蠍蝗
 

□やまいのおわり

 遠い異国で、男と擦れ違った。
 その男はいかにも程度の低そうな女を傍らに侍らせていて、見るのも欝陶しい程に密着しつつ賑やかな表通りを歩いていた。男の体格も雰囲気も髪の色も顔貌も気に障るにやけ面も、彼のそれとは全く違うものだったが、唯一、銀色の瞳は彼のそれと全く同じように思えた。
 擦れ違い様に目が合い、擦れ違った後に思わず立ち止まり振り返った私を見返ることもせず、男は女と肩を並べて人波に紛れて消えた。
 後日、彼と顔を合わせた折りに、あの頃あの国にいなかったかと聞いてみると彼は眉一つ動かさず、「んな事関係ねぇだろ」と答えた。
 つまりは、そんなことなのだろう、と思う。
 初めて彼の口から彼の名を、数ある彼の呼び名の中で彼が私に呼ばせると決めた名を聞いた時、その単語の持つ意味を私は知らず、さして興味もなかった。その意味は間もなくして知ることとなったのだが、その時に思うことは何もなく私はただその意味をその意味として受け止めた。しかしそれは、今となって重大な意味を帯びあの時あの場所で私の足を止めた。
 つまりは、そんなことなのだろう、と思う。
 思えども、じわりと胸に滲みる何かは止めることはできない。それがそれであるとして、それに対して真剣に向き合う意味が何処にあるというのだろう。それは全くの愚行であり、或いはこれは彼が齎すという狂気であるのやも知れない。もしそうであるとするならば、彼は私をあの“冗談”めいた顔で嘲笑っているのだろう。
 この場所には、いるべきではないのかも知れない。

 その女は、高慢であった。
 何者にも染まらず、弱みを見せず、依存せず、これ以上ないという程に扱いづらく思い通りにならない女だった。おれは彼女のそんな部分に間違いなく惚れていたのだろうし、他の誰より彼女が欲しいと思った。
 しかしながら、他の国で他の女と他の姿で歩いていた所を彼女に見られ、その次に彼女に見せる姿で彼女と顔を合わせた時、彼女はあろうことかその事について聞いてきた。その問いへと返した憤りに、彼女は気付くこともなかったのだろう。
 つまりは、そんなことなのだろう、と思う。
 彼女と初めて会った時、彼女はおれを何者であるか知りつつも怯むことなく、高慢に睨み据えて言った。「狂わせられるものならば、狂わせてみろ」と。その通りにするのは容易だったのだろう。その通りにして嘲笑うことも考えた。考えたが、狂わせるのは容易いが一度狂わせてしまえば戻すことはず、そうすることは惜しいような気がしてそうしなかった。それでいて、彼女はおれが狂わせるまでもなく勝手に狂ってしまった。
 つまりは、そんなことなのだろう、と思う。
 思えども、じわりと広がりゆく落胆と失望は止められない。彼女が彼女としてあり続けることをやめたとして、そこに何の価値が残ろうというのだろうか。依存などには興味はないが、彼女に狂気を齎したのは確かにおれに他ならないのだろう。
 この場所には、いるべきではないのかも知れない。

「スケルツォ」
「レオ」
 静まり反った部屋の中、まるで同時にお互いの名を口に出した女と男は、ただただ、夜に沈黙した。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -