隙間さんが見てる



 内藤和樹(ナイトウ・カズキ)は十六歳。二月十四日の遅生まれで伸び悩む背は162.4cm。毎晩の筋トレに身長を伸ばす効果は薄く、胸の厚みばかりが増えていく。しかし背の低さと裏腹に顔つきはいたって精悍で、剣道部次期エースの呼び名も納得の体つき。スリーサイズはトップシークレット。放課後は部活に励むため帰宅は毎日六時十五分前後、休日も部活のため家にいないことの方が多い。机に向かう時間は授業時間を除いて三十分もあれば上々。そのおかげで成績は中の下、苦手は英語と公民。化学は得意。好きな食べ物は親子丼とすき焼きビビンバ。言うまでもなくご飯派。出席番号は三十番。一人っ子。両親が仕事で家を空ける日が多い。犬を飼いたいが家族全員が留守がちのため諦めている。料理は不得意。それから……(中略)……その上なんと……(割愛)……そうそうこれだけは……(後略)……(さて、これだけ話せば彼のこと、どんなに魅力的かわかっていただけたかしら?)

 内藤くん、と女のため息一つ。

 女? ――そうとも。女。女は陰から内藤くんのことを見つめている。物陰だなんてそんな生易しいものじゃない。第一、六畳ばかりのこの部屋のどこに、人一人が気づかれずに身を潜めていられよう?
 では、部屋の外の廊下から?
 それとも窓の外に張りついて?
 盗撮盗聴でもしているのかしら?
 ――いいえ、女は部屋にいる。内藤和樹の部屋にいる。部屋の主と同じ空気を共有している。ならば女はどこにいる?
 ――女はいる。家具と家具の間。指がわずかに通るばかりのその隙間から、じっと見つめている。じっと見つめて、熱視線。視線の先には内藤和樹。それが彼女の思い人。


 月上ゲ町二丁目二番地・内藤家二階の本棚とタンスの間。
 隙間娘はそこにいる。


 それにしたって罪深いのは彼のこと。どうしてこんなに人を魅了してやまないのだろう、罪作りな人です、あなたは。内藤くん。そう呟いてまたため息。家具の隙間から埃が転がる。他の家具に邪魔されず、相手がどこにいても見渡せるこの位置こそ、彼女のお気に入りの定位置だった。自分がいる限りゴキブリもクモもノミだって、一匹たりとも近寄らせてやるものか。あの人に触っていいのは私だけ。……なんて息捲く彼女はまだ、彼の肌に触れたことは一度もない。正真正銘の乙女なのだ。
 乙女?
 ――そうとも彼女は恋する乙女。とびきりうぶな乙女です。

 いくら同棲しているといったって、彼の手も握れやしない。顔も見れない。それでも態度は殊勝にしずしずと、彼が外出するときにだけ、三つ指ついてお見送り。彼が部屋で休んでいるときには、三歩後ろで貞淑にお見守り。乙女といえど、心ばかりは奥方のよう。料理もやります。彼の好みは先刻承知。お義母様のお料理をそっくりそのまま再現できます……現に、今日だって。

 さて、内藤くんが部屋を出た。午後九時四十五分。入浴の時間だ。足音が下へ降りていくのを確かめて、彼女はのそのそと隙間から這い出た。そしてこれから浴室の扉の隙間からのぞき見……に向かうわけではない。そんなはしたない真似するしやしない、――もっとも、魔が差しての犯行は一度や二度では済まなかったが――隙間娘は乙女だもの。少しくらい、可愛いものです。

 さて隙間娘、主一時不在の部屋でなにをするのかと思いきや、ひょっこり顔を覗かせ、きょろきょろと、場所を移す。本棚の隙間から、ベッドの下の隙間へ、いそいそと。居を移す。
 隙間娘は隙間娘というくらいだから、指一本入るくらいの隙間ならどこへだって入っていける。ベッドの下の隙間は内藤くんが好き勝手に詰め込んだ靴の空箱や使わない教科書なんかでぎゅうぎゅうだけれど、そのくらい物が詰まっている方が、隙間娘にはかえって心地が良いくらい。彼女は多分に広所恐怖症の気があったから、物に挟まれているのがちょうど良いのだ。
 そして彼女は内藤くんの帰りを待つ。ベッドの下、初めての夜を待つ花嫁のように、どきどきうっとりと胸を高鳴らせて。彼の下で(無論、敷き板を挟んだ下で)幾度の夜を過ごせども、それはいつだって彼女に初めてのような歓喜をもたらすのだ。

 そのうちに内藤くんが帰ってくる。きしむベッドに彼女は期待する。ベッドの下の隙間に潜り込んでいるとよくわかる。板間を通して彼の身じろぎや、呼気までが伝わってくる。もういっそのこと、マットレスと敷き板の隙間に収まることができれば――すでに可能であることは彼の留守中に実験済みだが――それが実現した暁に、自分が正気を保っていられる自信がなかった。
 彼の方では彼女の存在など塵ほども認識していない。

