蠍蝗
 

□blue planet

 自らの命と引き換えにして隕石の脅威から地球を守り抜いたのは、ガタイは良いけど頭の薄いおっさんだった。残された娘と娘の彼氏が涙ながらに抱き合って、何もできずにただ見ていた一般人は歓喜に沸き立ち、全世界が一丸となって英雄たちを褒め称える。
“あっどわなくろーずまいあー”
“あっどわなふぉーあすりーこずぁーいみしゅべー”
“あん、どーわなみすゆーしーん”
 百万回は聴かされた主題歌をバックに流れるエンドロールを締め括りに、今日の授業は終わった。

 帰宅の途に就くには一度この三階から二階に降りなければならない。錆の浮いた手摺を片手に階段を降りながら、少し先を歩くマオとイササの並んだ背中を眺めてつくづく、セーラー服に長靴は似合わないと思う。スラックスに長靴も大概とんちんかんな服装だけど、女子のそれに比べたら全然マシな方だ。多分。
 ばしゃ、ばしゃ、ばしゃ、と、前方の女子二人は臑の中程にまで上がった水を波立たせて二階の廊下に踏み込んでいく。
「うっそ」
 と、一音を放ったのは、僕に少し遅れて階段を降りていたアオイだった。
「大潮って今日だっけ」
 振り返ると、セーラー服としてあるべき姿がそこにあった。黒いスカートの切れ目から真っ直ぐ下りた黒いタイツは素肌を透かして僅かに茶色みがかり、膝の輪郭に沿って魅力的な陰を描いて、その下、脹ら脛からくるぶしに至るラインを遺憾なく浮き立たせるのは艶めく黒いローファー。そう、僕が思うセーラー服とは、つまりこういうものだ。
「朝の放送、聴いてなかった?」
「今日寝坊したの。最悪なんだけど」
 そう言ってアオイは、希に見るアオイの皮膚の白くない部分であるところの、薄く色づいた唇を尖らせた。
「おんぶしようか?」
「ううん、平気」
 遠巻きでいて率直な僕の告白を軽く退け、アオイは壁に手をついて身を屈める。先ずは右側、続いて左側のローファーから幅の狭い足を抜き取って、そのまま流れでプリーツを押し退けつつ尻側の両脇からスカートに手を差し込んで、心許ない長さの布を――持ち上げることなく。中途半端な格好で僕を見た。
「ちょっと、あっち向いててよ」
「お構いなく」
「私が構うの!」
「はいはい」
 アオイの白い部分が紅色に染まるのは早い。アオイがあっちに行けば良いのに、と、思ったことは口にせず、僕はアオイに背を向けた。
 僕の少し後ろで、下半身を覆う邪魔な布を一枚、アオイが脱ぎ去っている。
「……ねぇ、ミクニ。ちょっと付き合ってくれない?」

