蠍蝗
 

□沈黙

「忘れるかもしれない」
 嫌だなぁ、と付け加えて彼は苦笑する。それ以外の方法ならいくらでもあった。けれどもどの方法をとったとしても誰かが犠牲になることは避けられず、犠牲になるのはいつでも彼だと決まっていた。
「では、残しましょう。忘れても、忘れない為に」
 濁った瞳で真っ直ぐ悪魔を見据え、口許に深く深く笑みを浮かべる彼を、悪戯を企む子供のようだと、悪魔は思う。もっとも、彼の悪戯はいつだって子供のそれとは非にならぬほどに悪質で、狡猾で、幼稚だった。
 次に彼が口にした言葉を聞いて、やはり今回も全くその通りだと悪魔は思う。
「あなたに名前をあげます、」

「***」
 と、何の前触れもなく依代が悪魔の名前を口走ったので、悪魔は胆を冷やした。真夜中とはいえ、街中である。名は悪魔を現世に繋ぎ止める唯一の鎖であり、もしも悪魔の名の“使い方”を知る者の耳に入れば、些か厄介なことになるのは依代も知っていた。それでいて、依代はその単語を口にした。
 “何のつもりだ?”
 問わずとも、その答えは見えたもので知ってはいたのだが、悪魔の意思は依代には見ることはできない。あからさまな憤りを言葉をもって伝えなければ、依代は真昼の大通りで同じことをしかねない。依代はそういうものだと、悪魔は知っている。
「いや、」
 依代は口を開くが饒舌が常な依代には珍しく、間もなく口ごもり首を傾げた。
「……何だろうな、何か引っ掛かるんです、あなたの名前。何か、違う、それはあなたじゃない気がする」
 依代の沈黙は長くは続かず、ややあって語る、名を呼ぶ理由を聞かずとも、悪魔は知っていた。依代の違和感の正体も知っていた。
 それでいて、悪魔は黙した。

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