桜喰い




 桜である。立派なものだ。川に向かってのびのびと枝葉を伸ばす。その枝振りも良ければ花弁も大きく、春になれば見事な花を咲かせてみせる。この川沿いの桜並木でもいっとう立派な桜である。
 さてこの桜には、幹の途中に真一文字の傷があった。幼木のころについたものやら、ちょうど人の背の立ったあたりに一筋の傷が走っている。その傷というのが自然のものとも思われない。すっぱりと深くまで削られたそれは、刀で袈裟懸けにでも斬られたような有様で、どうにも傷としか形容しようがない。ならば何者かが戯れに傷つけたものか。しかしそのような傷がいつからあったのかについて知る者はなく、あったのはあった、昔からあったのだとみな一様に口をそろえた。なるほど傷の跡も幹と同様に古い。最初から傷を抱えて成長したとしか思われない有様だ。
 そういうわけでこの桜は「刃桜(はざくら)」などと揶揄して呼ばれる。花は良けれど幹には傷がある、花に惹かれて花見をしてみりゃ人は初めて傷に気付く、そんなふうに誰かが言ったのだろう。いずれにせよ古い名である。今はもう、その名で呼ぶ者はいない。

 桜である。桜といえば花見をするもの。この桜も葉振り花振りはそれは立派なものだから、春になれば花見客がとっかえひっかえだ。人が途絶える時はない、そう言っても言い過ぎにはならないだろう。朝といい夜といい、それぞれの客がそれぞれの肴をもってこの桜を訪れる。わいわいがやがや酒を飲めや飯を喰らえやの大騒ぎだ。
 さて、どの座にも決まってひとりは弁士気取りがいるもので、宴の席には得意の弁舌を披露したがるのが常というもの。
 弁士連中がまず目を付けるのが件の傷、桜の傷であった。「刃桜」の異名の元となったあの傷である。連中は「さあさお聴きくだされや。右手にございますは日の本は天下の桜でございます。三国一の桜と名高いこの一木、ハテ、ここにこのような傷がござろう……」などとよく通る声で謡いあげる。
 その傷の由縁や如何に――まっこと調子の良いものである。酔っ払いどもに人気なものは昔から、女と恋と人傷沙汰でござる。とすれば奴らの話す内容というのも容易に想像できよう。惚れた腫れたでこじれた男女がおりまして、それが女の夫の嫉妬の末、追いかけに追いかけられ、この桜の下で情人もろとも斬り伏せられた、桜の傷は女を刺し貫いてまだ怒りのさめやらぬ夫が、女ごと刀を幹に押しあてなぎ払った、そのときついた刀傷がこれこのような有様じゃ、と。おおよそどの弁士気取りもそのような具合である。

 ところでここにちょっと気のつく弁士があった。桜の下、酔いどれ気分の聴衆を前に、この弁士は不意の思いつきで一捻り、話の落ちに手を加えた。夫は女を殺した後、我に返って死体の処理に気を揉んだ。まさか自分が殺した女を担いで持って帰るわけにはいかぬ。そこで夫は女を埋めた。埋めたというのが、諸君らの尻の下――この桜のふもとである。
 これにはいくらなんでも酔いも冷めるというもの。うひゃあだのどひゃあだの跳び騒いでは宴の余韻は何処へ行ったものやら。さしもの弁士もしたり顔。しかしながらこれには相当反響があったと見えて。女の情人の方はどうした。それも埋めたか。いやそちらは川に流したのじゃ。死体と言えど木の下で二人結ばれようなどとは死んでも許さぬ。女が埋まっているからこのように、他の桜よりもうつくしく花を咲かすのであるな。人を食らって花を咲かすのだ。「刃桜」などと大和ぶらず、「人食い桜」と呼ぶがふさわしい。――などと、尾ひれは脈々と川流れ。流れ着いたは今際の際よ。流れる水を止めることができぬよう。誰が人の口を塞ぐことができようか。
 語れ語りや語らずとても。誰が口にしたかや言葉は呪い。「人食い桜」の名は瞬く間に浸透し、次の春にはこの桜の下、心ある者どもは嬉々として怪談を語った。
 曰く、死んだ女の血で桜が赤く咲くのだと。
 曰く、そろそろ次の人身御供をほしがる頃合いだと。
 曰く、以前ここで怪談を話した男は桜に食われて死んだなどと――そのような話まで出る有様。何が本当かまるでわかったものではない。
 嘘というならいずれの話も嘘のはずである。女も嘘なら死体も嘘。桜が人を食うなどと平気で口にするが、それらは根も葉もない噂話、幹も花もある桜だけが本当である。その桜が立派な桜で、幹に一文字の傷があるという事実だけが本当である。しかし「嘘から出たまこと」とは昔の人はよく言ったもので、まことしやかに語られるうちいつしか嘘は本当に、本当には嘘に。

 人はその桜を人食いと呼んだ。人を食う桜として語った。その木の下で、来る年も来る年も飽きもせず、女と桜と死体の怪事を語っている。そして訳知り顔で、なるほどうつくしく花咲かすも道理よと頷きを酌み交わす。
 桜は聞いている。木の下で語る人間どもの言葉に耳を傾けている。繰り返し繰り返し語られる、女の死体の怪談を。来る春も来る春も、聞いている。そしてもっともらしく、おまえのしたには女が埋まっているのだねと語りかけられる。
 しからば人食い、人食いと呼ばれ続けたこの桜も、次第にその気を起こしたとしても何ら不思議はないのでは? では掘り返してみるか? その桜の、木の根の下を。根も葉もない噂話のその結末を、己が手と目で確かめてみるか? あるはずもない死体を、斬って殺された女の死体を、殺されたまま朽ちもせず根に絡みつく若い女の死体を、幻視して。それならば、次の死体、次の人身御供は?

 …………。

 そんなわけで、桜である。立派なものだ。川に向かってのびのびと枝葉を伸ばす。その枝振りも良ければ花弁も大きく、春になれば見事な花を咲かせてみせる。この川沿いの桜並木でもいっとう立派な桜である。
 名は「人食い桜」と呼ばれている。





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