「……遅い」

思わず漏れた声は、無駄に広い室内にやけに響く。もちろん返答があるわけないこの独り言は先ほどから幾度となく繰り返されていた。自分しかいない空間で独り言が増える心理は案外静寂と無音に耐えきれないからなのかもしれない。そんな無駄な事を考えながら興味のない本のページを数枚めくり、また戻る。

この朽木邸に住み着いて、早5日。もう大体の屋敷の構造は記憶したが、あまり出歩く気にはなれなかった。それほどの尋常ではない広大さである。それで私はほとんど朽木家の家人が用意した布団の側、つまり当主の自室にいるわけだが。

「暇だわ…」

定時で仕事を終えて帰ったのはいいが、肝心の当主はまだ帰宅していなかった。代わりに家人達がやたらと笑顔で迎えてくれて夕餉や風呂を用意しようとしてくれたが当主を差し置いてすませるのもどうかと考えてとりあえず断っておいた。が、あまりにも遅すぎやしないだろうか。

しかし、昨日一昨日はそう遅くはなかっただけで、実際はいつもこのくらいなのかもしれない。多少気にはなるのだが、一応は恋人という設定で通っているのだから家人に聞くわけにもいかず、それで結局は彼を待ち続けているわけである。

「このまま餓死しちゃったりして」

なんて冗談を呟いたところで、全く笑えない状況だ。もしや住み着かれた私にそろそろ嫌気がさして帰宅しないのではないだろうか、という疑念さえ浮かんでくるほどである。随分この静寂に精神を追い込まれているらしい。

いや、心当たりがないわけではなかった。何せ1日目は深夜まで無理やり酒に付き合わせた挙句に縁側で泥酔。2日目は二日酔いで正午まで寝ておきながら当主をこき使い、書庫や庭の散策にも付き合わせた。そして3日目、4日目と連続して寝起きの悪さを発揮し朝から何回も起こさせたと言うのに文句を言って出勤、加えて5日目の今日は足蹴りまで食らわしたそうなのだから、これでもかというほどに条件は揃っている。

「……私なら確実に追い出すわね」

元より縁談の日から3日が経った今もうここにいる理由はない。それで今晩には柚木家へと帰るつもりで出勤前に荷物をまとめていたのだが、よくよく考えればこれだけ世話になっておいて勝手に帰るわけにも行かないだろうという結論に至ったのだ。どうせもう関わらないであろう彼に、最後くらいは礼を言っておきたかったのである。

「…でも少しやりすぎたかしら」

小さく溜息をついて本を閉じれば、時刻は22時を迎えようとしていた。私が知らないだけで、隊長ともなればこのくらいの残業は当たり前なのかもしれない。我が隊の檜佐木副隊長はといえば瀞霊廷通信の締切前になればそれはもう残業どころか連日徹夜で机にかじりついているが、あれは彼が瀞霊廷通信の編集者だからだと思っていた。だが本当のところはどこの隊も隊長副隊長は何かと忙しいのだろうか。

「ーーそういえば…今日は義妹がいるのよね」

ふとあの晩、檜佐木副隊長からの情報提供で耳にした朽木ルキアという義妹の存在を思い出していた。

実のところ初日に挨拶をと試みたのだが彼女は運悪く不在、聞くところによれば数日の現世任務であり予定では今日この日に帰還とのことだっだ。もうすぐ終わる契約なのだから会わなくても別に支障は全くないのだが、彼女に会ってみたくないと言えば嘘になる。

と言うのも、かなり適当な人選ではあったがこの数日関わった彼は仏頂面だが面倒見が良く、不器用ながらも優しい性格だと理解していたからだ。私が先に帰宅して勝手に庭にいれば羽織を持って迎えに来たり、夜型人間で中々寝ない私をなんだかんだと起きて待っていたり。口では何も言わなくとも行動には彼の人間性が現れていた。

だからこそ、彼の妹となればそれが義理であろうともさぞ大切にされていることは安易に予想がついた。そんな彼女を見てみたかったのは、朽木白哉に対する少しの興味と好奇心なのかもしれない。ようやく当主の自室から出た私はまだ見ぬ彼女の部屋へとあてもなく歩き出した。


「ーーーね、今度こそ安泰だわ」

無駄に長い廊下を幾度となく曲がっては進み、曲がっては進みを数回繰り返しているとふいに甘い線香の香りが周囲を漂い始めた。それと同時に聞こえたのは、家人と思われる数人の話し声。香りに導かれるように廊下を歩き、襖を開けてみれば、さらに奥へ続く部屋の襖越しからその声は聞こえているようだった。

