迷ったその先に









あ。


倒れる、かも。


そう思った時には既にもう遅かった。視界がぐらりと揺れて、響いていたバスケットボールの弾む音がだんだんと小さくなっていく。ふらり、と体が傾き、踏みなれた床が近付いた。意識が途切れる寸前に遠くから聞こえたのは、驚いたように俺の名前を呼ぶあの人の声。






真っ暗な暗闇の中、青峰は一人ぽつりと立っていた。ぐるりと辺りを見回してみても誰もおらず、そこには「黒」が一面に広がっている。目を凝らしてみると、遥か遠くに小さな光が見えた。だんだんとこちらへ近づいてくる光の中に見える人影に、青峰は目を細めた。



「・・・テツ?」



眩い光の中に、かつての相棒がはっきりと見える。そして隣にはもう一人。水色の彼が拳を合わせるその相手は俺ではなく、彼の新しい光だった。そんな二人を見つめる自分。別に青峰はあの赤髪の場所に戻りたいわけではないし、あそこを離れた事を後悔しているわけでもなかった。だけど、何故だろう。確かに、胸の奥にモヤモヤとした不快感が広がった。そのままぼんやりと見つめていれば、二人を包む光はだんだんとまた小さくなっていく。離れていく二人の元へ近づこうと、青峰は足を一歩踏み出した。その瞬間、ズズズッ…、と足元から重く、強く、再度真っ暗な空間へと身体が引きずりこまれた。



遠ざかる彼ら。


嫌だ、気持ち悪い。


全てが暗闇に飲み込まれそうになる。


誰か、と伸ばした手。


けれど、その手が何かを掴む事はなかった。









目を開けると、見慣れた白い天井が視界に広がった。青峰はのそり、と身体を少しばかり怠さを感じる体を起こしゆっくりと部屋の中を見回した。



「俺の部屋、だよな。」



何故自分は部屋で寝ているのだろうか。今日は授業が終わった後、珍しくサボらず部活に出ていたはずだ。青峰が上手く働かない頭を回転させ記憶を遡っていたその時。ガチャリ、と部屋の扉が開く音が聞こえた。



「若松サン…?」


「お、目ェ覚めたか。」



部屋に入ってきた人物はバスケ部の主将、若松だった。何やら買い物をしてきたらしくコンビニの袋を片手に青峰の寝ているベッドへと歩み寄ってきた。普段眉をよせ不機嫌な表情ばかりを青峰に見せているが、今日はどこか違って穏やかに見えた。



「気分はどうだ?ったく、いきなり倒れやがって。」



若松の言葉に、ようやく青峰は自分が部活中に倒れたことを思い出した。そういえば今日は朝からどこか調子が優れなかったような気がする。勝手に部屋に入られいつもの青峰なら文句を垂れるところだが、自分で思っていたより体力が落ちているようでそんな気にもなれなかった。ぽすん、と枕へ頭を乗せた青峰の額に、ひんやりと冷たい感触がした。




「!?っ、なんだよ、いきなり!」


「あ、悪い。手冷たかったか?」



外から帰ったばかりだからよ、と若松は言ったが、違うのだ。いきなり額に手当てられたことでもちろん驚いた青峰だったが。それだけではない。覗き込む若松の顔が近かったことに妙な焦りを感じた。



「まだ熱下がってないみだいだな。」


「熱、あったんだ。」


「…はぁ。」



青峰にぽんっ、と体温計が投げられた。もちろん青峰のではない。体調なんて滅多に崩さない青峰がそんな物をわざわざ持っているわけがないのだ。



「さっき桜井が部屋から持って来てくれたんだ。おら、もっかい熱計っとけ。」



若松は怪訝そうに渡された体温計を見ていた青峰にそう伝え、先ほど買って来たらしい飲み物やらゼリーを備え付けられた小さな冷蔵庫に詰め込んだ。




ピピピピッ、と体温を知らせる音がなった。



「38度6分か。あんまさっきと変わってねェな。」


「あー…だりィ。」


「熱あんだから当たり前だろうが。…一応食えそうなもん作ってくるから。」



そう言い寮のキッチンへ向かおうとする若松の背中は、部活で見る後ろ姿とは何だか違って見えた。若松が料理をするという意外さに驚きつつも青峰は布団に顔をうずめた。そういえばと、ふと視線をずらし壁に掛けてある時計に目を向けると現在の時刻は20時を指していた。かれこれ数時間は寝ていたことになる。



「なぁ。」



青峰は部屋を出ようとする若松を呼び止めた。



「あ?」


「アンタさ、部屋戻んなくていいの…?つーか今までずっとここに居たわけ?」


「体調悪いお前残して戻れるわけねェだろ。何か食わせねえとだし。…悪化して部活に来れねェってのも困るしな。」



若松はきっと何気なく使ったのであろう「部活」という単語が、青峰には酷く胸にのしかかった。確かに青峰はこの桐皇学園バスケ部のエースであり、チームに欠かせない存在である。未だ毎回の参加ではないにしろ、若松が部活に出る事を望んでいるのはしつこい迎えのおかげでもう分かっていた。主将だから心配している、早く回復してもらいたい。そういうことなのだ。それは首相の立場として当たり前のことだろう。でもなんだか……青峰は内心で自問自答を繰り返す。



「それと、さっきまで桜井と桃井も一緒に看ててくれてたから。明日にでも礼言っとけよ?」


「…ん。」



そう返事をした後、熱のせいか、目を閉じるとすぐに睡魔がやってきた。









まただ。


また、あの夢だ。


真っ暗な世界に一人で青峰は立っている。そしてあの二人が現れて、近づいてきたかと思えば、離れていく。繰り返される夢。足を踏み出そうとしても、真っ黒な闇がどんどん自分を包み込む。下へ、下へと落ちていき、もがく事も手を伸ばす事もできない。いや、しなかったのだ。どう足掻いてもその手は何も掴めないと心のどこかで気付いていた。



だって、いつも自分は独りなのだから。



別に独りが嫌なわけではない、チームメイトなんて頼らない。信じられるのは自分の力だけ。…それでも頭に思い浮かんでしまうのは、いつも真正面から自分にぶつかってくる彼の顔だった。



……そうか。

眩しく笑う二人を見て、胸を渦巻いた不快感の正体に青峰は気が付いた。それは本当に単純なことで、ただ自分をまっすぐ照らしてくれる光が欲しかっただけなのかもしれない。決して今の彼らや、昔の自分達のような関係じゃなくて。周りから一線引くことを選んでしまった自分に、手を伸ばしてくれる人が欲しかった。今まで散々酷いことをしてきた。多分彼のまっすぐな態度に自分の弱い内を見透かされそうで、それが嫌だったのだろう。それでも若松は青峰と向かい合ってくれていた。今までずっと。



だから。


今度はもう、間違えたりはしない。


二度目に伸ばした手は、何かを掴んだような気がした。










「…青峰?」



自分を呼ぶその声により青峰の意識は一気に引き戻された。若松がベッドの脇に置かれた椅子に座り、眉間に皺を寄せ何とも言えないような表情で青峰の様子を伺っている。



「おい、お前…ホントに大丈夫か?」


「あ…え、」



青峰の頬を濡れた感触が伝った。なんで、どうして自分は泣いているのだろう。




「…っ」


「な、なんだよ。嫌な夢でも見たのか?」



嫌な夢、だっただろうか。確かに夢は見ていたような気がするが、決して泣くほど嫌な夢ではなかったような気がした。黙って涙を流し続ける青峰に、目の前にいる若松は普段じゃ考えられないくらいに焦っている。それはそうだろう。暴君とまで呼ばれ、普段自分が怒鳴り散らしている青峰が目の前でぼろぼろ泣いているんだから。



誰かの前で泣くなんて、青峰にとってあり得ない事だった。それなのにどうしてだろう。どんどん溢れ出す涙を早く止めたくて、青峰は身体を起こしごしごしと目元をぬぐった。



「…っ、」


けれど何度ぬぐっても、それが止まる事はなかった。



「おい、あんまし目ェ擦んな。」


「あ、え…?」



若松の腕が青峰の手首を掴んだかと思うと、もう片方の手は彼の頭へと伸びてきた。ぽすんっ、と若松の胸元へと青峰の体が引き寄せられた。手首を掴んでいた手はそこから青峰の背中へと移動し、ゆっくりとさすられた。



