「とりあえず座ったら」と促された椅子は、もう何年も私の臀部を支え続けた盟友、いわば戦友にも近い存在であり、今しがた出会った他人に涼しげな表情で勧められるのは、まったくもって何かの間違いである。だから、私は、座らない。彼がここにいる理由も、ここへ手引きした人物も知っている。しかし、許可した憶えがない。むしろ金輪際つきまとってくれるなと難詰し、携帯電話を消し炭のように燃やしてやった。灰は暖炉へ、そして繋がりは無へ。私はいつものように、静かな午後の平和を享受するはずだった。
「この家には紅茶しかないのに、ミルクが切れているのはおかしい。――座らないのか?」
「……すぐに済む話でしょうから」
黒服の男はどうでもよさそうに頷くと、ストレートの紅茶を一口飲んだ。私のマグでだ。ついでに云えばそのソファも、寝室にあるベッドの次に体を横たえている、使い込まれた調度品である。その上で彼は、私の本を手にしている。話しながらも頁を捲るペースは落とさない。私はまだ序章しか読んでいないのに、彼の膝上で開かれたページはずいぶん末尾のほうだ。話の展開が気になるので、あまりそちらへ目をやらないようにする。
「ヒソカから聞いているとは思うが」
「聞いていません」
「電話は」
「数日前に。でも用件を云われる前に切りました。私は彼から仕事を受けないし、受けられないし、受けるつもりもない。だから申し訳ないんですけど帰ってくれません? 今すぐに」
「残念だが、それはできない相談だな」
ちっとも残念ではない口ぶりで淡白にそう云ったあと、彼は足下を顎で示した。つられて目を落とす。こんなものは家にはなかった、古ぼけたラグの上に放り出された無機質な物体。存在は知っている、用途も分かっている。ここで発動させたということは、あのサイコパスもこの場にいたのだろう。恐らく、ほんの数時間前まで――ときどき本気で、どれだけお金を払ってでも誰かに殺しを依頼しようかと考えることがある。相手を喜ばせるだけかもしれないが。
「きみが適任だと奴が云ったんだ」
「……嘘です。私は戦闘タイプではないし、隠匿に適した能力も持ちえない。それにグリーヴァスだかグレングールドだか知りませんけど、ゲームは嫌いです」
男はそこでようやく初めて、視線を上げた。深い色の瞳に一抹の冷たさが宿っていて、それが常状なのか、こちらの物言いが気に障ったのかは判別できない。それでも声色だけは穏やかに、「グリードアイランド」と彼は訂正した。
「出てくるまでここで待つ決まりだから、俺は動くわけにはいかない。勿論なまえ、きみも」
「拒否権は?」
「ないよ」
こうも簡単に否定されると、いっそ清々しいほどだ。仕方がない、殺されるよりは黙認するほうに利があるならば、誰だってそうするだろう。私は降参の意を深いため息で表し、彼はそんな私を見て、少し笑った。雰囲気が和らいでちょっぴり幼く見える。が、やはり瞳には掴みどころのない狂気が宿っていて、妙な顔だな、と思った。いや、どちらかと云えば整っているのだろうが、それと隣り合わせの不気味さがある。
「ずいぶん押しに弱いんだな」
「無駄な抵抗はしません。命は惜しいので」
「へえ、」
やはり、座らずにいて正解だった。私はキッチンへ向かうふりをして距離をとったが、なぜだか彼もまた、やおらソファから立ち上がる。自分よりも高い位置から刺すように観察されて、私は相手に不快を与えない速度で、ゆっくりと後ずさった。
「そのわりには逃げ腰だ」
「……命が惜しいので」
「知ってるか? RPGってのはそんなに早くは終えられない」
「それはあんまり――なんで、近づいてくるんです?」
じりじりと距離を詰めるその男に、今度こそ不穏なものを覚えた。"護衛”を殺すわけがないと信じたいが、紹介者はあの奇人である。類は友を呼ぶと云う。
「特に意味はない。きみはなぜ逃げる?」
