ったんだ。自分に近い、でも自分ではない……そんな存在がいたのかもなあ。おれの贋者かしら。だがね、おれがそいつを尊敬しているでもあるまいに、なんだってこっちが姿を真似てやらにゃならんのだ。そこがよくわからないよ」 等々ぶつぶつと言いながら、怪人は腕を組んだままああでもないこうでもないと喋り続けた。たまにある、発作的に起こる、いつもの迷走っぷりだ。 「あ、」 少年の口から声が漏れた。怪人の迷走っぷりを眺めていて、思い出したことがあるのだ。ただし、少年にとっては釈然としない記憶だ。しかし、小さな発見を耳ざとく聞きつけた怪人が「言ってみたまえよ」と促すので、仕方なく口を割る。 「いや、僕もあるなと思って。そういうの」 「まだるっこしい言い方はよせよ。そういうのってどれのことだい」 「説明が難しくてねえ。言うより見せたほうが……うん、そうだなあ」 少年はしぶしぶと腰を上げた。少年は事務所の二階だか三階だか、別のフロアに住処を持っていたので、普段はそこで寝起きしているのだ。服やなんかの私物もそこに置いてある。どこから湧いてきたのかは定かでない、集めた覚えもないものばかりだったが、『そういうもの』であるらしい。少年は事務所から自室へ戻ると、箪笥から一着の洋服を引っ張り出した。 そして再び事務所へ現れた少年の姿に、怪人は一言「なるほど」と呟いた。 上から下まで眺め倒してただ一言、なるほど、だ。 「どうだいこれ。似合うかい?」 憎たらしいことに、マスカレードが邪魔で相手の表情が読めない。 「僕もね、こんな格好ほんとにしてたかなって、自分でも疑問なんだけど。でも不思議と着てみると着れるというか、着れちゃうんだよ。ねえ、どうかなこれ?」 少年は重ねて尋ねた。 衣装を着てみてわかったことがある。 変装は任務だ。どんな格好に化けるのだって恥ずかしくない。 だがコスプレは、着用者側に相応の覚悟をともなわせるのだということを。 少年の服装というのは次のようなものだ。 サスペンダーで吊った半ズボンに、白いシャツには蝶ネクタイ、頭には鳥打ち帽。肩掛けのポシェットで探偵道具を携帯する。――ここまではまだ一般的で健康的な美少年の服装だ。 だが、袖に腕を通さずマントのように引っさげた上着のタータンチェック。それに、意味ありげにかざした大きなルーペ。――少年の価値観において、これはどうあっても『仮装』だ。しかしそれでいて、全体で見ると違和感がない。自分は本当にこんな格好で先生の事務所に通っていたのだろうか? 「絶妙におしいという気はするがこう……どうもなあ」 やっと口を開いた怪人は半笑いだ。親しげに少年の帽子のつばをちょっとだけ持ち上げ、さらに全身と見比べて言う。 「このへんは、うん、らしいっちゃらしいかな。だけどもそんな『探偵!』って格好してたかねぇ? かわいらしい探偵さんじゃないか、うん。パイプでも持ってみるかい?」 「こういうことだろ。わかるよ」 少年がすかさずポシェットからおもちゃの黒パイプを取り出すと、怪人は笑いをごまかすために咳込んだ。 「なんでそんなもの仕込んでるんだい。用意周到だねぇ」 「これとルーペは入れなきゃいけないって気がしたんだ。なにに使うかもわからないのに。心当たりあるかい?」 「ないね。全然ない。でも、これはあれだね、つまりこういうやつのことだろう?」 と怪人が手品の要領で空中からステッキを取り出すと、今度は少年が吹き出す番だった。 「きみもうそれじゃマジシャンじゃないか。マジックショーにでも立たせてもらうといいよ。サーカスなんてどうだい。似合うから、絶対似合うからね」 「なんだろうなあ、そういうのには不思議と自信があるぞ。食うに困ったらマジシャンの花形でも目指してみるかね」 とそのように、互いの格好を見比べつつ、好き勝手を言い合う。夜の夢に月光のライトでも照らせば見栄えがしようが、昼ひ中の光景にあっては安っぽくていけない。どうあったって滑稽で、馬鹿馬鹿しく、あまりに大衆小説じみた光景ではないか。 しかし大衆小説とは、元来そのようなもの。大げさな衣装に身を包み、捕り物を演じてみせる『怪盗』と『少年』だってどこかにはいたのだろうし、もしかしたらこれだってひとつの正道なのかもしれない。だからこそ衣装に袖を通すのに躊躇いがなかったのだと、少年も怪人も薄々わかっているのだ。 ひとしきり感想を言い合ったあと、ふたりは目の前の相手ともう一度見て、それから自分自身の格好を見下ろした。怪人はごく怪人じみた格好を。少年は探偵らしい少年の格好を。 「ないな」 「うん、これはないな」 と苦笑いして、解散。じきに怪人は探偵らしい姿に戻り、少年は少年らしい服装へと戻る。それがこの事務所の、この物語未満の物語における正常で、ねじれていても正道なのだ。すべてが元に戻った暁には失われてしまうであろう束の間こそが。 |