「…とっても似合ってるわ、馨」

「ありがとうございますお母様」

赤い紅を引いた唇に弧を描いてその声を振り返れば、後ろに立つ母は涙目で微笑んでいた。

私の気分とは裏腹に素晴らしい天候に恵まれたこの日、一月三十一日。いかにも高そうな白無垢を身に纏った私は控え室にて式の開始をただぼうっと待っていた。これだけ天気が良くても、差し込む陽の光は白無垢を着ているせいでやたらと目に痛いだけである。それで目を閉じて椅子に座っていたのだが、これではまるで死刑執行を待つ囚人のようだと我ながら自嘲せざるを得ない。

「……お母様」

「どうしたの?」

「私は、柚木馨じゃ無くなるわけじゃありません。あなたが望む彼女として、今後も生きていきますから」

「……それで泣いてるんじゃ、ないのよ」

そう言って切なそうに笑った母は、最後まで考えの読めない人である。それは昨夜、好きな人は本当にいないのかと尋ねてきた時と全く同じ表情だった。何故そんなことを聞くのだろうか、彼女にとって私が好意を持つ相手など邪魔な存在でしかないはずなのに。

「…馨、本当はねーーー」

「失礼します。馨様に面会を求める来客がいらっしゃっております」

「…誰かしら、良いわ通して」

「黒髪の男性です」

「……私は席をはずすわ」

何かを言いかけた様子だったが、そう言って出て行った母と家人の背中を黙って見送り、私は入れ替わりに入ってきた男性に目を向けた。

「上司に黙って寿退職しやがるとはいい度胸だな、柚木」

「……檜佐木…副隊長……!?」

どうして、彼がここにいるのだろうか。彼には婚礼の儀が今日であることはおろか、縁談の話すらしていないというのに。死覇装姿は見慣れているというのにその表情が険しいからだろうか、彼は別人のように見えた。

「…どうして、ここがーー」

「朽木隊長が、教えてくれたんだ。あの人に背中を押してもらえなかったら、俺はここにはいなかった」

「……檜佐木副隊長、私は…」

「…柚木、俺は身分が違うからってずっと諦めてた。俺には何もないから、釣り合わないって。けど、俺に見せた本当のお前を、違う男には見せたくない」


「俺は、馨が好きなんだ」

「ーーーー!」


この言葉を、私はどれほど聞きたかったのだろうか。柚木である私ではなく、馨を好きなのだと誰かに言ってほしかった。私は私で良いのだと、柚木でなくても必要なのだと。

「……檜佐木副隊長…」

この言葉、この瞬間に、私はひとつのことを確信していた。私の運命、その結末をである。私は思わず立ち上がり、白無垢が崩れるのも構わずに駆け寄っていた。

「ーーー私、」

もしかしたら、この運命を心のどこかで分かっていたのかもしれない。ずっと焦がれていた言葉を聞いた時、そして黒髪の男性と聞いた瞬間にも、私の頭に浮かんだのはただ1人。檜佐木副隊長ではない、白哉だったのだから。




「…朽木隊長、またなんかあったんすか?」

「……いや、何でもない」

「ありまくりですよ。最近復活したと思ってたんすけど…あっ!そうか今日は隊長の誕生日っすね!おめでとうございます!」

「…今日がめでたい訳が無かろう」

「ええっ!?な、何でそんなに怒ってんすか!?」

言われてみてようやく自覚したが、私は相当に険しい顔をしていたらしい。自分を落ち着かせるように大きく息を吐いて筆をおけば、ひどく落ち込んだ様子で隊首室から出て行く恋次の背中が見えた。その姿に少しの罪悪感が胸をかすめたが、好意を持った相手が自分の誕生日に結婚するのだからめでたくないのは当然である。俗に言う八つ当たりでしかないのだが。

私は一体、いつから彼女に惚れていたのだろうか。それすらもわからないほど、自然と彼女は私の中に入り込んでいた。最初から彼女への気持ちを自覚していたなら、深く関わるのをやめ、浅い傷で済ませただろう。だが、愚かにも関わりすぎた後に自覚してしまったのだからそう簡単に彼女を忘れられるわけもないのだ。

「…最悪の誕生日だな」

きっとこの先、何回誕生日を迎えようが思い出すであろうことは安易に想像がついた。妻を亡くしてから五十余年、ようやく惚れることのできた女性だったのだから、その存在は大きい。

呟いて窓際に移動すれば、彼女の門出を祝福するかのように眩しい太陽と雲ひとつない空が広がっていた。今頃、檜佐木は彼女に想いを伝えている頃だろうか。彼女はきっと私が見たこともないような幸せな表情でそれを喜び、私が聞いたこともない甘い言葉でそれを受け止める。そんなことを考えては、再び昨晩に後悔がこみ上げた。

”俺は馨が好きです”

昨晩の電話で彼女の婚約を明かせば、意志の強そうな声で言い切った彼。そんな簡単なことでさえ出来ない私にはそう言い切れる彼が理解できず、疎ましく、苛立たしくもあり、そして羨ましかった。再び人を愛することへの恐怖心、そして掟。そんなものに縛られている自分が心底情けなく思えたからである。しかし結局は彼女の意思、家庭、幸せ、そのどれもを満たせる者など、彼女が唯一愛した彼でないと成り立たないのだ。

