三月十三日の変
指先から書類が落ちたのは、正午頃だった。いつも通り書類を渡すのを口実にわざわざ彼女の元へ出向いたが、どうやら最悪の状況で来てしまったようだ。彼女の足元には指をついて頭を垂れている男。そして唖然とする私以上に驚き、固まってしている彼女の姿。
「へ…?」
「もう一度いいます!僕と交際していただけませんか!」
男は私の存在にすら気付かず、声を張り上げていた。椅子から立ち上がった彼女が、男に恐る恐る近付いてしゃがみ込む。その一連の動作を茫然と見ていると、視界の端で赤い髪が私の肩を叩くのが見えた。
「隊長…先越されましたね」
「…恋次、これはなんだ」
恋次は悔やみきれないといった渋い顔で私と男を交互に見て、ため息をついている。少し鬱陶しいが今はこの状況の説明が先だ、この赤毛を殺すのはその後でも遅くはない。まさか私の長年の片想いが突如現れた新参者に先を越されてしまうとは信じられないどころか信じたくもないことである。第一、彼女も動揺こそしているが満更ではなさそうだ。
「これが俗に言うフライングゲットですよ」
「…どういうことだ」
「他にもライバルがいるかもしれない相手にはホワイトデーを待たずして先に告白し、奪われないように予防線を張る戦術っす」
現世にはなんて恐ろしい戦術があるのだ、と思いながら改めて目の前の光景に絶望した。そうだった、明日は3月14日、現世ではホワイトデーという行事がある。なんという厄日だろうか。
彼女に支えられた男は赤い顔で彼女の手を握っては何度も熱い愛の告白を繰り返している。彼女が顔を赤らめるのも無理はないだろうが、私以外の者にそんな表情を見せないで欲しいという勝手な嫉妬が胸を締め付けた。その汚い手を離せ、と今にも始解しそうになっていた片手を恋次が見透かしたかのように抑えている。
「あ、あの、嬉しいんだけど…」
「真央霊術院時代からずっと好きだったんです!返事は夕方で構いません!」
「いや、あの、待っ、」
「で、では!また来ます!」
真っ赤な顔で立ち去っていった男の後ろ姿を茫然と眺めている彼女は、一体何を考えているのか。男の発言からしたら、どうやら私よりも長い片想いだったようだ。新参者は私だったわけか、と私も彼女を見つめながらしばし茫然としていたが、床に落ちた書類を恋次が拾い上げたのを見てようやく我に返った。
「…なまえがあいつに返事する夕方までが勝負ですよ、隊長。頑張ってください」
耳打ちして書類を手渡してきた恋次の背中を見送り、今更だがこうも私の思いは恋次にとって一目瞭然だったのかと思う。まあ無理もない、わざわざこうして書類を渡しに来たりしているのだ、相当馬鹿である。にしても、肝心の彼女には全く伝わっていないというのは皮肉な話だ。
「…なまえ」
「うわっ!?」
恐る恐る呼びかけて意識を引き戻してやれば、彼女は真っ赤な顔で動揺していた。この反応を見れば、私が限りなく敗北に近いことは明らかである。まず彼女の顔を赤らめさせたこともなければ、あんな熱い愛の言葉を囁く度胸すらもない私なのだから、元より敗北は確定しているのかもしれないが。
「…あぁ書類…やっとくありがとね」
「………」
さっきの男は知り合いなのか、返事はどうするのか、好きなのか、と聞きたい事が山ほど浮かび、喉を突いて出そうだったがそれを全て何とか飲み込んで黙って書類を渡した。
しかし執務室へと戻ってあの場から逃れたとはいえ先程の状況がなかったことになるわけではない。頭を抱えてしまいたいほど内心動揺しているが私が抱えなければいけないのは両隣に恐ろしい高さで積み重ねられたこの書類だ。言い知れぬ不安をなんとか紛らわすように筆をとったが、結局頭は彼女でいっぱいである。告白すべきだろうか、とも考えたが彼女に伝えたい気持ちがこれほどにもあるというのにひとつも言葉には出来そうにない。私は何十年という月日の間に随分と臆病になってしまっていたようである。
「…おーい朽木家当主。生きてる?」
急に聞こえた声に驚いて書類から顔を上げれば、私の悩みの張本人である彼女が何食わぬ顔で扉の隙間からこちらを覗いていた。
「あ、なんだ。ノックしてんのに返事ないから死んでるのかと思ったじゃん、第一発見者とか嫌だからね私。たまには休めば?」
「あ、ああ…入れ」
どうやら私は相当考え込んでいたようである。情けない話であるが事実書類は全く進んでいない。それに引きかえ、書類を差し出した彼女は動揺する私とは違い、しっかり仕事をこなしている上に洒落にならない冗談まで投下してくる。本当に死にたいくらいだというのになんてことを言うのだろうか。恐らく彼女なりに心配してくれているのだろうが、どうも口が悪くて不器用な女である。その女に夢中な私も私なのだが。
「じゃ、よろしくねー」
彼女の手が書類から離れていくのを見て、何故かその動作が私の胸に不安を色濃くさせた。彼女が、離れていく。それは物理的にだけではない、本当に彼女と離れることになるかもしれないのだ。
「…待て、なまえ」