 僕らが生まれるより少し昔。地球に迫る巨大隕石を前にして、命を差し出す英雄は現れなかった。
 当時氷に覆われていたという南極に猛スピードで突っ込んだ隕石は、地球の生命の三分の一を焼き尽くすと共に地球の軸を大きくずらした。大規模な気候変動もさることながら、狂った地球の引力は月を引き寄せ、近付いた月の重力は海面を上昇させ、人類が陸地に造ったあれやこれやを海に沈めた。
 ちなみにその時、英雄たちに指令を出して世界を救う一手を担う手筈だった各国の偉い人たちはというと、そそくさとロケットに乗り込んで地球を去って行ったらしい。彼らがその後どうなったのかは、青い地球の隅っこの小さな集落の一員であるところの僕が知る事ではない。
 今や地球を支配しているのはイルカやクジラといった海棲哺乳類たちだ。それでも人間たちの脆いプライドは、かつて人類が万物の霊長だった時代の記憶を失わせまいと必死らしく、僕らは映画鑑賞という形で延々と過去の栄光を学ばされている。
 とはいえ僕には割とそんなことはどうでも良くて。このところ僕の関心の全ては目下アオイにだけ注がれている。
 詳しいことは知らないけれど、隕石が焼いた地球の三分の一の中には、なんだかとんでもなく厄介な物質を扱う施設があったらしい。高温は施設の爆発を引き起こし、爆発はその厄介な物質を世界中にばら撒いて水や空気、地球上の洗いざらい全て隈無く汚染した。
 子どもが産まれにくく、産まれたとしても人の形をしていなかったりすぐに死んでしまうのはその影響らしい。この集落には今、子どもは僕を含めて九人しかいなくて、そのうちで僕の同い年となるとたった一人、アオイしかいない。
 誕生日も近かったせいか大人たちは小さい頃から僕らを一緒くたに扱い、また、お互いに唯一の同い年ということもあって、僕とアオイは多くの時間を共有してきた。海の底の廃墟まで探検に行ったり、火薬を盗んで映画で観た花火を作ったり、学校の屋上のソーラーパネルに寝そべって結果的に大停電を起こしたりもした。イルカの群れが来ていると聞けば見に行き、シャチが現れたと聞けば見に行き、クジラの親子が迷い込んだと聞けば見に行った。
 そうやって大人たちがやるな行くな見るな危険だと言うようなことがあれば片っ端から試し、僕らは今の今まで毎日のように悪行三昧を重ねてきた。僕らはうまくやったからバレないことの方が多かったけれど、こっぴどく叱られたり本当に危ない目に遭ったのも一度や二度じゃない、本当に数え切れないぐらい。けれどそうして作った二人の時間は、月並みな表現でもいわゆる“かけがえのない時間”だった。
 そうして過ごすアオイとの日々も、今日で最後になる。僕は明日朝早く、家畜としてテラに売られていく。
 産まれにくくなった子どもの中でも、更に産まれにくいのが男。それに「生殖能力を持った」という条件を加えるとなるとその割合は一割にも満たないらしい。
 所謂ところの、僕はレアモノ。
 いつからそうなったのかは誰も知らない。テラは生殖能力を持った男を管理することで、国ですらないこの一帯に於いての絶対的な権力を握った。女たちは子どもが産める体になると皆揃って「レアモノが産まれたらテラに売ります」という内容の契約書を書いた上でテラから子種を買う。そしてテラは極稀に産まれるレアモノを女から買い上げて、そのレアモノをダシにまた私腹を肥やす。
 そんな単純な絡繰りは、テラの影響下にある誰しもが知っている。それでも僕の母さんも含めた女はテラから子種を買う。男の値段はテラにとっては端金でも、一般人にとっては莫大な金額だ。男の数にして三人、それだけあればテラで暮らせる。機械を通して浄化した空気を吸い、特殊な調理で毒を抜いた食べ物を食べ、嵐やシャチに襲われる心配のない安息の地で、残りの人生を過ごすことができるのだ。

