――そこで目が覚めた。 白い手が、ルービックキューブに似た木製のパズルを弄んでいる。キッタくんだ。ぼくの正面に座っているのはキッタくん。そしてぼくもまた、彼女の対面に座っていた。ソファだ。革張りの、覚えのある座り心地と見える景色。キッタくんの部屋だ、ここは。 「運んでくれたの?」 ぼくは出し抜けにそう訊いた。キッタくんがちらりとぼくを見た。鳶色の目に別段驚きの色はなく、手元は相変わらずパズルを動かしている。 「君は自分の足で歩いて戻ってきたんだよ。覚えていないのかい?」 「ああ、そうだったけ……」 歩いてきた記憶はなかった。キッタくんに案内された部屋で、フロントの人に怒られて、そこで記憶がぶつ切りになって……今に継ぎ合わされている。頭ががんがんする。痛みを手で押さえ、ぼくはキッタくんに尋ねた。 「キッタくんはさ、どうしてこんなとこにいるの? なんかもっと他にいい泊まり先、あると思うけど」 「『時空のおっさん』に会うためだよ」 「じく……なに?」 「『時空のおっさん』だよ」 キッタくんが顔を上げてにやりと笑った。「知らないのかい? 彼らはいま話題の都市伝説だよ。時空のゆがみに巻き込まれ、異世界に迷い込んだ人々を連れ戻すため、どこからともなく現れるという。ちなみに『おっさん』というが姿形は様々でね。若い女であったり、青年の姿をした『時空のおっさん』も目撃されているという。このモンスターホテルは一種の特異点だからね、彼らに会うにはうってつけじゃないか」 「……訊いたぼくが馬鹿だったよ」 嬉々として『時空のおっさん』を語る姿に、真面目な質問をした自分の方が馬鹿らしくなる。そう言うなよ、とキッタくんはパズルをテーブルに置いた。 「……それでTくん、あのときなにがあったんだ? 『3333』号室で、君はなにを視たんだい?」 そのときぼくは、にこにこしていたキッタくんは上辺ばかりで、目はちっとも笑ってなんていないことに気がついた。そりゃそうか。目の前で人がしっちゃかめっちゃかになっていたら、正気を疑う気持ちもわかる。ぼくは努めて笑った。なんでもないように、と。 「心配かけてごめん。ちょっと立ちくらみがしただけ。まだこの前の風邪が残ってるのかも。だから――だから、なんでもないよ」 キッタくんは怪訝そうな顔をした。 「それが君の呪文か」 眉をひそめて、ぼくを一瞥する。 「ならその傷も『なんでもない』のか?」 「え?」 「手首の傷だ。気になっていたんだよ。君はどうして長袖なんて着ているんだ? 最近君は学校でも長袖を着ているね。九月の末といってもまだ暑い。衣替えは一週間は先じゃないか。この時期にそんな服装で暑くないのかい?」 「そんなこと――」 ――いつも長袖のキッタくんにだけは言われたくない。 そう思ったが言い返せなかった。 キッタくんはそっとぼくの袖に手をかけた。とっさに腕を引こうとしたが、キッタくんの手がそれを許さなかった。有無をいわさぬ動きだ。「いいね?」そう訊かれたが、ぼくはただ彼女から目を背けた。 「自分でやったわけじゃ、ないんだろう?」 手首が空気にさらされる。そこにはまだ、かきむしった傷が残っている。 傷――掴まれた感覚が、爪の痛みが、まだ、現実のもののように思い出せる。満天の月に、目隠しの面が苦しげに歪んで、首を掴む手を外そうと、必死に―― 「君が急な衣替えをしたのはあの月祭りの後だ。長袖のシャツを着ている君の姿を見て妙だとは思ったよ。それに、悪いが僕は見てしまった。神社の一室で目が覚めたばかりの君と会ったじゃないか。そのときに君、僕の手を掴んだろう?」 そのときにね、とキッタくんが身を引いた。 「どうだい、まだ話す気にはならないかい」 そう言ってキッタくんは深くソファに身を沈める。ぼくは素直に頷くことができなかった。だから代わりにこう尋ねた。 「どうしてきみはオレの話なんて信じられるわけ?」 「……どういうことかな」 「キッタくんは怪談とか怖い話が好きみたいだから、オレのことをただ面白がってるんだろうけどさ、でも、見たんでしょ?」 この傷も、今日のことも。見たんなら、なにがどうなったのか、オレがなにをしたのか、キッタくんのことだから想像くらいはついているはずだ。 