ボーダーラインの、その先の。



近いからこそ遠く、近いからこそ言えない。たった一言で彼女との世界が壊れてしまうことが恐ろしく、私は嘘に嘘を塗り重ねて本心を隠してばかりいた。失いたくないが為に。今の私には彼女が全てで、彼女がいない世界など考えたくもなかった。

私の手を握りしめたまま、私の床に顔だけ伏している彼女。その静かな寝息を聞きながら、壊れ物に触れるかのようにそっとその髪を撫でた。

「んん…」

彼女から漏れた声に、撫でる手を止めてようやく時間を確認した。面会時間はとうに過ぎているが彼女がこうしているところを見れば、どうやら四番隊なりの気遣いなのだろう。

「なまえ…」

眠る彼女の頬を撫でれば、冷たくなった頬は少し湿り気を含んでいた。私が目覚める少し前に泣き疲れて眠ったのだろう。普段強気で人に弱さを見せない彼女だからこそ、その涙の重みは私の胸を抉った。旅禍に負け、負傷して床に伏せる私の無様な姿を、彼女はどんな気持ちで見つめていたのだろうか。

彼女はずっと私を目標に死神を目指し、私の力になりたいと自ら六番隊を志願してきた隊士だった。私の敗北は、誰よりも私を慕っていた彼女への裏切りに他ならないだろう。

「…朽木、隊長……?」

自己嫌悪に溜息をついた時、彼女が眠そうに瞼を開いた。映りたくない。私の姿を見るなり見開かれた彼女の目に、そう思わずにはいられなかった。

「…済まない、起こしたか」

「え…!隊長…よかった…!」

薄暗い室内で、彼女の頬を止めどなく伝う涙は月に照らされてとても美しかった。肩を震わせて泣く姿に思わず手を伸ばしかけてしまう。

「…私は、もうお前の慕う隊長ではない」

踏み止まれたのは、自分の腕に巻かれた包帯が目に入ったからだ。こんな情けない手で、彼女を触って許されるわけがないのだ。彼女に伝えたいと長年思っていた気持ちが、さらに胸の奥底に沈んでいくのを感じた。

数年前、上司と部下という形で彼女と知り合ったことを何度悔やんだだろう。この関係がこんなにも私を臆病にさせ、彼女との埋まることのない距離を、むしろ大きく広げていく。つまり私は、勝手な思いを伝える事で今のように上司としても彼女の側にいられないことを恐れていた。


「隊長は…」

「……」

「隊長は、私のこと何もわかってませんね」

静かに泣いていた彼女は、潤んだ目で私を真っ直ぐに見ていた。思わず言葉に詰まってただ彼女を見つめ返せば、彼女は私の床に片膝をつき、病衣を掴んでいた。何事かと目を見開くよりも早く、触れたのは彼女の唇。涙に濡れたその唇は私の唇にしょっぱさと冷たさを残し、離れていった。

「これで、私ももう隊長が慕う部下ではないですよね、おあいこです」

強気に言い切った彼女の顔は真っ赤だった。その赤さは、まるで私を違う世界へと手招きする鬼火のようだと思った。あれほど私が縋り付いていた彼女との世界。それが彼女の手によって、呆気なく壊されてしまったのだ。崩れていく世界の音を己の胸から煩いほどに感じながら、私は彼女の顔を引き寄せた。



ボーダーラインの、その先の。


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