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「起きがけにフェリシアーノ君がくっついてる方が、まだマシでした」
「……物騒なことを口走るんじゃない」



素直になります(←タイトル)


 眉間に皺を寄せ、ルートヴィッヒはコーヒーを口にした。穏やかな休日の午後には似つかわない鈍重な空気が、テーブル一帯を取り巻いている。

「道を教えていただけだろう。足を痛めて歩きにくいから、一緒に通りを渡ってくれと」

石畳をあんなヒールで歩いていたのだから当然だ、とは思っても口にはしない。ギルベルトは新聞紙で顔を覆いながら、微動だにせず腰掛けていた。少しでも動こうものなら、火の粉が飛んできそうだったからだ。

「それ、ナンパの常套句だって知ってます?」
「困っている人がいれば助けるものだ。頼まれたら断れん」
「おまけに美人でしたしね」
「何だそれは。嫉妬か?」

笑顔のままのなまえが、トルテにフォークを突き立てた。小声で「己惚れんなよこのムッツリが」と呟いた声は、隣席のギルベルトにしか聞こえない。ちなみにそのチェリートルテは彼の注文したものだ。なまえはそれを容赦なく咀嚼し、嚥下し、黙り込む。ルートヴィッヒが溜息を吐く。繰り返しである。
 これは長くなるだろうな面倒だ、帰りたい、帰ってビールが飲みたい。読んでもいない経済新聞でますますその身を隠しながら、ギルベルトは不穏な空気が過ぎるのを、ひたすら待っていた。

 そもそも、この新聞が全ての原因だったのだ。


* * *


「ヴェスト、小銭ねえ?」
「何を買う」
「ハンデルスブラット」
「兄さん読むのやめただろう。しかもかなり前に」
「別にいいだろ、時々は経済動向知りたいの!」
「……わかったわかった。なまえと先に行っててくれ」

ルートヴィッヒは犬のリードを二人に寄越すと、カフェの向かいにある売店に入って行った。

「おまえ何にする?」
「えーと、ハイセ・ショコラーデで」
「俺アイリッシュカフェ。トルテも食うか」
「いいですねえ」

 新しくできたカフェに行こう、と提案したのはなまえだった。休日は大概、公園からビアホールへ行くのがお決まりのコースだが(彼女に云わせればこの兄弟の太陽とビールへの執着は狂気と呼べるほどだ)、たまには杯ではなくティーカップを交わすのも悪くはない。なかなかにメニューの充実した店だ、というのが二人の見解だった。ビーダーマイヤー調の内装も決して古くさくなく、店員も感じがいい。外に繋がれている犬たちにしてみれば、どこでもさして変わりないのだろうけれど。
 入口脇の日陰にいる三匹に目をやれば、散々歩き回って気が済んだのか、極めて大人しく伏せていた。そのまま通りの向こうへ滑らせたギルベルトの視線が、固まった。

「ルートヴィッヒさんは、まさか飲酒はしませんよね? こんな昼間から」
「おいなまえ」
「なんです」
「あれ見てみ」

突き出た指の先の、そのまた窓の向こうには、通りを横断するルートヴィッヒの姿があった。
 何ということはない。
 ただその逞しい腕に、モデルのように小さなお尻の女性がぴったりくっついていることを除いては。

「……なにあのクラウディア・シファーみたいな美女。だれ?」
「俺は何も知らん」

空は苦々しいほど晴れ渡っていた。


* * *


「何をそんなに怒っているのだか……大体、あちらにその気があったかどうかも」
「怒っていませんよ。ただ、お別れのキスにしてはずいぶん親密な印象だったなと」

何やら穏やかではない空気を感じたのか、隣客がおもしろそうに見ている。

「動じもせず牽制もしなかった。ということはつまり、わたしが同じ立場にあっても、あなたは怒らない」
「それで浮気と決めつけるのは短絡的だろう。場合と詳しい状況設定が……」
「じゃあ相手がフランシスさんなら?」
「奴をぶん殴るだろうな」

しれっと答える声の悪気のなさに、空気がますます不穏さを帯びた。ギルベルトは助けを求めるように、店内を見回す。しかし盆を持ったウェイターは、彼の切実な視線もむなしく客の女性とお喋りを始めてしまった。――使えねえ奴!
 なまえはカップを静かに置くと、いよいよ、まっすぐルートヴィッヒを見つめながら云い捨てた。


「ほいほい他人に触らせてんじゃないわよ、このすけべ」


しん、と静まった店内に、ルートヴィッヒの手にしたティーカップから、ぱたぱたとコーヒーが溢れる音だけがする。
 小さな背中が離れていくのを兄弟が呆然と見送るころ、ようやく運ばれてきたなまえのクリームトルテは、ぱったりと横倒しになっていた。

「……結婚に恵まれねえのはどっちだ?」

ギルベルトがぽつりと漏らすと、ようやく我に返った彼の弟は高い天井を仰いで「うるさい」と一言、口にした。


※倒れたケーキをもらうと結婚できないというジンクスがあるんだそうで

 

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