ふと眩しさに顔を上げれば、目の前に広がるのは大量の記事と原稿の海だった。これはなんだろうかと数回目を瞬かせて、それから隣に目を移せば、そこには同じように机に突っ伏している男。そうだ檜佐木副隊長である。

「…檜佐木副隊長」

「……んー…」

「今すぐ起きないと原稿焼くわよ」

「……、……え!?」

勢いよく起き上がった檜佐木副隊長に思わず笑いそうになりながら、私はそのボサボサの頭にタオルを乗せて立ち上がった。

「私一旦シャワー浴びて化粧してくるから、檜佐木副隊長も顔洗ってさっさと原稿纏めてよね」

「ああ…悪いな柚木。毎回毎回…」

「今こっち見ないで。化粧崩れてるから」

言って執務室を出れば、まだ早朝の寒さで息が空気に白く色をつけていた。少し薄暗い中で迎える朝はこれで一体何日目だろうか。そろそろ疲労も化粧のりも限界だがこれも締め切りを迎える明日で終わりである。そう大きく溜息を吐いてシャワーの栓を締めれば、髪から滴る水滴がまるで涙のように頬を伝っていた。

「…涙なんて随分流してないのに」

最後に記憶にあるのは、自分の感情に意味があると信じていた幼少期である。この重く暗い気持ちを消し去るかのようにタオルで水気を拭き取れば、控えめに扉を叩く音が聞こえた。

「柚木、お前に来客が来てる」

「…来客?一体誰ーーーー」

雑に死覇装に袖を通して湯気と共に扉から出れば、来客は目の前に俯向くようにして立っていた。その手に握られているのは、見覚えのあるハンカチ。

「お久しぶりです、馨様…少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「…私、化粧も朝食もまだなんだけど」

「あ…申し訳ありませーー」

「だから朝食。付き合ってくれるかしら?」



「…いちょ…隊長!」

「……!」

「…隊長、一体どうしたんすか?」

ようやく意識の中に入ってきたその声に顔を上げれば、大量の書類を手に隊首室前で立つ恋次が目に入った。どうやら随分と考え事をしていたらしい。その証拠に机の上の書類は一向に進んでいなかった。

「何かあったんすか?体調でも悪いとか…」

「…いや、気にするな。問題ない」

自分で言っておいてなんだが、一体何が問題ないのだろうか。ここ1ヶ月、毎日のようにこうも集中を欠いては仕事に支障をきたしているというのに言えた言葉ではない。それはおそらく書類を置いていった恋次も思ったはずだ。

「…自己嫌悪だな」

小さく溜息をついて置かれた書類の内容に目を通せば、到底定時には終わりそうもない面倒な案件である。加えてこの処理速度だ、更なる残業は免れないだろう。だが今の私にとって早く帰る理由などひとつもなかった。

頭に浮かぶのは、彼女の高飛車な口調と自由奔放な振る舞い。まるで昨日のことかのように思い出せてしまうのだからそれだけ彼女が私に与えた印象は大きかったのだろう。いや、実際にはそれだけではなかったのかもしれない。それを情移りだと言ってしまえばそれまでだが、そう形容してしまうにはあまりに重苦しい感情が私の中に沈んだままなのである。それは後悔とも罪悪感とも異なる、何か別のものだった。

「ごきげんよう、朽木家当主様。来てあげてみれば随分な有り様じゃない」

「………な…」

思わず記憶の中の彼女に語りかけられたかのように錯覚して勢いよく顔を上げれば、紛れもなく本物の彼女が目の前で見下ろすかのように立っていた。いや、まさか彼女が来る訳がない。疲労からくる幻覚なのではないだろうか、そう思って疑うようにその瞳を覗きこめばそれを阻止するかのように肩に何かが押し当てられた。

「…無礼な人ね、人の顔をじろじろ見るなんて」

「……来るとは思わなかった」

「私も来る気なんてなかったわよ」

彼女が私に押し当てたのは、どうやら布袋に入った小包のようだった。それを確認するよりも先に気になったのは、彼女のその顔である。以前よりも遥かに痩せた頬に目の下には濃く出来たくま。よく見れば小包を押し当てている腕も随分とやせ細ったように思える。

「その顔はどうした」

「ああ、これ?今うちの副隊長が瀞霊廷通信の締切に追われてるのよ。見かねて手伝ってるわけ。家に帰りたくたいからちょうどいいのよ」

自分の目の下を差しながら言った彼女は、自嘲気味に笑ってから今度は私の目の下を指差した。

「ま、隊長様も言えたものじゃないわよ」

「……ルキアが来たのか?」

「ご名答。随分心配かけてるらしいわね」

「それは……」

「言っておくけど、私は謝らないわよ。事実を言ったまでだもの」

「………」

「…でも、少し言いすぎたわ」

そう言った彼女の表情にはいつものような勝気な笑みはなかった。一体このひと月に、何があったのだろうか。彼女だけではない、義妹から聞いた私の様子を案じて彼女から足を運んでくれたこと、そして似合わない表情で気を使っていること、それにこうも胸が苦しくなっている私もである。

「…あの日の事は、ルキアから聞いている」

「さっき聞いたわ。せっかく隠そうとしてくれたのに申し訳ないと随分謝られたもの」

そう言って小包を手放し、隊首室の隅にある椅子へと腰掛けた彼女は溜息をつくように言葉を紡いだ。

「お礼、言えてなかったわね。協力してくれたこと、感謝してるわ。……ありがとう」

「………」

「その報酬を渡す前に、付き合わせた貴方にはちゃんと話しておきたいことがあったのよ」

「…報酬は必要ない、馨はーー」

「私、馨だけど柚木馨じゃないのよ」

まるで泣いているのではないかというほど震えている声にハッと立ち上がって彼女を見れば、その瞳には悲しみではなく、恐怖の色が浮かんでいた。同時にガツンという鈍い音を立てて床に落ちた彼女からの小包に足を止められて視線を落とせば、散らばっていたのは相当な額であろう金貨だった。

「…柚木馨は、当時13歳で亡くなっているの。それと同時に、北流魂街31地区の馨も死んだけどね」

「………!」

「私は柚木の家系を守らんとするために秘密と共に育てられた、ただの模造品よ」


04. 死一生

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