「オレはきみが期待してるようなことはなにもできないよ。良いことなんてなにもないし、オレみたいな中途半端なのに関わると、かえってどんな危険な目に遭うかわからない。それに――」 それに、と呼吸を落ち着ける。 「……霊が視えるとか、そんなの普通、誰も信じないでしょ」 「君もいい加減しつこいな」 まったく、とキッタくんは深々とため息をついた。「僕が信じると言っているのだからそれでいいじゃないか」 「だからってそんなのおかしいじゃないか! 信じないって、普通」 「君が普通じゃないのと同じくらいに僕も普通じゃないんだろ。聞いていれば君は何だ、休みの朝から押しかけてきたのはそんなことを言うためかい。そんなに僕の言葉を疑うなら、僕に信じさせようと思うなら、僕にも幽霊を見せるだの降霊をやってみるだのして証明してみせればいい。そうすればお互い疑いようもないだろう」 「そんなこと言われても……」 自分の視ているものを他人にわからせるというのは簡単なことじゃない。ましてやぼくは視る以外なにもできないんだ。 「……どうせオレは視えるだけだし」 「たとえばそら、こいつはどうだい?」 意気消沈するぼくに、キッタくんはテーブルに置かれたパズルを指さした。さっきまで彼女が弄んでいたパズルだ。これがなんだというんだろう? 「そいつは『リンフォン』というんだ。商店街の古道具屋で買ったんだよ。細かい説明は省略するが、ちょっとした『いわく』つきの代物だそうだ。店主の言葉だと「確かな本物」らしいが君の目にはどうだろう」 「いわくつきって……」 「その目がどこまで『視』通せるのか気になってね。どうだい、ほら、手に取ってごらんよ。なにか視えるかい」 キッタくんに促されるまま箱を眺め回す。手に取ってみるとけっこう重い。ずっしりとした木の感触だ。キッタくんが手で回したりしていたから、サイズの大きいルービックキューブくらいに思っていたけど、素人目にはどこをどう動かしたらどうなるのかさっぱりだ(こういうの、組木細工っていうのかな?)やたらと面が多くて、そういう置物みたいに見える。年代物には違いないようだけど――駄目だ駄目だ。これじゃ変な鑑定番組みたいになってる。 「っていっても、別になにも変なところは……」 「中身はどうだい?」 上下に振ってみる。音はしない。ただただ木のかたまり、という感じだ。 「……っていうか中身って。オレ別に透視とかできるわけじゃないし」 「それだよTくん」 パチン、とキッタくんが指を鳴らした。キッタくんの発言の意図がとっさに飲み込めず、ぼくはパズルを手に固まった。 「それって、どれ?」 「君は現実ではないものを幻視することができる。しかし君にはどこまでが視えて、どこからは視えないんだ? 君は『どうせ視えるだけ』と言うが、君の目にはなにが視えているんだ?」 「たぶん、幽霊とか……おばけ全般?」 「でも『さとるくん』は僕の目にも見えたじゃないか」 さとるくん――それはぼくとキッタくんが知り合うきっかけを作った、あの黒縁眼鏡のクラスメイトのことだ。 「でもあの人は都市伝説だったから、死んだ人じゃないし。ってことは、都市伝説の人ならオレじゃなくても見える、ってことになるのかな……?」 考えながら答える。 言われてみればその通りだ。『さとるくん』は普通にクラスに溶け込んで、クラスメイトとして過ごしていたんだっけ。ということは、幽霊と違ってキッタくんや他のみんなにも彼の姿が見えていたということだ。別にぼくだけが特別だったわけじゃない。――今までそんなこと、考えてもみなかった。 「なあTくん、パンドラの匣は開かれるために作られたのさ」 キッタくんは唐突にそんなことを言った。 「その昔、エピメテウスとプロメテウスという仲の良い兄弟がいた。二人は神の一族の一員で、まだ作られたばかりだった人間の世話をしていたんだ」 「それ、なんの話?」 「神話の話さ。パンドラと匣にまつわる物語だよ。君がなにも話したくないのなら、僕が好きに話したっていいじゃないか」 ――では話して聞かせよう。 そう言ってキッタくんは話しはじめた。 back |