「ちょっと何のんびり歩いてるの、ほら次行くわよ」

「…………」

両手に持った紙袋の山を持ち上げなおして溜息をつけば、前にいる彼女は屈託ない笑顔で振り返った。

「…馨、まだ買う気か」

「当然よ、久々の現世なんだから」

そう言って無邪気に店の中へ入っては次々と服や化粧品を買ってくる生き生きとした彼女は、まるで先日語られた少女とは結びつかなかった。

彼女も運命を変えられなければ普通の少女として私ではなく好きな異性と色々な場所へと出かけ、多くの思い出を作っただろう。それはとても自然なことだというのに、彼女には一生叶うことがないのだと思うと胸が締め付けられた。

「白哉、次あの店行くわよ」

そう言って私の手を引いている笑顔の彼女が語った幼少期は、あまりに壮絶なものだった。

琴の才に秀でていた柚木家の一人娘、馨とその彼女に瓜二つの顔立ちで流魂街に生を受けた馨。彼女らは決して交わることのない運命にあったほど、対極した暮らしをしていた。一方は両親と家人に愛されて育てられ、対するは流魂街で生きるために自分を守りながら育った。それが、柚木家の娘の死を境に全てが変わってしまったのである。それは決して彼女にとって、良い変化ではなかっただろう。

彼女に握られた手を見れば、その手のひらには無数の傷が未だ消えずに残っている。琴の才に秀でた彼女、馨の完全な模造品となるべくろくに休まず、指導する家人には罵倒され嘲笑されながら、それでも水膨れや血豆ができるまで練習を繰り返したからである。

全ては娘の死を悟られ、家系を途切れさせまいとする柚木家のため。その為だけに流魂街から引き取られ育てられた彼女は、愛されたい、必要とされたいと必死に柚木馨へとなろうとしていたのだ。


「何ぼーっとしてるのよ」

「……ああ…少し、考えていた」

「まさか、この前話した私の過去?もう忘れなさいよ、わざわざこの私が頼んで現世に来てるんだから」

そう言って笑った彼女には、どうやら私の思考は全てお見通しだったらしい。図星のあまり返す言葉がなく黙っていると、彼女は呆れたように息を吐いた。

「あのねぇ、言ったでしょう?どうしてかあなたには最初から柚木馨じゃなく馨として接してた、って」

「…ああ」

「それって、どういうことかわかってる?あなたには柚木家の一人娘として見られたくなかったのよ。だから過去も、もう気にしないで」

柚木馨である彼女は本来、朽木家の家人に挨拶した時のような凜とした優雅な佇まいの女性であり、私が最初から目にしていたのは馨である彼女だったと言うのだから報告書の内容にもようやく納得することができた。彼女は偽り続けた自分ではなく、本当の自分を誰かに出したかったのだという。それは私で二人目だと言うが、一人目の存在を彼女は明かさなかった。

「でもあなたに見せてしまってからは、気が緩んだのかしら。ルキアさんにも、朽木家の家人にも、うっかり素性を見せてしまったわ」

「…あの家人はもう朽木家にはおらぬ、根拠なくして広まることもないだろう」

「あら、そうだったの?まぁ、もう広まっても構わないのだけれど。嫁ぎ先はちゃんと決まってるんだし」

彼女は笑ったつもりかは知らないが、その顔は硬く強張っていた。私が彼女に感じていた違和感。その原因は、一人娘である彼女は必ず婿養子を貰わなくてはならない運命がある、ということだった。

「…何よその顔。もう諦めてるわよ?結局わかってたことだって話したじゃない。このために育てられたんだから」

「馨は…、本当にそれでいいのか」

「構わないわ。逃げられないことだもの、逃げる気もない。この前も話したけど、あなたに付き合わせたのは一度くらいあの両親を困らせてやりたかったのよね。操り人形のように演じてきた馨でなく、最後くらい私として自我を見せつけたかった」

