蠍蝗
 

□without 彼女の座

 少し、困ってしまった。
 僕に抱き着いて泣いているこの女の人は誰なのだろう。僕の顔を見るなり涙を浮かべて飛び込んできたのだから、彼女は僕を知っているのだろう。見知らぬ男の胸元に飛び込む女はいないと思うのだ。
 しかしながら僕は彼女を知らない。彼女の顔も、彼女の泣き声も、彼女の感触も、何一つとして覚えがない。どうすれば良いのか解らなくて、ずっと彼女を見下ろしていた。
 彼女は“彼”を愛していたのかな? 彼女は“彼”の特別だったのかもしれないな。ああ、そういえば、思い当たることが一つあるぞ。
「ええと、君。ピアノとか弾けたりする?」
 そう言うと、彼女は大袈裟に肩を震わせて僕の顔を見上げた。涙で濡れて歪んだ顔には、やはり見覚えはない。ただ、銀色の髪が僕に少し似ているように思う。
「弾けるなら、一曲弾いてよ。何か思い出せそうな気がするんだけど、弾けないのなら、僕は君のことは知ら、」
 ない、と、言おうとして言えなかったのは、彼女の掌が僕の頬を強か打ち据えたからだった。強制的に視界が反らされて、口の中に鉄錆臭さが散る。
「うそつき!」
 彼女が叫ぶ。ヒステリックな声が耳に障る。じわじわと頬が熱を帯びる。僕は彼女を知らないのに。再び視界に彼女を捉らえると、彼女は濡れた瞳で悪魔でも見るように僕を睨み上げている。僕はこんな女は知らない、のだ。

 殴られたから殴り返したと、ただそれだけのことだ。翌日、彼女はどこにも居なくなっていて、後から聞くに彼女は僕の妹だったらしい。

 少し、困ったことになった。
 森で突然の襲撃を受けて、あっという間に悪魔が殺された。殺されたところで、僕さえ生きていれば間もなく戻ってくるのだから、それまで凌げば良いだけだ。ただ、何より先に悪魔が殺されたということは、今回の襲撃者は悪魔のことを知っていたということで、知られているということはそれだけでかなり不利になる。
 走りにくい木々の間を、断続的に降り注ぐスティレットを避けて、もしくは弾きながらひたすらに逃げる。だいぶ息が上がる頃には漸く残弾が尽きたのか攻撃も止み、それなりの太さのある木を背に足を止めた。両膝に手を置いて前屈みに咳込む。額に浮かんだ汗を拭って、漸く右目に刺さったままのスティレットを引き抜くと、ぼたぼたと眼奬で薄まった血が溢れ落ちた。
 キン、と、引き抜く間際に聞こえた異音が気になり、袖で剣先の血を拭うと案の定短剣には文字が刻まれていた。意味まで読み取ることはできないが、恐らく神聖文字だろう。だとしたら簡易的な封印か浄化かその類のもので、それはつまり悪魔の帰還が遅くなるということだ。状況は、芳しくない。
 とはいえ、悪魔のことを知っているということは――。
 ざん、と、木々の緑を裂いて深い藍が目の前に現れる。閃いた銀色は切っ先だったかその女の長い髪だったか、右肩に生まれるそれほど重くもない衝撃にその場から逃げようとして、逃げれなかった。続いて、遅れてやってくる鋭い痛みは衝撃を感じた右肩から。これは。
 かなり、困ったことになっているのかもしれない。
 肩を貫く鋭い刃――大鋏の片割れか――は背を預けた木の幹へと深く突き刺さり、身動きが取れない、のだ。痛みは鎮まるどころか時間と共に加速して、ずくずくと、心臓が動く度に傷口を灼く。
 そして鋏のもう片割れは正面に佇む女の手に握られて、僕の妹であるらしい女は僕を睨み据えている。件の悪魔でも見るような目つきで。
「兄を、返してください」
 女が口を開く。随分と矛盾に満ちた言葉だと思う。僕を殺して“彼”が戻るとでも思っているのだろうか。悪魔が食い荒らした記憶がどうにかして取り返せるとでも思っているのだろうか。ともあれ、悪魔が戻ってくるまで時間を稼がなければ。
「やっぱり、君か」
 とりあえず、痛みを押して苦笑いしてみる。声を出すだけで肩は疼き、脂汗が喉を伝って滑り落ちていく。それはなんとも不快で、気分が悪くなる。
「返していただけないのでしたら、このまま心臓を貫かせていただきます」
「構わないけど、俺を殺したら君も死ぬって解って言ってる?」
「解っています」
 ひどく、喉が渇く。固い唾を飲み下して、滲む視界で迷うことなく即答を返す彼女を捉らえ続ける。今や見知った顔ではあるけれど、やはり自分と深い関係があるとは思えない。
「あのさあ」
「何、ですか」
「君ってさ、“彼”にとっての何だった?」
 単純に、思い浮かぶ疑問を口にしてみた。これほど多くのことが抜け落ちても、“災厄”に対しての憤りは消えなかった。何よりもあのピアノの音色は鮮明に思い出せるし、一時だって忘れたことはない。それを演奏していた人のことは朧げになってしまったが、その人がとても失い難い人だったことぐらいは解る。
「そんなの、」
 それなのに、彼女のことについては一つとして思い出せない。彼女は息を詰めて、立ち竦んで、唇をわななかせて、僕はそれを見ても何も思うことはない。強いて言えば面倒な女だと思うぐらいだが、“彼”ならば何を思うのだろう。
「解る訳ないじゃないですか!」
 耳鳴りの合間に彼女が張る声が、びりびりと傷に触れる。今や痛くもなく、ただ痺れるばかりだが。霞がかる視界の中で、彼女が近付いてくる。殺されるのかもしれないなあ、とか、そんなことを薄ぼんやりと考えた。
「そういえば」
 震えているらしい息と一緒に吐き出した言葉は、掠れていたように思う。
「よくこんな風に喧嘩をしたっけ」
 目を開けているのも、何だか億劫で。
「僕は手加減してんのに、君はいっつも本気で」
 彼女はどうしているのだろうか。
「ソーニャ」
 ちゃんと言葉になっているのか、あやふやなまま名前を呼ぶと、とすん、と胸元に軽く何かがぶつかる。重い瞼を薄く開いて見下ろすと、銀色の髪があって、どうやらまた泣いているらしい。髪を撫でてみる。彼女が身動きする度に、ずり、ずり、と、肩の刃が僕を犯す。
 彼女が何かを言っていて。不意に。右の瞼が勝手に開いて、ずる、と眼窩を経て脳に、懐かしい異物感が入り込んでくる。
 ――遅いぞ、悪魔め。
 (すまない)
 と、悪魔は言う。
 ――早くこの女を何とかしてくれ。
 思うが早いか否か湧き出る黒の中、肩を戒める楔が瞬く間に腐食しぼろりと崩れ、それと同時に彼女の体が引き剥がされる。肩に生まれる熱は痛みとはまた別種のもので、それと並行して目や耳や他の感覚や思考といったものが、鮮やかさを取り戻していく。もう誰にも殺されてなど、やるものか。
 地面に横たわりながらも、驚愕と恐怖との入り混じるような瞳でこちらを見上げる彼女の顔は、やはり他人のようにしか思えなかった。

 殺されかけたから殺そうとして殺し損ねたと、そういうことにしておいた。熱心な復讐者は、嫌いじゃないのだ。

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