「ーーー白哉様もようやく目を覚まされたのね」

「本当、随分長かったわ。柚木家なら家柄も財力も申し分ない」

「となれば、ルキア様はもうこの家に必要ないはずよ」

「それはどうかしら。死してなお、緋真様にご執心だったもの。そう簡単には……」

「あんな溝鼠共、いい加減朽木家から出て欲しいわよ。いつまで泥を塗る気かしらね」

耳に入ってきたその会話に、思わず足が止まった。私の話と、そして溝鼠、というのは亡き奥方様とその妹のことだろうか。まさか、という思いと同時に湧き上がった妙な確信。それは生々しいほどに身に覚えがあったからなのかもしれない。思わず握りしめた拳が震えていることに気づき、私は襖に手をかけた。

「ーー落ち着き下さい、馨様…!」

「ーーーな、」

ふいに背後から掴まれた手に驚いて振り返れば、そこには黒髪の小柄な少女が立っていた。暗闇の中でもわかる、強張ったその表情。私同様に死覇装に身を包んでいる彼女は、恐らく私が探していた義妹、朽木ルキアだろうということはすぐに察しがついた。

「…経った今現世より帰還しました、お話は家人より伺わせて頂いております。遅ればせながら挨拶に向かわせて頂こうと思っていたのですが、このような状況で申し訳ありません。私……義妹の、ルキアと申します。お会いできて光栄です」

無理やりに笑った彼女の笑顔は、見るに堪えないほどに辛そうな表情だった。だがその表情にすでに全てを諦めた、それでいて慣れすらを含んだ感情を感じ取ってしまったのは、思わず重ねるように彼女を見ていたからだろうか。そして彼女が口にした義妹という言葉のぎこちなさ、それは私の理性を壊すには十分すぎるものだった。

「…初めてお目にかかります、私は柚木馨と申します。自己紹介代わりにまずお伝えしたいのは貴方のお兄様と私は全くの他人だということ、かしら」

「え?それはどういうーー」

「詳しくはお兄様にお聞きになって頂けるかしら。でもって、本当に光栄かどうかはこの先のことを見てから聞かせてね」

「待っーーー」

彼女が制止するよりも前に思いきり襖を開けた私は、そこにいた家人達数人と、その奥の線香の煙越しに見えた遺影の女性と視線が絡み合うのを感じていた。暗闇に佇む彼女ら家人は約8名。その各々が侵入者が私だと認識した途端まるで歓迎するかの如く向けた笑顔は、妙に生温い空気を纏っていた。

「馨様!こんな所へ一体どうされました?」

「偶然にも今、緋真様と貴方様を比べて下女達で喜び合っていたところで御座います」

口々に語られる言葉は手招くかのように、私を賞賛するものばかり。そうまでして私を捕らえようと逃さまいとするこの家人たちは異質でしかなく、こみ上げる嫌悪感は作り笑いで抑える他なかった。

「流魂街の者が前妻となれば上流貴族であられる馨様はお気分を害されるかもしれませんが…」

「亡き奥方もその妹も、私たちには本当に恥ずかしい限りですわ。姉妹で朽木家の名を穢ーー」

「ええ、そうですね。非常に残念で恥ずかしく思っております」

遮るように吐き捨てて彼女らを見渡せば、後ろで小さく息を飲む声が聞こえた。対する前方からは溢れんばかりの甲高い嘲笑。その声に、私は思わず遠い昔を走馬灯のように思い出していた。私を囲む嘲笑と叱責、そして指の痛みと琴の音色。フラッシュバックするようなこのおぞましい空間に、気付けば壁を叩く鈍い音が響いていた。

「ーー貴方達のような家人、本当にお恥ずかしい。ご自分で、そうは思いませんの?」

「…なっ……!」

一斉に鳴り止んだ笑い声の代わりに訪れた、痛いほどの静寂。怒りで顔を赤らめている家人達は全員、一転して私を異様なものを見るかのような目で見ていた。ただ遺影の彼女だけがこの状況にそぐわないほど優しく儚げな表情を浮かべている。成程、彼女が立ち向かうには大きすぎる壁だっただろう。

「…お言葉ですが馨様、この女は流魂街の生まれ。それを知っての上でーー」

「馬鹿は休み休みおっしゃって頂けるかしら。流魂街だとか何だとか言うより前に、貴方達が大層尊敬する御当主様が選んだ女性だという紹介が先ではなくて?」

「…それは……!」

「身分よりも目を向ける場所があるでしょう。御当主様に人を愛する気持ちを教えることは他の誰でもなく彼女だから出来たことであって、それを貴方達が出来たのかしら?」

ああ、どうやら当主を待ってやろうと思っていたが、それは難しそうである。恐らく私は刃向かってはいけない者に牙を向けてしまったのだ。瞬く間に私の噂は瀞霊廷全土を駆け巡り、他者から向けられる目も随分変わるであろう。こんなリスクを背負ってまで守ろうとしたのは朽木白哉の義妹ではない。ただ、幼少期に閉じ込めてきた自分だった。

