「I'd rather dance with you than talk with you.」
熱にうなされた巨大な胃の中のような舞踏会場に比べると、その温室に面した裏庭は、真夏のさなかとはいえ過ごしやすくなっていた。整えられた薔薇の向こうに、白んだ月が浮かんでいる。厳格な叔母は、自分のこういったふるまい――紳士たちと懇意になれる機会をうっちゃって、のうのうと涼んでいるような――を許しはしないだろう。夜更けの一人歩きなどは言語道断だ。なまえは、ドレスを汚してしまわないように、ベンチにハンカチーフを敷いて座っていたが、それすら伯母の眉を顰めさせる要因になることは必然だった。実際、伯母に云わせれば、そういったものは紳士が差し出す上等な上着であるべきなのだ。
賑やかな舞踏の曲は途切れることもない。ちょうど今はコントルダンスが始まったところで、なまえは遠くに聞こえる軽やかな拍子に合わせて靴先を動かした。もしもあの場所に戻って、紳士たちの気を引こうと色めきたつ従姉妹や、父の不器用なおべっか使い、虎視眈々と得物を狙い合う視線に耐えきれそうものならば、今すぐにでも列に参加したかった。ここへじっと座っていると、汗ばんだ背中が冷えてゆき、そのうち寒さすら感じそうだったからだ。
「舞踏はお嫌いですか」
背後からの声に、なまえは飛び上がらんばかりに驚き、短い悲鳴を上げた。ふり返ると、暗がりから男性が歩み出てくるところだった。動揺したなまえは顔を赤らめて立ち上がり、相手を睨みつけた。あまりにも失礼だ。会場でならばまだしも、こんなふうに女性へ声をかけるだなんて!口を開きかけたとき、その紳士もようやく気がついたのか、宮廷風に脚を折り曲げて挨拶をした。その仕草はずいぶん優雅で礼儀正しく、見るものに彼の身分を印象づけるものだったが、なまえの心は鎮まらなかった。彼女も膝を折ってすばやくおじぎをし、仏頂面のまま「いいえ」と答えた。
「ダンスは得意ですの。音楽も好きですわ」
「ではなぜここへ?」
その相手は、面白そうに小首をかしげた。なまえはただちに立ち去るべきだと頭では分かっていたが、問われたままでは失礼だという律儀さが、彼女を留まらせた。
「……主催の卿は、」
「爵位は持っていない。たしかに名家ではあるが、ただの資産家ですよ」
水を差す言葉にはどこか皮肉めいた、高慢な響きさえあり、それがなまえの反抗心を徐々に突きはじめていた。表情こそ暗さでよく見えないものの、相手は会話を終わらせる気はないようだ。なまえは、丁寧だが冷ややかな早口で続けた。
「失礼。噂をお聞きしたものですから、ご結婚のお相手を……お探しでいらっしゃるとか」
「自分が見初められやしないかって?」
「まさか!ご婦人がたと一緒になって、ばかげた競売大会には参加したくないだけです」
「ああ。心に決まった相手がおありか」
「そうではありません。純粋に、音楽や会話を楽しみたいのです。品定めをされるのではなく。ダンスと恋愛は、お互いの意志が重要なはずでしょう? ご高名で教養も地位もおありの紳士が、年に何千ポンドの収入や財産で、お母さまやおばさま方を半狂乱にさせている状況をどうしたら楽しめるのか存じ上げませんわ」
そこまで捲し立てたところで、なまえは月明かりの元に紳士の姿をほとんど認めていた。いかにも気位の高そうな顔で、身なりも若さに不釣り合いなほど上等だ。恐らく、ホールの持ち主の縁故か何かだろう。そんな人物とお近づきなったと知れば、家族は、特に伯母は豚のように喚いて喜ぶに違いない。しかし正式な紹介もなく、婚約を交わしてもいないのに、こんなふうに裏庭で会話をしている男女とは、決して褒められたものではないのだ。誰かに見られでもしたら、なまえには二度とダンスのお声はかからないだろうし、伯母の乗馬鞭がお尻にくれられることはまず間違いなかった。
紳士は一拍おいてから、「なかなか云う」と肩をすくめた。意地悪めいた態度に反して、瞳の緑色が、濡れた硝子玉のように光っている。
「かくいう私が、ばかな競売大会を催している資産家なわけですが」
なまえの顔が、ざっと青ざめた。
「お気を悪くなされたなら、謝罪申し上げますわ。ミスター、」
「カークランドだ。アーサー・カークランド」
「カークランドさま。主催の方がこのような場所に……」
「なに、嗅ぎ煙草をやりに来ただけです」
「煙草ですって?」
「心に良い作用をもたらしますよ。ダンスと同じでね」
片手でぱちり、と閉められたエナメルの小箱は、彼の瞳と同じ色をしていた。なまえはそれを目の端でとらえながら、この場を立ち去る口実を探そうとした。今さら慇懃さを取り繕っても無駄だが、これ以上少しでも、自分を気の毒な人間にさせないためだった。
「あとでできれば一度、ご一緒できるだろうか。なまえさん?」
皺くちゃになったハンカチーフを握りしめ、なまえは思わず後ずさった。
「……ご存知でしたのね」
「牧師館の娘さんでしょう。昨日の親睦会のあと、あなたの伯母上からさんざっぱら売り込まれました。口が達者なのは紛れもない事実だったし、想像力がたくましすぎるというのも伺った通りだ」
なまえは、頬が熱くなるのを感じた。今度こそ、鎮めてはおけないほどの腹立たしさがこみ上げてきた。勢いよく踵を返したくなるのを何とか踏みとどまり、膝を曲げたおじぎをさっさと済ませると、彼女はほとんど叫び捨てるように云った。
「ミスタ・カークランド。喜んで、ダンスはお受けいたしますわ。ただし、高慢ちきで鼻持ちならないお相手だった場合に、わたくし、その方の足を踏みつけてしまう癖がありますの。それも、とっても強くです!」
彼は一瞬、わざとらしく驚いたように身を引いたが、すぐにニッと紳士らしからぬ笑みを浮かべ、こちらへ向けて手を差し出した。挑戦的な仕草にすら、どこか品がある。
「それは楽しみだ」
澄んだ緑色は、それはそれは面白そうに光っている。なまえは承知してしまった。自分でも不本意のうちに、ダンスを承知した。主催者である彼と広間で向かい合い、見つめ合うとき、彼の手を握るとき、怒りのつのった表情でなければ一体どんな顔をしたらいいのか、彼女の心には考える余地すらなかったのだ。
「今すぐに広間へ?」
「ええ、もちろん!」
差し出された手を取りもせず、つかつかと歩き出したなまえの姿――お世辞にも淑女とは云い難い――その後ろを優雅について行きながら、カークランド氏はいつの間にかこみ上げてくる笑いを、抑えられない自分に気がついた。彼はポケットの中に入れたスナッフボックスに手を触れて、「煙草をやりそびれたな」と呟くと、ダンスの相手を追いかけるために走り出した。
高慢と偏見的イギイギ
11.8.21