片手に読みさしの本を持ったまま、彼がゆっくりと発音する。
「他人の領分を越えた接近を許せるほど、あなたを信用していないからです。何たってヒソカの知り合いだし、私は名前も知らないし、それに、」
「クロロだ。よろしく」
さえぎるように差し出された手に躊躇する私を、彼は軽く眉をひそめて見た。恐る恐る触れた掌には、嫌味かと思うほど力が入っていない。代わりに、皮膚をピリピリと小さな針で刺激されるような心地がする。脈拍も通常より速い。私は焦って、すぐに手を放した。
「それに、あなたは明らかに丸腰の状態でも、私をたやすく殺せそうだし」
「だろうな」
「……ヒソカの知り合いだし」
「ふむ。ほかには?」
強調部分は、あえて聞かぬふりをされたらしい。促す口調や表情から、さしてこちらに関心などなさそうなのに、視線だけは相変わらずセンサーのように鋭く私を照らし続ける。向き合っていると、瞳孔が先ほどよりも、かすかに拡大したのが分かった。彼と自分との間で、ぎりぎりと音をたてて拮抗しているこの張力の正体は、明らかな殺気だ。アルコールやドラッグの匂いはしないから、単に、気が昂っているのだろう。なぜかは知らない。しかし、それを馬鹿正直に問うほど私は命知らずではない。もちろん、命は惜しいのだ。
「ええと――あなたがその――それ。本を」
「本?」
「そうです。その、本を持っているので。私はまだぜんぶ読んでない、買ったばかりだから」
「ああ。これ」
「結末が目に入ってしまったら、つまらないと思いません?」
詰めていた息を絞り出すように、私はつとめて穏やかに、そう告げた。そしてとうとう足を止め、彼へ初めて、ぎこちない笑みを見せる。敵意はない、という意思の表明に。効果のほどなど、この際どうでもよかった。
どちらにせよ、目の前の相手はこちらへ近づくのをやめて、一瞬なにか考え込むような顔をしてから――笑った。それも、音がしそうなほどにっこりと。たった今通りすがった人間にだって、あからさまに嘘だと分かるような笑みだ。そこで殺気がぱったりと消えたのも、さらに輪をかけて不気味だった。
「なるほど。それは云えてる」
彼が片手で本を閉じると、小さな風が前髪を揺らした。ようやく視線が自分からはずされて、私は安堵する。体からどっと力が抜けて、消耗しきっていたことに気がついた。腰が抜けなかったのは幸運だったと思う。何だかわからないが、とにかく、終わった。――いや、こんなのに一体この先いつまで付きまとわれるのだか、まったく冗談ではない。今ほどヒソカの帰りを待ちわびた瞬間は、あとにも先にも訪れないだろう。
「ときに、俺は紅茶にはミルクを入れる人間なんだが」
「え? ああ、さっき聞きましたけど」
「……」
「……。行ってきます」
出会ってものの数分で、家の所有権に関わりなく、ここに主従関係がはっきりと確立した。この有無を云わせぬ傲慢さは、あのサイコ野郎とつき合えるだけの神経の賜物というわけだろう。命はともかく、自分の精神力が保つのかどうか心配だ。
当の黒服の男・クロロは、すでに先ほどと寸分たがわぬ姿勢でソファへ優雅に収まり、残り数ページあまりの本の続きを読みはじめていた。この、並々ならぬ図太さ。しつこいようだが、さすがヒソカの知り合いである。そこへ来ると自動的に自分もそこへカテゴライズされてしまう気がするが、よくよく考えなくとも、あれは知人ではなく加害者だ。どちらも殺せるものなら、とうに殺している。
暗澹たる気持ちで財布をつかみ、抜けかけた腰を叱責してのろのろと玄関へ足を向けると、背後からの声が私を呼び止めた。
「……ミルクのほかに欲しいものでも?」
「いや。大事なことを伝えておこうかと」
「何ですか」
「トトおじさんは息子に刺されて死ぬぞ」
しばらく本は買わない。
団長は、旅団仕様じゃないときには特に、不思議ちゃん度が三割増になりそうな気がする
11.9.24