骨 蜂蠍蝗
□死人の指先
ああ、まったく、なんてひどい話だ。
アカリの指先はどんな言葉よりももっと的確にアカリを語ったのに、今や狭いシャワールームの床と言わず壁と言わず所々で乾きはじめた血がぶちまけられ、箱のような小部屋には独特の腥さが充満している。壁に背中をつけて座り込みながら、アカリを抱き寄せるけれど、服の布地越しに触れるタイルも、アカリの体も、ぞっとするほど冷たい。握り締めた剃刀が指をえぐる。
僕は何も悪くないのに。ただピアノが聴きたかっただけなのに。どうしてこんな事になったのか、わからない。
死人の指先は、何も答えてはくれない。
アカリと初めて言葉を交わしたのは、シャワールームから扉一枚隔てた向こう側、あのピアノのある部屋でだった。ピアノといっても、狭い部屋だからグランドピアノなんて置ける訳もなく、アップライトピアノ、それもおんぼろの骨董品のようなピアノが置かれていた。
シャワールームから出てきた彼女は、それがいつものことだとは二度三度と会ううちに知ることになったのだけれど、長袖のワンピースを着ていて、あの頃はまだ夏の盛りだったというのに、暑苦しい恰好をするものだと思った。そのアカリに、何を言ったか正確には覚えちゃいないが、確か夜の挨拶と彼女のピアノへの称賛か何かを僕は告げて、それに対して彼女は頭を下げるばかりで一言も喋らずに、ベッドの上に座っていた僕の前を素通りして例のおんぼろピアノへ向かったのだった。遅れて出てきた癖に失礼な奴だと思った僕を余所にアカリはピアノの鍵盤を叩いた。
ぽんぽんぽん。ぽんぽぽろろろろん。
“こんばんは。お待たせしました”
と、そのピアノははっきりとそう聞こえた。次に僕が何を言ったのかは、ちゃんと覚えている。
「もしかして、喋れないとか?」
アカリはそれに一音で答えたのだ。
ぽん。
“はい”
と。
何が“上物”だ、と、僕は心の中であの背の低い男に対して毒づいていた。
アカリと話すほんの一時間程前、僕はアカリの音色を聴いていた。甘ったるいばかりで上手くもない愛の歌ばかりを歌う女たちの中で、喉を使わず指先で歌うアカリの音は、頭の中で止まないあのピアノとまではいかずとも聞き惚れるには充分だった。
この国では娼館の経営は禁止されている。摘発されれば経営者は勿論、事情があるにせよ売られてきたにせよ、そこで働く娼婦らにも厳罰が課せられる。
だからこその、このシステムだ。表向きはステージを擁する上品な酒場だけれど、ステージに上がる歌い手は皆、娼婦なのだ。娼婦だから全員が全員歌が上手い訳ではなく、寧ろどちらかといえば上手い歌い手の方が少ないぐらいで、しかし娼婦が披露するのは歌ではなく、声であり、顔であり、身体なのだから歌の上手い下手などはどうでもいいらしい。彼女らは嬌声のような声で甘い愛の歌を歌い上げ、私を買ってと媚びを売る。
気に入った“歌手”を見付けた客は、一夜限りで部屋の鍵を買う。酒場の二階と三階に住まわされている“歌手”らの、部屋に入る為にいくら支払うかを店員に告げ、最も高い値段を付けた客に鍵が渡される。その後はどうぞご自由に、という訳だ。まったく良くできたシステムだと、演奏を終えてそそくさと袖に入っていくアカリの小さな背中を眺めながら、そんなことを考えていた僕に、“あれは上物ですよ”と、件の背の低い男が耳打ちしたのだった。
――とはいえ、僕はアカリの声が聞きたかった訳でもアカリを抱きたかった訳でもなく、アカリの部屋の鍵を買ったのは、ただアカリのピアノがもっと聴きたかったからで、アカリが喋れないということはさしたる問題でもなかった。
それから少しだけ“話”をして、アカリが話の切れ間にピアノの前を離れて“仕事”を始めようとしたけれど、片掌でそれを制止して、
「そんなことはいいからさ、もっとピアノを聴かせてよ」
と、僕がそんなようなことを言うと、アカリは少しだけ面食らったような顔をして、それからとても嬉しそうに笑ったのだった。
あの夜は、とても穏やかな夜だった。
それから何度かアカリに会って、その度にアカリのピアノを聴くうちに、アカリの指先が聴かせるアカリの機微を読み取れるようになった。アカリが楽しい時には悲しい曲でも楽しげに、アカリが落ち込んでいる時は明るい曲でもどこか物悲しく、アカリの音色はその時々で色々な表情をもっていた。
ぽろろろろん。
“ピアノが好きなのね”
と、いつだったか、いつものようにピアノを聴きたいと言った僕に、アカリが可笑しそうにそんなことを言った。
「忘れられないピアノがあるんだ」
と、僕は深く考えもせずにそう答えた。
その夜のピアノは深く沈んでいて、僕はアカリを傷つけてしまったと知ったのだった。
昨夜のアカリのピアノは、ひどいものだった。ピアノの音も狂っていたし、あちこちで指も躓いて、それはアカリを知らない人から見れば気付かない程ともしれなかったが、何か異常があっていつも通りに弾けないのだろうということがすぐに解った。
