墓場でランチを




 春を踏む。足音は花弁に吸い込まれるように消えた。足の裏で生き物の死骸を踏み歩くその感覚に、男もようやく慣れつつあった。無心を努めて足を進める。太陽とは逆の方向、自らの影の差す方向へ。目標はもう見えている。ここまでいくつも似た形のものはあれど、どれも男の求めているそれとは違っていた。どこがと問われれば答えようはないが、自分の墓を見間違うことがないように、自分の中に確固たる指標があり、自分はそれに向かって進んでいるのだとしか言いようがなかった。
 目標には存外にすぐたどり着けた。目指していた場所に立ち、正面から向かって、なにか声をかけようと言葉を探したが、久しぶり、も、やっと会えた、も違うような気がして、結局は口をつぐんだ。ただ男の左腕だけが、帰ってきた、と安堵を告げた。
 男の目指していたもの――それは花をつけた一本の木である。
 空に向かって枝葉を伸ばし、薄紅の花を散らせている。見上げるほどには大きいが登って登れないこともないだろう。辺りには他にも同様の木が花をたたえていたが、男が求めていたのは、その中でも比較的若い、この花の木に間違いなかった。それは彼と、彼の左腕がよく知っていた。

 男はマスクの金具に手を掛けた。手袋越しに慣れた手つきで金具を外し、頭を覆うマスクの淵に指を入れた。もう何度もやったことだ。それに死は恐ろしくなかった。だが覚悟はしても、マスクを剥がすその瞬間には息を止めずにいられなかった。――強い日光に目を細める。肌の表面にひりつく感覚を覚える。しかし皮膚が焼けただれるようなことはない。巷間でまことしやかに囁かれている噂を、信じないこともなかったが、どこまでいってもそれは迷信でしかないのだ。一度、二度、呼吸を整える。
 日差しは木陰に入れば幾分か和らいだ。男は枝々が太陽を遮るあたりに腰を据えることにした。
 薄紅の花弁が降り積もる上に、おそるおそるといった様子で腰を下ろす。わずかに押し返してくる感触と、反対に沈み込むようなやわらかさに、座りの悪いものを覚えないわけではなかったが、ふと花の視線を感じたように思い直し、偉丈夫を決め込んだ。花は何も言わなかった。男もまた、何も言わなかった。
 花の名は知らなかった。そもそもが学問と無縁で育ってきた身の上だ。花の名どころか、それが花で、花というものだということすら、本当は知らずにいたのかもしれない。男はここに至って花を知った。花を、そしてその香を、肌を。はっ、と頭上を見上げた。しかし花は笑わなかった。男もまた笑わなかった。
 男は静かに心を落ち着かせた。
 風を感じた。花の香が薫る。素の肌に当たる風に、最初は困惑と恐怖を覚えたものだ。呼吸が乱れ心臓が速まり目眩を覚えた。鼻腔をつつく土臭さと潮、自然の臭いに吐き気を催した。しかし今となってはそれも遠い。彼は風を当然そこにあるものとして感じた。風が運ぶ遠く香に心地良さを感じた。それは彼自身の感覚が麻痺したというよりも、立ち返った、と言うべきかもしれなかった。

 不意に空腹を感じ、男はここへ来た目的を思い出した。持参していた鞄から両手に収まる銀の箱を取り出し、おもむろに包みを開く。
 パンに薄切りの肉と葉野菜を挟み込んだ品だ。手で持って食べられるようになっている。男は真ん中あたりに歯を立てた。舌の上にざらついた麦と水分を含んだ葉が染みる。それがごく簡素なものだったため、少々拍子抜けしないでもなかった。上等のチケットをはたいて購入したものとあり、香辛料で臭みをごまかした常の食事とは違っている。酵母肉ではない肉は堅く一口では噛みちぎれなかった。
 男はそれを押し込むようにして飲み込んだ。
 はら、と花がパンの上に乗った。五枚の花弁がそのままの形で降ってきたのだ。何の気なしにそれを摘む。まじまじと見つめようとして、その手が手袋を着用したままだったことに気づき、反対の手で無造作に引き抜いた。片方だけ外すのも妙だ。もう片方、左手も抜く。我が身ながら、鬱血して変色した左手には気詰まりするものを感じずにはいられない。彼はその左手で花を弄んだ。
 生の、ただのひとひらの花弁というのは、生きているのか死んでいるのか定かでない。しかしこうして五枚、中心で結びついていれば、まだ息があるように思えてならなかった。その証拠に、しっとりとしていて、地に埋めれば息を吹き返すような気さえした。
 男は指先にべたつく感触を覚えてすり合わせた。そのまま捨てるにも惜しくなり、男は花を舌に乗せ、ゆっくりと咀嚼した。前歯で噛みつぶし味わおうとした。しかしそこに特別な味覚は感じられずあるのはただ感触だけだった。なんだこんなものか、と思う。それと同時に生まれたままの舌ではないことを少し悔いた。もう少し、早く来れば良かったか、とも思う。同意を求めようと思ったが、花は語らない。だから男も問いかけなかった。

 残りのパンを腹に収め、することもなくて、男はその場に寝転がった。
 花の地面の寝心地は、決して良いものではなかったが、今まで横たわったどんなベッドよりも上質だ、と感じられた。
 薄紅で覆われた天は、日を和らげ、木漏れ日を投げかける。花は絶え間なく降り注がれた。地に、風に、無論、男の身体の上にも。このまま動かずにいれば花は身体といわず前身を覆い隠すだろう。
 落ちてくる花をつかもうと手を伸ばした、その手が陽に透ける。男は不思議を以て自らの手を見つめた。左手だ。まじまじと陽にかざす。
 うつくしい、とは思わなかった。死んだ左手は紫色に燃えている。不気味な色を透かした。自分のものとは思われなかった。それはさながら生きた標本だった。この左手、左腕も、このままここにあれば、木となり花を咲かすのだろうか。おそらくそうなのだろう、と男は思った。
 反対に、右手を宙にかざす。こちらはどうも、まだ死にたがっているようには思えなかった。どちらの言い分に従えばいいのか決めかねる。男は花に視線を投げかけた。花は相変わらず無口なままでいる。
 そういえば、生きているころから無口なやつだったな。

「おそくなった」

 その一言を呟いて、相変わらず返答のない木ににじり寄ると、男は根の出っ張った部分に腰掛け、幹に寄りかかるように身体を預けた。目を閉じる。
 男は眠った。花はしかし眠らず、男の閉じた目蓋に花を降らせ続けた。





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