さてこの男、地獄と聞いてもなお平然としております。
 そこで今度はこのうつくしい首が尋ねました。

「おまえさまはどうして地獄へきたのです」
「人を殺したからだろう」
「たくさん殺しましたか」
「大勢殺したとも」
「男を殺しましたか」
「女も殺した」
「老人を殺しましたか」
「子供も殺した」
「全部でいくら殺しましたか」

 男はここで首を――もちろん男自身の首を――ひねりました。
 はていくらほど殺したろうか。「覚えていない。殺すからにはいるだけ殺したのだろう」

「なぜ殺したのです」
「殺さにゃあならんかったのだ」
「殺さにゃあなりませなんだか」
「殺すしかあるまいな」
「それじゃ仕方がありませんな」
「地獄行きも当然だろう」
「当然でございます」

「おまえさまは学生服に身を包んでおられましたな」
「一張羅がそれしかなかったのだ」
「猟銃で人を撃ちましたな」
「おれは本当に射撃がうまいのだ」
「日本刀と匕首はさぞおまえさまにお似合いでしたな」
「まさになます切りというやつだった」
「おまえさまは灯火を二本も鉢巻で巻いて、まるで鬼の角のようでございましたな」
「首から下げたランプだけじゃあ心許ない」
「おまえさまの姿は鬼のように見えたことでしょうな」
「なにが鬼なものか」
「おまえさまは鬼でございます」

 さつじんき、地獄のトミノはくすくす笑います。
 男はそれでもちっとも腹が立ちませんでした。自分のことを笑われているはずが、どうしてだか他人ごとのように感じられるのです。
 男はどれもこれもありありと思い出すことができました。
 もちろんあの夜のことでございます。誰も彼も殺してくれるなとわめいております。男はどれもこれも聞き入れませんでした。唯一自分の意思で見逃してやったわずかな者を除けば、あれもそれも血にまみれた死人の顔。はじめに手をかけたのは育ての祖母、次に、次に、と浮かびます。最後に残るは討ちそこねた者どものつらがまえ。憎らしきはきゃつらの目つき顔つきよ。あれらをこそ真に討つべきだったのだ。それを思うと、やはりどいつもこいつも死んで当然に思われるのです。

「生きるべきが死に、死ぬべきが生きるのは無念だ。あのような者こそ、あのような奴らこそ此の世からほうむるべきだ」
「かの者をはじめに葬り、かの者を見逃したのは功徳のおつもり?」
「だって不びんじゃないか」
「なにが不憫だというのです」
「ひとり取り残されて、それはあんまり」
 男は吐き出すように申します。「……あんまり不びんじゃないか」

 はたはたと、地獄の灰煙に混じって落ちるはしずく。地獄の赤よりも真っ赤なそれは、男の口からこぼれ出た血に他なりません。肺と喉から血がげほげほと、むせいではまたこぼれ落ちます。さめざめと、泣いたところで誰が許してくれましょう。何十人と殺しておいて都合のよい。だから男の目にや涙など浮かびません。代わりに喉がわあわあと赤を揺らします。それがあまりにつらいので、尖った肺をおさえるように、両腕に抱いたこの生首を強く胸におしつけました。

「おまえさまはかなしいひと」
 地獄のトミノが言います。「ただ強くありたかっただけなのに。どうしようもなく不しあわせなのですな。おまえさまは殺めた生の分だけ命を償わなければなりません。だって地獄ですもの。長い長い償いです。それでもおまえさまにはこのトミノがついておりますよ。悪いようにはいたしません。ええ、悪いようにはしませんとも」
「おまえはおれになにをしてくれる」
「わたくしはトミノ、籠の鶯にして車の金羊、地獄の案内をつとめます。業の満つることもあらば地獄に照る蜘蛛の糸ともなりましょう」
「どうしておまえはそのように」
「おまえさまがわたくしを拾いあげてくだすったからですよ。さあまいりましょう。地獄峠ももうしばし」



 そしてふたたび、男はトミノと地獄みち。谷を越えます。曲がってはまた谷を越えて行きます。幾重にも越えて行きます。谷の底には美しい赤が一面に満たされていました。花かと見まごうそれはすべて罪人の赤なのです。谷の底に満ちているのはすべて罪人の苦痛と哀泣なのです。地獄には花など咲かないのでした。
 男は首を抱えてひとつみちを渡します。罪人はみなこの道を通ることになります。けれど後にも先にも、この男ほどの罪人も珍しいことでしょう。
 男もトミノもなにも言いませんでした。
 七つの谷と七つの山。越えたあたりでトミノは別れを告げました。

