Q1


勉強は学生の仕事、と誰かが言っていた。やらなくても死にはしないが、やらないと恐ろしい目に遭わされる魔性の存在である。社会においての人間の判断材料なんて成績、学歴、資格が全てだから仕方がないと言えばそれまでかもしれない。そういえば、中国語では物事を強制するという意味になるとどこかで聞いたことがある、まさしくその通りだ。

「こんないい天気に学校とかだるいわぁ」

「いやほんとに。体育もあるしさぼりたい」

そんな勉強が大嫌いな私はといえば、一夜漬けで数々の危機を乗り越えてきた一番知識が身につかない典型的馬鹿だ。わかっているなら毎日勉強すればいい話なのだが、それができないのだから日々努力できる人は恐らくそれも才能のうちだと私は思う。そして、才能のない私が一番嫌うのは数学。何故って、前述した通り切り札の一夜漬けが通用しないからだ。

「あ、本鈴」

チャイムが鳴ると同時に、ざわついていた教室に椅子を引く音と足音があわさって一層騒がしくなった。私も乱菊と窓際から離れ、席に戻りながら言葉を交わす。

「一限なんの授業だっけ」

「数学よ、最悪。じゃあね」

「…!そっか、今日数学…!」

乱菊の言葉によしきた、と密かに片手にこぶしを作れば自然と緩む頬。それを無理に戻しつつ、急いで席に着いた。こんな私を、きっと2週間前の自分なら想像できなかっただろう。大嫌いな数学の授業が、こんなにも楽しみだなんて。

「おはよう、白哉」

席に着けば、視界に入るのは小説に栞を挟む彼。なるべく自然に声をかけたはいいが、緊張が現れて少し低い声になってないだろうか。それに私うまく笑えてないかもしれない、髪だって跳ねてないだろうか。

様々な疑念と不安がたったこの一言の挨拶だけで押し寄せるなんて、自分でも馬鹿げていると思う。私とは対照的にいつも冷静沈着な彼は、別段気にした様子もなく手元の文庫本を鞄へと戻していた。

「…今日は遅刻してないのか」

「ちょっと。残念そうに言わないでよ。今週はまだ遅刻してないもんね」

私は緊張を隠すようにごく自然を装いながら教科書とノートを取り出した。が、内心は緊張により心臓の動きが尋常じゃない。軽く校庭一周したんじゃないかと思うほどだ、その確たる証拠に手は既に汗ばんでいた。

隣の彼、朽木白哉とはこれまで接点すらないただのクラスメイトだった。ほんの2ヶ月前の席替えがなければ今も会話すらしていなかっただろう。何を言おうと彼は成績優秀、そして剣道部では大会優勝常連者、まさに文武両道とはこの人のためにある言葉なのではと思うほどだ。加えて顔もいいときたら女子が放って置くわけがない、噂ではかなりおモテになるらしいようで。しかしながら恋愛に興味がないのか玉砕した女子は数知れず、本当に恐ろしい男である。神は二物を与えないというが、そんなの嘘だ。

なにより恐ろしいのは今、そんな彼に絶賛片想い中の愚かな自分だろうか。理由なんて明確にはわからない、私が教えて欲しいくらいである。こんな難攻不落な男への望みのない片想いなんて一生の不覚だ、できれば平凡な人がよかったが今となってはもう手遅れである。

「はい、教科書」

私は少しぎこちなく教科書を広げて、机を寄せた。この言葉に同じく机を寄せる白哉を見れば、その距離に否応なしに顔は熱くなる。最早暗黙の了解となっているこの数学だけの特権に、相変わらず口元が緩んだ。

「毎回悪いな」

「えっいいよ、このくらい。お互い様だし」

なんて言いながら、内心むしろ私が神様に感謝している。何事においても完璧な白哉が、唐突に数学の教科書をなくしたと言い出したのが2週間前。その日から私たちは教科書を一緒に見るようになっていた。

数学は睡眠時間だった私は特に気にもせず教科書ごと彼に貸し与えようとしたが怒られ、寝たい私とそれを見過ごせない白哉との攻防戦が続き、結局私が折れて今の状態に至ったわけである。おかげで数学は意識を失わずに済むようにになれたのだが、残念ながら全く集中できないがために来月のテストも赤点は確定だろう。

「なまえ」

「…え?あっ、いつもありがと」

名前を呼ばれて振り返れば、手渡されたのは筆記用具。これもまた毎回のことで、勉強しない私が筆記用具を持たないのを気にしていつも貸してくれているものである。

私も別に留年したい訳ではないのだから筆記用具は鞄に常備されている。面倒だからと出したり持ったりしないだけだ。だがこうなった今現在、これを期待していないといえば嘘になるだろう。私はとりあえず熱を冷ますべく書く気のないノートを適当に広げておいた。

「あぁ眠い寝たい眠い…」

「試験が近いだろう。馬鹿は授業を聞け」

「あーあ馬鹿とか言うからやる気削がれた」

「そうか、赤点でなければ菓子でも買ってやろうと思っていたのだが、残念だな」

「…え!?うそっ!」

白哉の一言に、私は頬杖をついていた体勢から慌てて姿勢を立て直していた。なんだその魅惑の言葉は、それは一大事ではないか。自分でもお菓子くらいにつられるのはどうかと思うが、相手が好きな人となれば話は別だ、こんな絶好のチャンスはない。あわよくばお菓子を買いに一緒に帰れるかもしれないし、そこからまた、という妄想が次々と浮かんで思わず頬が緩んでいた。

「やる!やるやる!私やる!」

「単純すぎるなお前は…」

「それが私の長所!」

そんな私を呆れたように見てる白哉に私は隠しきれない笑顔を思いきり向けて、シャーペンを握った。これほど頑張れることなんてないだろう、スタートは遅れたが頑張ってみる価値も、わずかな希望もまだ充分なほどにある。ようやく訪れた教師の姿に、私はつい広がってしまう邪念を振り払って黒板に並ぶ数字と記号に戦いを挑んだ。

Question 1.
Why is it so much
fun to be with you?
(なぜ君と一緒だとこんなに楽しいの?)

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