 大潮に浸った二階の第四教室。そこが僕らのいつもの場所だった。教室に整然と並んだ机と、隅に乱雑に積み上げられた椅子はどれも錆だらけで、ロッカーの中には藤壺が住み着いている。窓のすぐ外には途方もなく広い青い空と海。二つの青が交わる辺りでは太陽が僅かに海に食い込んで、足元を自分の色に染め始めていた。
 その昔、最初に宇宙から地球を見下ろした人は、地球が青いと感嘆を漏らしたらしい。だけど僕らは地球から出るまでもなく、産まれた時から知っている。僕らの地球は見渡す限り、どうしようもなく青い。
「テラなんてなければ良いのにね」
 アオイは机の一つに細い腰を据えて、さっきからずっと顔を伏せて自分の手ばかり見詰めている。
「そしたら僕らは産まれてもない」
 僕はその正面に当たる机に座って、アオイの剥き出しの膝ばかりを見ていた。
「そうだよね」
 アオイの声は微かに震えている。なんとなくアオイの顔が見ていられなくて、僕はアオイの膝から足首に至る完璧な曲線を視線でなぞる。骨の形を浮かび上がらせる膝には痣の一つもなく、曲げたことにより生まれる膝頭の下の僅かな窪みが脛骨との境目に水滴を湛えたような陰を描いている。
 少しの沈黙。こういう沈黙が嫌いなのは多分お互い様で、アオイは纏わりつく暗い空気を振り払うように首を左右に振って、僕を見て、僕も釣られてアオイを見た。それほど多くの人間を見た訳でもないけれど、僕は他の誰より、世界中で一番アオイが綺麗だと思う。
「ミクニ、ミクニ。あのね、イルカのあれ、覚えてる?」
 消え入りそうな声でそう言って、アオイは幻のように白い頬を見たこともないぐらい真っ赤に染め、自分の指先でスカートの裾をたくし上げていく。窓から差し込む夕陽がアオイの白い肌に反射して、僕の目に焼き付いた。
 イルカの群れを見に行った時、僕らは生まれて初めてあれを見て、知った。
 青く透き通った海、沈んだ高層ビル。上から差し込む光の中、限りなく黒に近い青鈍色とアオイの白に良く似た純白がグラデーションを描く身体をくねらせて、二頭で一組になったイルカたち。震えるような声で歌を交わし、抱き合うように寄り添い、腹同士を擦り合わせて、絡み合う流線型。
 その行為自体も、それが意味するものも、僕らは知らなかった、誰にも教わらなかった。けれど僕らの本能は名も知らぬそれを確かに記憶していて、僕らは、その意味も、それが僕らにもできるということも、その瞬間で全てがわかってしまった。戻らない過去を見詰めて絶望する生き物が人間ならば、絶望的な今のその瞬間に歓びを見出す生き物が、彼らだ。
 実際に二人でそれを試してみたことはない。でもその日から僕らは、互いに言葉で確認することもなく、彼らと同じ生き物になることを決めた。僕らはきっと、この集落の誰よりも、賢い。
 僕の左手に押された机の四つ脚が床を蹴って、足元で水が跳ねる。アオイの冷たい膝から離れると共に硬いが心地よい骨の感触と別れた右手は、沈み込むほど柔らかく濡れたみたいに滑らかな大腿を経て、腰に至ると同時に再び骨の硬さと出会う。その手をアオイの中心に向かわせながら、逆の手で薄手のセーラー服を捲り上げると、控えめな大きさの乳房の下、アオイの呼吸に伴って開閉する、肋骨に沿った鰓裂が覗いた。僕は小さい頃から、この環境に順応した素晴らしく機能的な器官を綺麗だと思っていたんだけれど。
「やだ、恥ずかしい、そんなに見ないでよ」
 エラ付きであるということは、アオイの劣等感というか、羞恥心を刺激するらしい。
「僕は好きだ」
「変態」
 本気なのか満更でもないのか、そこを隠そうとするアオイの手にはそれ程の力もなく、額で退けながらブラウスと肌のはざまの一番柔らかいところに潜り込む。深く息を吸うと海の匂いがした。その中に確かにアオイの匂いが混じっていて、僕はほんの少しだけ名残惜しさのような寂しさを覚えて、いつもより浅いアオイの呼吸と、アオイが押し殺す震えに気付く。
「大丈夫?」
「大丈夫」
 そう尋ねながら一時中断して顔を上げると、全然大丈夫じゃなさそうな顔で頷くアオイの姿があって。
「大丈夫じゃなさそう」
「大丈夫なの!」
 再度指摘してみても、アオイがそう主張するから。僕は彼女の頑なな意志を尊重することにした。
 小さな呻き声と共に一度大きく震えたアオイの身体は、生温くて、柔らかくて、少し骨っぽくもあり、心地良く、締め付けるようにうねる。
 僕は、僕らは気付いている。大丈夫な事なんて一つもないし、教室の扉の隙間から、マオとイササが合わせて三つの瞳で覗いているって。好きなだけ見れば良い。僕はもう、じっとりと額に汗を滲ませた、アオイだけ見ることにした。
 大人たちは過去という聖書を片手に絶望せよと洗脳する。だけど僕らには関係ない。だって、僕らは過去を認めない。今を望まない。未来を見詰めない。目を閉じて、ただ現実を嘲笑う。
 それでも。今は。この瞬間だけは。
“あっどわなくろーずまいあー”
 熱に浮かされた脳みそが散々聴かされた歌の一説を呼び出して、例のオヤジのしたり顔が脳裏を過ぎる。
 それがなんだか無性に笑えて。
「何にやついてんの」
「なんでもないです」
 と、誤魔化しながら、僕はアオイの眉間の皺を舐めた。


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