「ここが地獄の釜の底。おまえさま、どうぞこの留め針を」

 そのように宣うと、トミノはどろどろ溶けだして、それはどうにも突然に、男の腕からこぼれおち、すくいようなどありません。髑髏もなにも、どろどろに溶けて、後には真っ赤な宝玉ばかりが残りました。
 男が両手で宝玉を捧げ持つと、それはあかあかと輝きを増したように思われます。それは地獄の赤色なのです。かつてトミノであったもの、したたるしずく共々に、男は両手で捧げるように口にして、これを一息に飲み干してしまいました。トミノの地獄を口にいたしました。
 かくて男はこのように、地獄を飲み込んだのであります。



 さて、地獄でございます。
 親不孝は石で潰され、嘘つきは針で貫かれ、色狂いは蛇、怯懦は畜生の身も同然です。背をぶたれます。舌を千回も抜かれます。まぶたに石を詰められます。火に焼かれます。石を呑まされます。剣の木と針の山を登らされます。裂かれ、潰され、粉々にされ、どんなに泣いても許されません。釜で煮られ、血で溺れ、溶かした鉄をごくごくと、刃を渡りてはぎりぎりと。それからいつまでも、いつまでも落ち続けます。ひもじくては死に、死にてはまたひもじ。百ほども死んでようやくと思いきや、与えられるのは百度目のよみがえりという始末。げに恐ろしきは地獄の目覚めとはまさにこのこと。
 地獄というのはおおよそこのようなものでございます。
 しかしこれはまだましな地獄。
 男が落ちた無間地獄に比べれば、あとの地獄は極楽のようなものでございました。

 こと地獄においては時間の流れも人間のそれとは違っております。
 たとえばここに岩があります。途方もなく大きい岩です。山とも見まごう大きさです。いいえ、岩というより山というより、一つの世界を想像するのがよろしいか、とにもかくにも、さほどにとてつもない大きさです。
 さてこの岩には、百年に一度、鳥が訪れます。鳥はこの岩を訪れ、停まると、休む間もなく飛び去ります。そのときに、赤子をくるむ産着のようなその羽が、ひとなで、岩の表面をかすめます。すると岩のおもてはほんの少しずつ、鳥の羽ばたきにより、すり減っていくことになります。
 これを、岩が完全になくなってしまうまで繰り返すのです。
 これが「劫」です。「劫」という時間の長さです。

 ほんの少し、けれどこれを何度も繰り返せば、いつかはきっとこの途方もない岩のかたまりを崩すこともあるでしょう。しかしまた想像してごらんなさい。百年に一度、訪れる鳥の羽ばたきが、巨大な岩のかたまりを完全に消し去るのに、いったいどれだけの時間がかかるのか。
 みなさま、これが「劫」です。無間地獄に落ちた人間は、この途方もない岩のかたまりが完全に跡形もなくなったときに、やっとその罪を許されるのです。
 これが男に与えられた罰の長さでありました。

 男は劫にわたり、地獄すら極楽に思えるほどの責め苦を味わいました。
 けれどいつかは途方もない大岩も、なくなる時がきます。そのころには男はすでに、自分の名も、罪も忘れていました。それどころか自分が人間で、男だったということすら忘れてしまっているのです。あるいは人間というものがなんであったかすら、とうに忘れているのでしょう。
 それでも、この腕の中にあるものが、なんだったかということは、ぼんやりと覚えているのでした。相も変わらず、女なのか男なのかわからぬようなかんばせで、少女とも少年ともつかぬ声で、地獄のトミノは言いました。

「これにて地獄はしまいにございます」

「汝の罪は焼き払われた」

「私はトミノ、籠の鶯にして車の金羊」

「そして汝が地獄の門」

 気がつけばトミノは、男の腕の中で一塊の木に変じております。ちょうど首と同じだけの、正二十面体のかたまりに。それはまるで自分の意思でするかのように、男の腕から転がり出ると、次々に形を変えてゆきます。
 あるは熊、あるは鷹、あるは魚というように。
 最後には人間の形になりました。男とも女ともつかぬ、うつくしいかたちになりました。それは男の身体を抱きとめました。つやつやと、しっとりとした、白くたおやかな腕を巻きつけて、母が子にするかのように、あるいは蛇が獲物にするかのように。地獄の門はトミノの声で言いました。
「……おまえさまにはひとつ、嘘をついてしまいましたな」
 と優しい声で、口を大きく、男の首を。

 地獄の門を逆に出て、魂は救われる。





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