自分が育てられた理由である柚木家の存続に、彼女はその残りの人生を全てかけることで恩を返さねばならないのだ。それが彼女が生かされる目的であり、条件だったのだから。勿論そこに彼女の意思はない。ただ己に訪れる運命をただ受け止めるだけ、そう言った彼女は”自分は運命論者なのだ”と笑っていた。彼女は私を捕まえ、縁談から逃げるように家を出たあの瞬間から何も変わらぬ運命を覚悟していたのだろう。

「帰ったら違う縁談が用意されてたんだからさすがに参ったわ。私が帰るのを確信してなきゃできないことよね。まぁ私の嘘なんて、当主と知ってたんだから茶番に付き合っただけなのよ」

「…私でなければ、結果は変わっていたかもしれぬな」

「変えたい結果が破談だったのなら、あなたが当主だってわかった時点でもうやめたわよ。私が変えたかったのは、ただ自分の人生の思い出だったのよ」

今日も、その前の非番も、彼女は人生の思い出作りに付き合えと事あるごとに私を連れ出していた。彼女はこれまで溜めていたという自分の給料の貯金を使い切るのだと張り切っていた。おそらく彼女はいつかこうなる自分を予測しつつも、もし1人で生きていけたらと希望を捨てずに貯金していたのだろう。しかしそれも今日で終わり、彼女は明日婚礼の儀を迎えるのだ。


「あーあ、一瞬だったわ」

「…私が家の前まで行っても良いものなのか」

「問題ないわよ。お母様にはもうすべて正直に伝えて謝ったもの」

荷物と共に彼女を送るため再び柚木家の前へと立った私は、懸命に荷物を運び込んでいる彼女の背中を見ながらあの夜を思い出していた。

偶然にも散歩した道の行く先にあった、彼女との出会い。あの時には自分の運のなさを心底呪ったものだ。しかし、彼女が自分に降りかかることを運命と受け止めるのならば、彼女と私の出会いは一体何だったのだろうか。

「待たせたわね、道わかりにくいだろうから坂の下まで送るわ」

「構わぬ、それよりも…」

「それよりも?」

「好きな男がいるのだろう?」

「…鈍そうに見えて案外鋭いのね」

唖然とした表情で私を見上げた彼女は、それから表情を変えて今度はまるで子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべて指を突き立てていた。出会った頃の彼女よりもたくさんの表情を見せるようになったのは、思い出作りと称して様々なところに付き合い始めた頃からだっただろうか。ただ変わらないのは、その掴み所のなさである。

「いいわよ、もう婚約者もいるし教えてあげても。あてれたら、ね」

「……檜佐木、だろう」

「………なによ、つまんないわね」

そう言った彼女は、大袈裟にため息をついて、それから気まずそうに髪をかきあげた。それは彼女がなんとなく居心地の悪さを感じた時にする癖であり、その癖すら把握してしまうほどに私は彼女とか関わりすぎてしまった。

「…そんなにわかりやすいかしら」

「……檜佐木か?柚木馨でなく接することができた1人目というのは」

「そうよ、よくわかったわね。まぁ私なんてあの人の眼中にはなかったわ、ただの部下よ。それにもう辞めなきゃいけないしね」

そう言って笑った彼女の目元には、以前再会し過去を聞いたあの日に出来ていたくまがまだ薄っすらと残っていた。

彼女が言った、締切前だから仕事に付き合っているという発言。着実に進められていく縁談があったのだから、家に帰りたくないと言っていたのも嘘ではないだろう。だが、それだけではない理由を感じていたのだ。檜佐木に対する、彼女の想いである。

「…檜佐木のどこに惹かれた」

「なによ、そのくだらない質問は。恥ずかしいから帰る、じゃあね」

少し赤くなった彼女の顔に、私は彼女の言う通りあまりにくだらない質問をしたことを心底悔いていた。彼女は明日婚約してしまうのだ、これがもしかすると最後の会話かもしれないというのに。そう思った途端、私は必死に言葉を絞りだそうとしていた。