「誰だ貴様!いい加減にーー」

「おい、捕まえろ!!」

急にざわざわと騒がしくなった廊下に窓から視線を外せば、激しい複数の足音が響き渡っていた。一体何があったのだろうかとは思ったが、今の私には騒動に関わる気力はない。それで窓際に立ったまま外をただ眺めていたが、突然激しく開かれた扉に思わず視線を移した。

「隊長、大変なんです!突然白無垢の女がーーー」

「なーにが大変なのよ、美貌?」

「馬鹿言うなっ!お前のせいで何人隊士が……って、何で…ここに…」

「あの大きな隊士ならそこで伸びてるわよ」

恋次の声の後に続いた、聞き慣れた声。その高飛車な口調と物怖じしない生意気な態度は、紛れもなく私の思考を占めてやまない人物だった。

「ーーー馨…!」

「ちょっと白哉、あなたの部下弱すぎるんじゃないかしら」

「何をしている、式の時間はーー」

「ああ、それならめちゃくちゃにしてきたわ」

どういうことなのかと彼女の言葉の意味を聞くよりも先に、私は思わず白無垢姿の彼女に目を奪われた。

いつもより濃く化粧を施され、色気ある赤い唇をした彼女。それはあまりにも美しく、私の胸を彼女への思いで容易く支配した。ああ、この姿を他の者に見せるときには、私の隣であってほしかったというのに。

そう胸が締め付けられた時、彼女の顔はどこにも見えなくなっていた。代わりに胸元から背中に回された温もり、それを彼女と結びつけるにはあまりにも冷静さを欠いていた。

「白哉、誕生日なんでしょう?」

「……何故それをーーー」

「こっちに来る間際、檜佐木副隊長が教えてくれたわ。なんで言わなかったのよ」

「檜佐木はーーー」

「私って、馬鹿だと思うわ。大好きだった檜佐木副隊長も、家も恩返しも、ぜーんぶ捨てちゃってこんなところにいるんだもの。ほんと、どうかしてるわよね」

私に顔を押し付けているせいで彼女の表情は読み取れない。だが見下ろした彼女の艶やかな黒髪の隙間からは、口調に似合わない真っ赤な耳。それは苦しいほどに彼女への想いを私に再び自覚させた。これほどに愛おしい彼女を誰かに譲るなどできるわけもなかったのだ、と。

「……馨、私はーーー」

「ーーでも、もっとおかしいのは、檜佐木副隊長に告白されて全部が手に入ろうとする直前、どうしてか白哉さえいれば何もいらないと、そう思ってしまったことかしら」

そう言った彼女に、いつものような覇気は微塵もなかった。少し震えた、必死に絞り出すかのような緊張した精一杯の声。

「…片想いでいいの。叶う叶わないは別として、貴方と一緒にいたいんだって初めて運命に逆らいたくなったのよ」

言い切った彼女は身を離し、代わりにその片手が私の衿をぐっと掴んでいた。

「贈り物には文句つけたりしないわよね」

「ーーー!」

彼女の伏せられた瞳と、甘い香り、吐息、触れた指先、そして重ねられた唇。その全てにいとも容易く理性は崩れ落ち、私は離れた彼女の唇を追って更に深く口づけていた。

「ーーっ!?」

「…口を開け、馨」

「ん、っ……!」

彼女の紅い唇を、舌を、まるで食べるように己の唇を重ねれば、角度を変えるたびに視界に入る苦しげな表情の彼女がより一層私の欲を掻き立てていく。

掴まれていた衿にぐっと力が入るのを見れば、彼女が不慣れなことなど安易に理解できた。それで余計に加虐心が煽られ、遠慮気味に少し繋がれた右手に一本一本なぞるように指を絡め入れれば、彼女はびくりと肩を揺らして私の胸を押し返していた。

「…っ、ちょ、ちょっとくらい怒りなさいよ!勝手にキスされたのよ、わかってる?」

「馨の家も縁談も、私が全て責任をとろう。檜佐木には悪いが馨は渡せないと伝えておく」

「どういうーーー」

「朽木馨になる気はないか」

彼女は運命に逆らいたいと言うが、私にとっては彼女との出会いは運命そのもの、だがそれを伝えたら彼女のことだから思いきり笑うに違いないだろう。私がどう転んでも逆らえないこの運命は、彼女が巻き込んだのか巻き込まれたのか。

「ーーー嘘、それ本当に…?」

「……馨、目を閉じろ」

「え、な…」

彼女の顎を持ち上げれば、真っ赤な頬に驚いた瞳。そのあまりの愛らしさに思わず頬は緩んでいた。彼女が私を見て頬を染める、それだけでこんなにも幸せだなんて馬鹿げた話である。だが、これほどに嬉しい贈り物など、後にも先にもあり得ないだろう。

彼女とは出会うべくして出会ったのだと感じた途端、過去も苦しみも、全てが愛おしく思えるのだから、私もどうやら相当な運命論者らしい。私は口付けを身構えてぎゅっと目を閉じた彼女の耳元に想いを小さく囁いて、それに目を見開いた彼女の唇を盗むように口付けを落とした。


06. 開雲見

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