「…御当主様が愛した方に、家人が敬意も誇りも持てないなんてとんだ笑い種だわ。その愛が生きている証でもある義妹をも誇りに思えないんだから尚更よね」

「ーー馨様は、どうしてそれほどに彼女らを庇うのですか!?貴方は此方側、私共の気持ちがわかるはずです!流魂街の血が交じり、家名を落とす悔しさが…!」

私のその一言は、彼女らだけに向けた言葉ではなかったのかもしれない。伝わらない、伝えることのないこの言葉を今言ったところで何かが変わるわけでもないというのに。

淡々と告げた私とは対照的に、怒りで震えている家人の声から伝わるのは憎しみの大きさ、そして朽木家への純粋な忠誠心だった。それはまるで自分に向けられた刃のようで、私は疼く胸を隠すかのようにわざと微笑んだ。

「あら、そんなの簡単な話よ。単なる身内贔屓、ってところかしら」

「………は…?」

周囲が一瞬で唖然とした中、間の抜けた声をあげたのは後ろに立っていた義妹の彼女だった。誰もが意味がわからないといった表情を浮かべているのは割と面白いものである。しかしそんな状態もそう長くは続かなかった。

「…ここで何をしている」

「びゃ…白哉様……!」

真後ろから低く響いた静寂を破る声。それに凍りついている家人達の表情はまるで絶望を物語っていた。恐らく一瞬で身構えたのだろう、私の一言で彼女らの未来はいとも容易く壊れてしまうということを。

しかし私がそれをするにはあまりにも関係が薄く、そしてこの義妹を苦しめてしまう。彼女がこのようなことを義兄に知られたくはないであろうことはその顔を見れば一目瞭然だった。

「…あら、遅いお帰りで。随分待たされて暇だったからちょっと女子会ってところかしら。出て行く前に義妹のルキアさんに挨拶もしたかったのよ」

察しのいい彼のことである、こんなその場凌ぎの嘘で丸く収まるわけもないことはわかっていた。だがこれをどうするかは丸くした目に涙を溜めている彼女次第である。じゃあね、と彼女の胸にハンカチを押し付けた私は廊下へと歩み出した。


「………」

「……何か、言えばどうなのよ」

当然のように追ってきておいて、彼はどうしてか何も言わなかった。何故黙っていて、何を考え、私をどう思ったのだろうか。そんなくだらないことが妙に気になり、耐え兼ねた私は自ら彼を振り返ってしまっていた。

「…話したくないのなら構わぬ」

「馬鹿じゃないの、あなたの大切な義妹を泣かせたのよ。私が、彼女の傷を抉ったの。わざとね」

どうしてなのか、あれだけ得意だった演技が彼の目を見て出来なかった。罪悪感もある、自己嫌悪も当然ある。だけどそれだけではない、この息苦しい感情は一体何だろうか。

「ーーそれ程器用には見えぬがな」

「……そうかしら、気が強くて意地悪いのは貴方もわかっているでしょう。騒動が有無に関わらずどちらにせよ今晩帰るつもりだったから恋人演技を上手く辞めれる言い訳になってちょうどよかったわ」

「…随分と勝手だな」

「あら、契約は終了したはずよ。報酬は後日屋敷にでも送っておくわ。現金でいいかし、らーー」

思わず息を飲んだのは、掴まれた顔の先に見たこともないような真剣な瞳があったからである。動揺した表情が映り込んだその瞳は、まるですべてを見透かすかのような深い色を帯びていた。

「何故目を見ない」

「……逃げようが纏わりつく自分の運命に、うんざりしただけよ」

どういう意味だと言わんばかりの彼の手を振り払い、その目から逃れたい一心で私は背を向けて歩き出した。次に目を見れば、私は何を言ってしまうだろうか。まるで今までの自分が壊されていくようなこの感覚が、ただ恐ろしかった。

「…帰るのなら送っていこう」

「結構よ、とても素敵な家人達に囲まれているんだからせいぜいお家にいてあげなさい」

「…何が言いたい」

「貴方には失望したって言ってるのよ。貴方の奥方様も、義妹の彼女も、とても大切にされていて驚いたわ」

「ーー待て、馨」

「私、貴方みたいな人が大嫌いよ」


言って、掴まれた手を振り払った勢いもそのままに廊下も、彼の自室前も、庭園も駆け抜けていた。ようやく屋敷を出た頃には当然息も切れ、心臓は早鐘を打つ。しかし、それはこの運動によるものだけではないだろう。掴まれた手の熱と、初めて口にされた名前、彼の表情。そのどれもに妙な息苦しさを感じるのはどうしてなのだろうか、私には全くわからなかった。


03. 1日
back