それは聴くに堪えないピアノで、ごく最近に何かあったことなんて簡単に想像がついたが、その夜、僕はアカリのピアノが聴きたかったのだ。それなのに、聴かされたピアノはアカリのピアノとは程遠くて、ひどく苛ついて、何食わぬ顔で演奏を続けていたアカリの手を取り指先にキスをした。鍵盤から顔を上げるアカリの目には、聴くまでもなくあからさまな動揺が浮かんでいた。バレないとでも思ったのだろうか。アカリの態度に苛々ばかりが募っていって、何も言えない癖に何か言おうとするように悸く口を塞いで、それから。
ピアノを聴けない不満を、別のもので紛らわそうとしただけだ。それだけなのに、ピアノが聴きたかっただけなのに、その夜は、これ以上ない程最悪な夜だった。
朝になって目覚めると、アカリはベッドに居なかった。この部屋で迎える朝はいつも、アカリのピアノで始まっていたのだけれど、ピアノの前にもアカリはいなかった。
「アカリ?」
名前を呼んでみたが、当然ながら返事はなく、ふと、いつも通りに閉ざされたシャワールームの扉が目に入った。
“開けるな”
と、頭の中で、
“何も見ずに帰れ”
強い口調で悪魔が囁く。悪魔が“見るな”と言う時はその向こうにいつだって僕に見られたら困るものがある時なのだ。
だから迷わず扉へと向かい、一息に開け放った。
扉の向こう側は、赤一色で、むっとした臭いが鼻を突いた。血の海だなんて、今更見せられたところでどうこう思ったりはしないが、それ故に一目でまずい量だと解った。あのときでさえ脱ぐことを拒んだ長袖の下のアカリの両腕は露わになって、その手首から肘にかけてを隙間も見えない程に占める、幾重にも重なったでこぼことした横筋。塞がり始めの真新しいものから、痕になった古いものまで、一番新しい傷はそれらを縦にぶっちぎって内肘から手首までを真っ直ぐ深く切り裂く。ご丁寧にも傷は両腕に刻まれている。アカリの手元、床のタイルを濡らして澱になった血液の中に、剃刀が沈んでいるのが見えた。
「アカリ、アカリ、」
名前を呼んでも、僕の腕の中で俯いたままのアカリは指先一つ動かしてくれない。床と壁が冷たくて、とても寒い。
どうして、こんなことになったのだろう。
「ピアノを聴かせてよ」
アカリにひどいことをしてアカリの音を狂わせた誰かが悪いのだろうか。アカリがこんなに傷だらけになっていたのに無理矢理働かせていた奴らが悪いのだろうか。アカリがこんなところで生きなければならない理由を作ったどこかの誰かが悪いのだろうか。アカリが拒絶した世界が悪いのだろうか。誰が悪かったのだろうか。
僕は、本当に、
「ピアノが聴きたかっただけなんだ」
そのうちに考えるのも嫌になって、ふと、手の中に剃刀があることを思い出した。
「ピアノが、」
悪魔が何かを喚いているがどうでも良くて、剃刀を持ち直して、手首の筋に押し付けた。
どうせ、死なせてなんかくれないんだろう?
ピアノ。
聞き覚えのあるピアノ。
何度となく繰り返し思い出すピアノ。
決して飽きることのないピアノ。
唯一無二のピアノ。
ピアノ。
誰かがピアノを弾いている。
その誰かの顔を、姿を、見たいと思う。
けれどどうしようもなく瞼が重くて、その指先すらも捉えることは叶わない。
ピアノ。ピアノ、ピアノ、ピアノ。
不意にピアノの音色が止む。もっと聴いていたいのに。
ピアノの他には邪魔な音などは一つもないから、ピアノの誰かが椅子を立つのは音で解った。足が悪いのだろうか、歩み寄る足音は随分とぎこちなくて、足音らしからぬ轢音が混ざる。閉じた視界に陰りが落ちる。きっと誰かが身を屈めて僕を覗き込んでいるんだろう。
“ ”
誰かが何かを言ったのは聞こえたが、何を言ったのかまではわからない。
けれど、ひどく罵倒された気がする。
ああ、本当に、僕はなんて馬鹿なことをしたんだ。
草っ原の真ん中で目を覚ますと、もう辺りはすっかり夕暮れ時だった。くらむ頭を無視して体を起こし辺りを見回すと、いつも下から見上げていた街を見下ろす丘の墓地だとすぐに気付く。シャツの袖を捲って剃刀の刃を走らせた筈の腕を見ても傷痕すらなく、あれだけ汚れた衣服には染み一つ見当たらない。全部夢だったような気もするが、自分が貧血だということははっきりわかったし、あの時の鋭い痛みも、僕の血とアカリの血が混ざっていく光景も、頭が痺れるような感覚も、まざまざと思い出すことができる。きっとあれは現実で、また悪魔が余計なことをしたのだろう。
「悪魔」
これだけ余計なことをしておきながら、アカリの姿はどこにも見当たらない。アカリはあのまま置き去りか。
「やっぱり、僕のピアノはあのピアノだけだと思うんだ」
存在しない筈の娼館の、存在しない筈の娼婦の死体が片付けられる先なんてのは、易々と想像がつく。肉か剥製かきっとそんなところだ。
「死ぬ奴なんて勝手に死なせときゃあ良い」
けれど、改めてそれを思い返したところでもう腹も立たないし、どうにかしようなどという気は尚更に起きない。
「悪魔」
悪魔は僕を嘲るだろうか。
しかし、あそこで思い出したのはアカリのピアノなんかではなくて、外ならないあのピアノだ。ならば、きっと何があっても忘れないのはあのピアノだけなのだ。アカリのことはそのうちに忘れてしまうのだろう。
「本物のピアノを捜しに行こう」
少しだけ、アカリの音色を思い出して、そんなものはもう忘れることにした。
死人の指先は、何も答えてはくれないのだから。