「っ、若松…サン、」


「泣きたい時は泣けばいい。…ここに居てやるから。」



その瞬間、ぶわっと溜まっていた何かが青峰の内から込み上げた。正面から今の自分の顔を見られるのは避けたくて、引き寄せられた胸元に顔を埋め、いつも見ていた広い背中におそるおそる手をまわした。



安心、する。



ゆっくりと背中をさする手と、自分を包む温度が心地よくて。しばらくの間、青峰はその場所でで泣き続けた。






…ぎゅるるるるるるる。



大分涙も止まったかと思ったところで、今までの雰囲気をぶち壊すかの如く、青峰の腹の音が盛大に響いた。この数時間寝てばかりで何も口にしていなかった。



「ぷっ…お前、泣いた後は腹が減るって、赤ん坊か?」


「うっせーな、減るもんは減るんだよ。」


「ま、そうだけどよ。…さっき粥作ってきたんだ。食べるか?俺も腹減ったし。」


「ん。」


「ちょっと待ってろ。」



心地よかった体温が、すっ、青峰の元から離れ小さな寂しさが残った。









「ごちそーサマ。」



余程腹が減っていたのか、元々大食いなだけなのか。ものの10分も掛からずに青峰は若松の作った粥を完食した。



「よく食うなお前…熱あんのに。」


「若松サンが食べさせてくれたからじゃん?」


「なっ…それはお前が熱が辛くて一人じゃ食べらんねェとか言うから…!」



それはただの口実だった。本当は自分で食べることが出来たはずの青峰だが、今は何だか食べさせてもらいたい気分だった。人は弱ると甘えたくなると聞くが、どうやらそれは暴君でも当てはまるらしい。今日は互いに普段じゃ絶対にあり得ない言動のオンパレードだ。きっとどれもこれも、全部熱のせいのだろう。



「良いジャン。だって俺病人だし。」


「ったく…」



文句を垂れつつ食器を片づける若松を青峰はぼーっと見つめる。



「なぁ。」


「んだよ、まだ食い足りねェのか?」


「…そうじゃなくて、」


「 ? 」


「あー…」



次に発するべき言葉は喉まで来ていてもう出かかっている。なのに、何故こうもなかなか言えないものなのか。



「わ、」


「わ?」


「・・・悪かった。」



聞こえるか聞こえないか分からないくらいの大きさで、ぽつりと吐いたその言葉は予想以上に自分に重くのしかかった。



「は?何だよ、いきなり。」



当の若松はポカンとした表情を浮かべて青峰を見遣る。全く言葉の意味が分からないといった表情だ。



「だからっ、悪かった。…蹴ったりした事、とか。」


「!あぁ……別に、気にしてねェよ。」


「けど、」


「まぁ。何とも思わなかったって言えば嘘になるけどな。もう良いんだよ。…第一、お前が詫びるなんて思ってなかったしな!」



そう言い満足げな笑みを浮かべた若松は、青峰の頭をまるで小さい子どもにするかのように、ぽんぽんと撫でた。









「あれ、もうこんな時間だったか。」



その言葉で時計に目を向けると時刻は22時近くを指していた。 若松の手が青峰の頭から遠のき、掌から伝わっていた温度が離れていった。青峰はさきほどと同じ、ほんの小さな寂しさを感じた。