気がつけば反射的に彼女の手を掴んでいた。無意識的な自分の行動に驚いていると、掴まれた彼女はもっと驚いた顔をしていた。思えば片想いをしていたとはいえ、私は彼女にわざわざ書類を渡すことや危険の伴う虚討伐任務などを無くすような事など、遠回しすぎる行動しかしていないではないか。無論こうして直接的に彼女に触れたことなど初めてのことである。
沈黙が続いたまま、どちらも何も言わずに突っ立ってどれ程たったのだろうか。実際はものの数十秒かもしれないが、私には恐ろしく長く感じた。この状況で引き止めておいた私が何も浮かばないのだから、彼女は尚更言葉に困っているだろう。
「……断れ」
「えっ?」
「あの男からの申し出だ」
なんとか絞り出した言葉に、自分の発言ながら頭痛がした。これだけ悩んでおいてこんな言葉しか出ないとは。彼女は呆然と私の顔を見つめ返していたが数回瞬きをしてからいつものような屈託のない笑みを浮かべていた。
「何それ、元々断るつもりだって!最初は驚いたけど誰かわかんないし。そんなろくでもなさそうな男だった?」
「……いや、そうか…」
私は正直心底安堵していた。彼女はまだ誰のものでもない。そのことにこんなに安堵するとは情けない話である。
しかし、あの男もそう簡単には彼女を諦めないだろう。スタートラインにも立っていない私よりは遥かにチャンスがある、彼女に意識してもらえているのだから。そう考えれば、告白する事は断られる可能性が高くとも価値ある事に思えた。それとそれを行う度胸はまた別ではあるが。
「なんか白哉やっぱり風邪なんじゃない?顔赤いし。熱?死ぬの?私が隊長しようか?」
「…熱などない。お前こそあんな男の告白程度で顔を赤らめるとはな、熱でもあるのではないのか」
「っ、はぁ!?べ、別にいいでしょ私だって一応女なんだから!ほっといてよ!」
まただ、と小さく唇を噛んだ。あの男の話になると途端に顔を赤らめる彼女に対し、再び沸き上がる苛立ちと歯痒い思い。あんな男に彼女が調子を狂わされていることへの悔しさとそれに負けている己の情けなさに、私は思わず言葉よりも先に彼女の手を引き寄せていた。
「いった!机に骨盤ぶつけた!痛!」
「あの男の事でそのような顔をするな」
「キモいから照れるなってか!それはごめん本当!」
「…よく分かってるではないか」
彼女が私を挑発してきて、私も彼女を挑発して。いつも通りの彼女とのやりとりに安堵する反面、落胆せずにはいられなかった。やはり、彼女とあの男のような空気にはなれない。彼女にとって私は恋愛対象外なのだろうか。こんな関係だからこそ万が一にも付き合えたとして、今更彼女と甘い関係になどなれる事など全く想像もつかない。
「自分だって、どーせ告白されたらその仏頂面、嬉しそうに真っ赤にするんでしょ!」
「ならぬ、お前のように軽くはない。どうでもいい相手に赤面するほど血も余っておらぬ」
「は!?私だって軽くないし!献血行けってか!?」
彼女を前にするとつい素が出てしまう素直でない自分を内心恨んでいると、急に机越しに襟元を力尽くで掴まれて彼女に引き寄せられていた。殴られるのかと思いきや、途端に近づいた顔と彼女の声が、私の耳をくすぐる。
「白哉、大好き。キスしよっか?」
「…!?」
パッと掴まれた襟元を離されたかと思えば、彼女は私の硬直した顔を見上げて、腹部を抱えて大笑いしていた。やられた、と思ったがそれよりも喜びが勝っているとは、私も相当な末期である。
「あははは!ほら白哉だって顔赤くなるじゃん!ざまあみろー!献血行けばー?」
「……」
「はははは…、え?ちょ、白哉?」
一瞬で顔に集まった熱と途切れた思考は簡単には元に戻らず、嘘でも聞きたかった彼女の台詞に思わず言葉を失っていた。そんな私の反応を見てか、彼女もまたじわじわと顔を赤らめ出した。私以上に恋愛に疎い彼女である、私への挑発だったとはいえ我に返ってみれば相当恥ずかしいのも納得できる。
「は、ちょっ…何なの私が恥ずかしいじゃんか!?馬鹿!変態!死ね!」
「……」
「ちょっと早くなんとか言ってってば!」
真っ赤になっている彼女に込み上げる愛おしさに、私は臆病な心も忘れて大胆にも彼女を机越しに抱き寄せていた。
「…私にしろ、なまえ」
仕返しにわざと耳元で囁けば、びくりと体を震わせて耳まで赤くした彼女。ああ、私はこんなにも彼女に夢中だというのに諦めるなどできるわけがないのだ。
その愛らしい姿に思わず唇を寄せた時寸前の距離で彼女の赤い顔と並んで視界に入ってきた赤毛がいた。最悪だ、と思うより早く、真っ青な顔の部下は盛大に書類を落として走り去っていった。もう一度言うが、今日という日はなんという厄日なのだろうか。
「い…言うのが遅いのよ馬鹿白哉…」
おずおずと一瞬だけ触れてきた彼女の唇に、その思考すら失った。前言撤回である。まるで幸せすぎる夢を見ているような心地よさが手からすり抜けぬよう思わず彼女をきつく抱きしめた。
この机を挟んだ上司と部下の境界線はもうないのだ。そう思うと柄にもなく口元に笑みが零れる。私はこの日を、良くも悪くも忘れられそうにないだろう。
三月十三日の変
一足早く両片思いホワイトデーネタ!
お二人さん、素敵なホワイトデーを!
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