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「イヌガミチヨコは眠れない」

(2015/04/19)

#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
使用したお題:「○○が眠るまで」「仕事中につき」「当然の結果」



 当然の末路だ、と女は思った。
 女は自由に動かない右腕をつき、絨毯の上を這うようにして壁際まで移動した。廊下の幅を恨みながら、何度も失敗しながらようやくたどり着く。そこで気力が尽きたのか、全体重で壁に寄りかかり、足を投げ出した。倒れ込むわけにはいかない。荒い息を吐き捨てるように繰り返す。酷い有様だ。
 赤い絨毯には鈍く血が道を作っていた。服はほとんど原型もなく裂かれている。そこから血が。腕も、胸も、血が止まらない。止血しても、太股の傷はすでに手遅れだ。間に合わない。血を流しすぎだ。脱出できる手立てもない。
 このまま、自分は、死ぬ。
 そう認めると楽になった。
 元々いつ死ぬともわからない生き方をしてきた。それが今日だっただけだ。しかしこのような古びたホテルの廊下で死ぬことまでは予想していなかった。だが自分のこれまで歩んできた道を思えば、もっと凄惨な結末もあったはずだ。ならばこれはまだ穏当な末路といえるだろう。
 咳き込む息に血煙が混じる。
 そんな女を、犬はじっと監視している。
 女は一瞥もくれなかった。代わりになにか、最期に相応しいことを考えようと思った。走馬灯は流れる端から犬が食ってしまうから、自分で作り出す他ないと考えた。
 考えたのは家族のことだった。女のような稼業の人間でも、家族と呼べる存在はあった。それは産みの親や兄弟ではない。彼らは女に呪いを託した時点で、女の中では死んでいた。
 女には夫と子供があった。夫には自分が姿を消したら決して追うなと伝えてあった。子供らを連れて、新しい母親でも見つけてやれと。夫もその言葉を飲んだ。飲んだ上で、一緒になったのだ。だから彼らについてはなにひとつ思い残すことはない。
 なんだ、なにもないんじゃないか。
 女は空笑いした。声は出なかったが、笑うことはできた。
 そんな女を、犬はじっと見つめている。
 女は犬に目をとめた。犬に、その赤い目をしたおおいぬに。
 なんだお前、そんなに不安なのか。
 胸の中でそう声を掛けた。
 もちろん犬は主を心配しているのではない。それは女の方も先刻承知であった。犬はこうしてまんじりともせず、死の時を待っているのだ。肉を食い破るのを待っているのだ。
 女は手を伸ばし、女の/犬の頭を撫でた。不安がらずともこれがお前の末代だ。お前のような恨みの塊を、千代も八千代も生かしておけという方が無体というものだろう。
 案じずとももう死ぬぞ。
 女はそう呼びかけたが、犬はその場を動かなかった。動こうともせず、女をじっと見ている。最期を看取るつもりなのか。律儀なことだ。
 家族に対して未練はない。では犬に対してはどうだ。犬は彼らよりずっと長く女のそばにいる。女は切れかけた糸を辿って思い出を試みたが、特別な感慨は浮かんでこなかった。犬は、女が死ねと思う相手を殺した。誰も彼も、女が無意識に敵意を向けた相手に対し、牙と爪で応じようとした。ところが女に対してはどうだ。どれだけ自分に死ねと呪い、殺してやると恨んだところで、犬は女を殺さなかった。
 それが犬の、主に対する報恩で、復讐だった。
 無意識で人を呪うことを恐れ、女は眠れなくなった。己の意識ならば如何様にでも変えられる。しかし無意識はどうしようもなかった。意識が混濁する眠りというものに恐怖を覚えるのは当然だった。幸い、“一仕事”こなせば犬は、一定期間は身を休めて眠ってしまう。女がこんな仕事を選ぶのは、他ならぬ自分のためだった。
 ――と、女は自分が回想に耽っていることに気がついた。
 回想を断ち切ったのは、足に纏わり付く気配だった。廊下に置かれた調度の下から、いつから沸いてきたのやら、影のような何かがじんわりとにじみ出していた。それが女の足を引いている。女はわずかに残った力を振り絞り、影のようななにかを振り払った。しかし一度は離れても、影は再び女の足にまとわった。引く力自体は強いものではなかったが、このまま女の意識が飛べば、影のようなそれらは女の身体を引きずっていくだろう。
 犬が牙を剥いた。喉から低い音が漏れた。だが飛びつくような力は残っていない。それでも牽制にはなったようで、影は一斉に調度の下に引いた。しかしこちらを伺う気配はなおも消えない。
 女は起こしかけた身体を、再び壁に押し付けた。
 深く息を吐く。
 どうやらここで本当に最期らしい。
 身体を支える力もないことを確認し、女は改めてそう感じた。これだけ死に諦観しておいて、まだどこかで生存を望んでいたのか? 我ながら図々しいな。
 女は不意に寒気を感じた。ここまで着てきたスーツはどこにいったのか。目で探したが、そうだ、最初の一閃を受けたときに邪魔だからと捨ててしまったのだ。二束三文で買ったものに思い入れもなにもないが、必要なときに限って手元にないとは。これが最期の未練かよ。
 壁に頭をつけて目を閉じる。
 目蓋のうちは暗闇ばかり。走馬灯は差さないらしい。
 そのとき女は本当に、眠れるような気がした。




追記

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