「あー、青峰、俺そろそろ部屋に、」


「えっ…」



不意に漏れた声は、青峰自身でも驚くほど弱々しくて情けない声だった。そして同時に部屋のドアへ向かおうとしていた若松に腕を伸ばし、ギュッと服の裾を掴んだ。



「おい、青峰?俺は…」


「…分かってる。アンタも自分のやる事とか、あんだろうし…俺の世話ばっかしてらんねーのも分かってんだけど、」


「・・・。」


「っ、あとちょっとだけ…居てくんねーかな、って…」



馬鹿な事を言ってるのはよく分かっていた。主将だからといって、嫌いな野郎の看病なんて、さっさと終わらせて自室に帰りたいはずなのだ。



「何言ってんだ、お前。」


「…っ」



若松は、深いため息を一つつき、頭をガシガシ掻きながら言った。



「何勘違いしてんのか知らねーけど、俺は部屋に着替え取りに戻ろうとしただけだぞ。」


「へ……き、がえ?」


「おう。ついでにシャワーも浴びてきてェし。それに…元々今日はここに泊まるつもりだったんだよ。」


「え…なんで、」



だって彼はきっと自分の事が嫌いなはずなのに。若松が主将になってからは前より幾分かマシな関係が築けてるとは思っていた。しかし、今日の看病はその主将という立場の責任からきてる行動なだけであって、別に彼個人の感情で動いているわけではないのだと。青峰はそう思っていた。



「なんで…って、そりゃあ熱もまだ下がってねェお前を一人部屋に残しとけねーし。」


「…体調管理が出来てなかったのは俺の責任だし、別にアンタが主将だからってわざわざ、」


「あのなぁ。」



若松は腰を落とし、青峰と目線を合わせた。



「確かに主将だからってのもあるけど、それだけじゃねーぞ。普通にお前が心配だから居てやるっつってんだろうが。」


「…は、」


「ったく。」



思っていたほど嫌われていないと、青峰は自惚れてしまいそうだった。ただ純粋に、主将としてじゃなくて、若松孝輔として自分を見てくれていた事がどうしようもなく嬉しかったのだ。









「なんだ、まだ起きてたのか。」



まだ乾ききってない髪をタオルで拭きながら、若松は青峰の部屋へと戻ってきた。



「寝れねー…。」


「まぁ夕方からずっと布団の中だったもんな。」


「…若松サン、どこで寝んの?」


「あー、まぁ適当に雑魚寝?俺どこでも寝れっから。」


「ふーん…。」


「とりあえず、もう電気消すぞ?」



パチン、とスイッチが押されると部屋は暗闇に包まれた。



「若松サン。」


「なんだ?」



青峰はもぞもぞと布団の中で動くと体制を変え、椅子に座っている若松の方を向いた。



「手、貸して。」


「え?」



視界があまり良くない中、若松は手探りでひょこりと布団から出た青峰の手をまえ握った。そして小さく笑う声が聞こえたかと思うと、ぎゅっと手を軽く握り返された。



「おやすみ。…ゆっくり休んでさっさと治せよ。」


「ん…、おやすみ。」



今日は珍しく怒鳴らない若松の声をたくさん聞いた気がした。髪の毛を梳かれながら、ふわふわとした気持ちでその声に耳を傾ける。明日はちょっと真面目に練習に参加してやろうかな、なんて。そんな青峰の態度に驚く若松の顔を想像しながら、ゆらゆらと、眠りについた。










夢を見た。


ここへ来るのは三度目だったか。


昔の相棒は少し離れた場所で新しい光と共にいた。


そして青峰も、やっと見つけたのだ。


隣を見れば、彼も自分に視線を向けた。



「行くぞ、青峰。」



テツ、次は必ずお前たちに勝つ。


俺が。…いや、あの人の率いる"桐皇学園"が。



「何やってんだ、早く来い!」


「今行くって、…キャプテン。」



二人に背を向け一歩踏み出した足元は、崩れることなく先へと向かって延びていた。







数日後



「何なんだよお前は!背中にのしかかんのやめろって言ってんだろうが!!!」


「あ?疲れたんだよ、おんぶくらい良いじゃん。」


「はぁっ!?たいしてまだ動いてねーだろ!さっさと練習戻れ!!」


「ちょっとだけ、充電ー。」


「はーなーれーろって!!!」



「なぁ、諏佐。なんやワシらが心配せんでも上手くやっとるみたいやな。」


「あぁ、驚いた。」


「青峰の奴、滅茶苦茶懐いとるし。」


「だがあの様子じゃ若松はきっと嫌がらせくらいにしか思ってないんだろうな。」


「…せやな。」




END