「………っ…」

目の前で閉まっていく門に何も言えなかったのは、思わず自分の言おうとした言葉に驚いたからである。ただ門を見つめる私に、彼女は閉まる間際、小さく手を振って口を動かした。

「大嫌いだなんて嘘よ、白哉。今まで、ありがとう」

木の軋む音の中で、確かに聞いた彼女の言葉。その衝撃に、私は門の前から動けずにいた。どうして彼女は最後にそんな狡い言葉で別れを告げるのだろうか。彼女らしくもないが、私達らしくもなかった。その不自然さの理由は、ただひとつ、互いにそれぞれの感情を隠した別れだからだろう。


「……あの、朽木様?」

「……!」

背後からかけられた声に驚いて振り向けば、見覚えのある女性が佇んでいた。黒い髪に目立つ、赤くひかれた口紅。それは紛れもなくあの晩に見た、彼女…馨の母親だった。

「随分と長く立ち尽くしてるものだから、つい声を」

「屋敷前で失礼をーーー」

「いいえ、全く構いません。それよりもよろしければ少し、お時間頂けませんか?」

そう言った彼女は頷いた私を見て、屋敷の方までお送りします、と付け加えて歩き始めた。すでに日が沈み出した空に、地面に映る影は長く濃い。彼女は日傘を閉じながら、その影をじっと眺めていた。

「…馨を、ありがとうございました。あの子の嘘に、まさか朽木様がお付き合い下さるとは思いませんでした」

「………それは…」

「実のところ、嬉しかったんです。馨が感情を露わにしたこと、そして付き合っている人がいたこと」

そう言った彼女は弱々しく微笑んで、懐から一枚の写真を取り出した。手渡されたその写真は、馨であり馨ではない。あまりにも、瓜二つの少女、柚木馨だった。

「…朽木様なら娘から聞いていると思いますが、私達は馨の死から立ち直れず流魂街で見つけた彼女に、全てを背負わせました。私達の希望、願い、理想、家系…全てをです」

「………」

「彼女は私達と家人の顔色を伺い、完璧な馨を演じようと必死でした。まるで生きる理由はかそこにしかないかのように…そんな彼女に、私達は柚木の呪縛を解いてあげたかったんです。好きな人と、幸せな婚姻を結んで…」

「……!」

彼女の暗く険しいその表情は、まるで自分を責めているかのようだった。呪縛を解く、というのは、柚木馨ではなく馨として生きて欲しいと、そう願っていたということだろうか。

「私達は、途中からわからなくなっていたんです。亡き娘の馨ではなく、全く違う馨として彼女を大切に育てたいと思っていました。わかっていました、馨の死を嘘で突き通すには無理があり、そして間違っていることだと」

「…ならば何故彼女に縁談を?」

「私達は二人共、もう長くはありません。彼女への最後の愛情と罪滅ぼしは、財産を全て馨名義で残すこと。そして1人で生きてしまわぬように彼女を支える最良の婚約者を選ぶことでした。勿論彼女に恋人がいれば1番よかったのですがーーー」

彼女の母親と別れてからも、私はひたすらにそのことを考えていた。彼女に伝えないのかと聞けば、彼女の母親は切なそうに微笑んで首を振る。それは恐らく、今更何を言おうが彼女に与えた傷や人生の代償を取り戻すなど出来ない状況での謝罪は、自分達がその罪悪感から逃れようとしているだけに過ぎなくなってしまうということだろう。

だが、彼女はどうなのだろう。それを知れば、彼女は好意を寄せる男に想いを伝えることくらいはできたのではないだろうか。

「………」

私は伝令神機を開き、護廷十三隊一覧を開いていた。選択したのは九番隊ーーー

「…檜佐木副隊長、少し話がある」

檜佐木の動揺した声を聞きながら、私は彼女との別れの瞬間を思い出していた。閉じかけた門に、私が言おうとしていた言葉。

私は馨が好きだ、とーーー

それはあまりにも軽薄で、それでいてとてつもなく滑稽なセリフだった。


04.桐
back