 それでいいの。
 それがいい。彼女は唱える。

 自室で気を張る者などそういない。ひとりきりの自室というのは人間が唯一心おきなく気を休められる場所だ。もしも彼が彼女の存在に気づいたとしたら、自然な姿を見せなくなってしまうだろう。隙間娘は隙間にいて、隙間で見て、それでいい。
 ところで彼は最近浮かない顔。部屋にいても気はそぞろ。母親に破廉恥な本がばれてしまったのが、そんなに悲しいのかしら。隙間娘がベッドの下に身を潜めるため、そっと本を移したのがまずかったのだけれど。あれがそんなに大切だったのかしら。生の女より、写真の方がいいなんて、うぶで可愛いひと。でもお義母さんったら、あんなに叱ることはなかったのに。そんなふうに。
 隙間から見ているからこそ、わかることもあるのです。

 彼が寝静まる気配を感じ、隙間娘は頭を出す。
 寝顔を見守る。この時間が彼女の一番のお気に入り。
 電気をつけたまま寝入ってしまうなんて、不用心なひと。
 隙間娘はうっとりと目を細め、物音一つ立てずにたたずむ。節くれ立った彼の指を、そっと眺める。触れはしない。眺める。……まだ、眺めるだけ。
 少年剣士の指は相応に無骨で、厚い。それがいまは穏やかに上下している。彼女は静かに自分の手を、彼の横に並べた。日光に触れたことなど一度もない手は、夜闇に青白く浮き出ている。ほとほと彼の手とは対照的だ。彼の無骨な手は、指にも甲にも青あざが絶えなかった。それに、一度折れたままで固まった右の中指は、薬指に寄りかかるように曲がり、お世辞にも整っているとは言い難い。だが、彼女は彼の手をうつくしいと思った。かけがえのない、この上もなく愛おしいものだと思った。
 そして同時に、悲しくもなった。
 どうしようもない断絶を感じるのだ、この太陽のようなこの手との間には、何千里にもわたる川があって、自分はそれを絶対に越えられない、それはどうしようもない断絶だ。

 だから彼女は指を絡めてみる、妄想をする。

 自分の横に彼女が隣り合うことなど、彼の方ではまったく気づかず、厚い胸は無防備に上下している。寝着に空いた隙間から健康的な皮膚が窺える。筋肉に覆われた腹がうっすらと膨れている。その腹を満たすのは彼女の手料理だ。大好きなあなたが嬉々として、私で、腹を膨らませている。征服感にぞくぞくする。

 もしも、この手を、絡めたら?
 全部を、好きにしていいと言われたなら?

 そのときのことを思うと、のぼせあがった頬を隠すことができなくなる。
 きっと彼女は、彼の手を引くだろう。
 まずは手、それから肩。彼はきっとひどく抵抗するだろう。だから最初に絡めた指は最後まで絶対に放さない。ともすれば腕だけもぎ取ってしまう恐れもある。身体の方に逃げられでもしたら厄介だ。足は縛っておいた方がいいかもしれない。できるだけ薬には頼りたくないけれど、あらゆる可能性は考慮に入れておかなくては。片腕を引き込んだら、急いでもう片方も押し込んでしまおう。彼の身体は小柄だけれど筋が多いから、折り畳む際には苦労するかもしれない。何もかも急いで行わなくては。辛いのは苦痛にゆがむ彼の顔だ。痛みを叫ぶ声を、顔を目の当たりにしても、手を放さないよう覚悟を決めておかないと、説得できるようにしておかないと。大切なのは心構え。そう、心構え。中途半端が一番駄目。辛くて苦しくて悲鳴を上げて。でももう後には引けないね。肩を潰して、もう二度と竹刀は握れないなんて、中指を骨折したときにだってあんなに落ち込んだのに、そんなことになったらきっと彼はひどくひどく絶望して、死にたいくらいに落ち込むかもしれない。そんなの可哀想だもの。だからやるときめたらひと思いに引き入れてしまわないと。

 寝返りを打った。
 さあ電気を消して。寝冷えしてしまうわ。お布団をかけてあげる。
 彼女は愛しい人にする手つきで、ずれた布団をかけなおしてあげる。幼なさを残す横顔は、隙間娘のことなんて夢にも思っていない。隙間娘もそれでいい。隙間娘は彼のことを熱視するが、彼に振り向いてほしいわけではない。だってふたりがくっつくことは、わかりきったことなのだ。自明の理。だから今はまだ、このまま恋する距離を楽しめばいいの。そのときになれば。全部が、なるようになる。

 彼の肢体は折れ曲がり、臓物は無茶苦茶によじれる。
 骨は無茶苦茶な方向に圧縮されて粉々になる。
 厚い胸板も精悍な顔立ちも、薄く薄く、隙間に押し込められ、ぎっちり詰め込まれる。
 そのときにやっとひとつになる。
 彼と彼女とぴったり二人。寸分の間もなく寄り添うのだ。

 想像して、彼女は興奮で高まった身体を抱きしめた。
 ――なんてすてき、それはなんてすてきなんでしょう!
 両の二の腕に爪を立てる。そうでもしないと自分を押さえきれそうになかった。
 でもそれにはまだ早い。だって内藤くんは十六歳。結婚できる年齢までにはあと二年。それまではまだ、まだ我慢しなくちゃ。彼女は唱える。繰り返し。そのときまでは我慢しなくちゃ。でも、いつか、そのときがきたら?

 ぴたりと動きを止める。視線の先には彼の寝顔。
 内藤くんはなにも知らずに眠りこけている。
 隙間娘は陶然として微笑した。


 ……楽しみだね、内藤くん。


「隙間さんが見てる」
(あるいは「花嫁志願」)了



back


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -