なにか用があるんだろう――? 『飛び出す禁后』を開いて閉じて、としていたところに不意打ちでそう訊かれ、ぼくは「うっ」と言葉につまった。 そうだ、ここになにをしに来たのか、危うく忘れるところだった。キッタくんが手を組んでソファにふんぞり返る。 「僕になにか話があるから来たんだろう? なにせ日曜の昼前から訪ねて来るほどの用事だ。寝ている僕を叩き起こすくらいなんだから、さぞ大事な用があるに違いない。さあ、話してもらおうじゃないか」 「……やっぱり根に持ってるだろ」 「全然」うそだ、とぼくは思った。「初対面のときからして、君は人が寝ているときを見計らったかのように訪ねて来るなと思っただけさ。そろそろ話してくれてもいいんじゃあないかい?」 ぼくは黙り込んだ。 なにから……というより、なにを話せばいいんだろう。 朝からどうにも気がふさいで、家に居づらくなったぼくは散歩に出た。考えごとをしながら、どこをどう散歩したものか、ぼくの足は自然とホテルの方角へ向いていた。自分でもよくわからない。フロントの人に案内してもらい、いざノックをする段になって、そこでやっと頭が冷えた。 ぼくはキッタくんと知り合ってまだ一ヶ月と経っていない。他人も同然だ。そんな相手になにを打ち明けようっていうんだ?――そう気づいて急に冷静になった。 回れ右、帰ろうとしていたところにドアが開いた。 ――おい、ドアベルを鳴らしておいて今更どこへ行こうっていうんだい。朝からピンポンダッシュとはいい度胸じゃないか。 まあ入りたまえよ。不機嫌そうな顔でキッタくんが言った。――ぼくがノックする前に、フロントの人がチャイムを押していたらしい。 招かれるままにドアをくぐった。寝起きらしいキッタくんが用件を問う。頭の中には色々あるのに、なにから、そしてどう話せばいいのかわからない。そもそもこんなことを話してどうなるというのか。言葉がぐるぐる脳内を回る。なにも言葉が出てこなくて、それでキッタくんが代わりに話をしてくれたんだ。テーブルの上に分厚いファイルを広げて、『禁后』の話を。 「この家を所有する一族は、代々女を使って呪いをする一族だった」 「え?」 「話の続きだよ。『禁后』の」 ……ああ、また気を使わせてしまった。自分で自分がなにをしたいのかわからない。キッタくんはぼくと対照的に、淀みなく話を進める。 「徹底的な女系一族なんだ。男が生まれれば間引く。娘だけを子孫に残し、生まれた娘にあらゆる呪いの教育を施すんだ。そのときに重要な役目を果たすのがあの鏡台だ」 そう言って鏡台を――紙で作られた立体の鏡台を――指さす。 「娘は表向きの名前と別に、もう一つの別の名を授かる。その名前は母親しか知らない。この鏡台の引き出しには娘の忌み名を――たとえば『禁后』と――書いた紙を入れるんだ。それから娘の身体の一部も一緒に入れる」 「身体の一部?」 「爪とか歯とか手首とか――このあたりのことは割愛するよ。話していて気持ちのいい話ではない」 ……キッタくんがそう言うなら、詳しく聞かないほうがよさそうだ。 「じゃあその呪いって、どんな?」 「生き物を殺すんだよ。その一族は女系一族だから、子を産むために男は余所から引っ張ってこなくちゃならない。ただ、その家にとって家の秘密を知った男は邪魔者でしかない。だから用が済んだら……」 「秘密を知った男は殺す、と?」 「そう。呪い殺す」 嫌な話だなあ。ぼくが言うと、キッタくんは「呪いだからね」と平然と言い返した。 「でも近代になってそんな呪いの風習は廃れた。――当然といえば当然だね。ただ『生まれた娘に忌み名を授ける』という儀式だけが習慣として残った。それからこの鏡台を家に置く習慣もね。呪いのことなどなにも知らない一族の末裔は、この家で平凡な一家を築いたそうだ。――しかし、それですべてをなかったことにするには呪いの力はあまりに強すぎた。年月をかけて降り積もった呪いは、呪いのことなど露とも知らない末裔を呪い殺した。このパンドラという家で――」 キッタくんが息をついた。つられてぼくも息を呑む。 「――まず、娘が不可解な死を遂げた。爪を剥がされ歯を抜かれ、鏡台の前で死んでいた。それを発見した母はまもなく娘の側で自殺した。娘の父なる夫は失踪の後、これも家の前で発見された。口いっぱいに髪を詰め込んだ死体の姿でね」 「髪を詰め込んだ?」 「そう。さっきのD子と同じようにだ。長い髪が詰められていた。――自殺した母親の両親は呪いのことを知っていた。母と孫娘が死に、口に髪を詰め込まれた娘婿の姿を見て、彼らは言った。『今後八千代の家に入ったものはああなる。そういう呪いをかけたからな』それから、『せめて静かに眠らせてやってくれ』とも。――これでD子がああなった理由がわかっただろう?」 キッタくんが切れ長の目を細めた。 「この家には玄関がない。家具もない。この家は人間が住むための家じゃないのさ。鏡と髪を閉じこめて、死んだ母子を供養しながらも、近づく者を呪う家。パンドラという呼び名はあながち間違っちゃいなかった。――この家自体が、厄災を閉じこめた匣だったんだからね」 「厄災を――閉じこめた匣」 「パンドラだよ。家の形をした、パンドラの匣だ。好奇心に負けて開けば厄災により身を滅ぼす」 キッタくんは歌いあげるような調子でそう言った。 「村の大人たちは皆、このことを知っていた。だから子供たちには近づかないようにと、きつく言いつけた。だがなぜ入ってはいけないのかは語らなかった」 語らなかった? ……ああ、だから話に出てきた子たちは、中になにがあるのかを知らなかったんだ 「村の大人は口に出すことで呪いが自分たちに飛び火することを恐れたんだ。僕に言わせれば、それはまったくの逆効果だね。隠されれば知りたくなる。なぜ入ってはいけないのか、中には何があるのか、パンドラという名前の由来は? ――気になるじゃないか」 「気になる、かなあ」 「D子がおかしくなったのはパンドラの中身を見たからだ。だがその原因は誰もが口を閉ざしたからだよ。原因は村の大人たち全員だ」 そう話すキッタくんの口調には、どこか非難めいたものが感じられる。 ちゃんと教えられていれば、あんなことは起こらなかったんだろうか。 だが、感想を漏らすとキッタくんは「それはどうだろう」と肩をすくめた。 「結局はどこかで開かれていたと思うよ。呪いなんてあるわけがない、あの家には本当はなにがあるのかと――それこそ肝試し気分でね」 「じゃあどっちにしろ結末は同じなんじゃないか」 なんだか肩すかしをくらった気分だ。キッタくんはコーヒーのカップを片手に楽しそうに笑った。 「好奇心がそうさせるんだ。結局、パンドラの匣は開かれるべくして開かれた、ということさ」 と結んだ。釈然としないが、そんなふうに言われたら返す言葉もない。ぼくは机に広げられた『禁后』を見た。アルミが貼られた鏡台はなおも不気味に、たたずむ女の髪の毛を映していた。初めて見たときも不気味ではあったけど、こうして話を聞くと不気味を通り越して忌々しい。 カップをテーブルに戻し、キッタくんは言った。 「ところでTくん、お腹減らないかい?」 「お腹? まだ大丈夫かな。飲み物飲んでるからってのもあるけど」 「良かったらこれから下に食べに行かないかい」 下に?――そういえばここはホテルだった。レストランでも入っているのだろう。 「にしてももうそんな時間? 今何時だっけ?」 「十一時前だ。僕は朝食がまだでね。なにせ君が朝から訪ねて――」 「お腹、すいてるかも」 先手を打ってぼくは言った。これ以上文句を言われちゃ決まりが悪い。言葉を遮られたキッタくんは「じゃあ行こうか」と薄くほほえんだ。 back |