「もう会わないほうがいい」
そうね、と大して考えもせずに頷く私を見て、あの人は苦笑した。そうやって眉根をよせると独特の厳つさがほぐれて、うんと親しみやすくなる。彼が「はい」とすでに何品目かわからない皿を差し出し、私はそれを受け取った。トマトと牛肉のキャセロールのような煮込み料理が、もうもうと湯気を立てている。名前はなんといったか、忘れた。熱ごと咀嚼して飲み込んでから一度、彼を見上げて私は云った。「おいしい」
「そりゃよかった」
そうしてまたしばらく、熱に耽る。食事時に口数が減るのは、もはや直しようのない悪癖だ。しかし会話もそっちのけで吟味に集中する私を、彼は咎めたりはせず、それどころか、可愛い、と云った。その言葉が(たとえ世辞だとしても)嬉しかったので大層よろこんで見せたら、以降このように、逢瀬のたび手料理を振る舞ってくれるようになった。手ずから与えられたものが、自らの血となり肉となる。それはそれで何やらセクシーな関係にも思えるが、実際のところは胃袋の欲求が如実である。彼の料理は情熱的だ。心よりも内臓のほうが、愛を感じられると私は思う。
「でも、どうしてなの」
ビベルの肉詰めをナイフで裂きながら、尋ねた。香ばしい肉汁が皿をつたって広がり、香辛料の香りに汗が出てくる。ほんとうは、聞きたくなんかなかったが、引き延ばしても無駄なことだ。いずれはそこへ流れ着く。
「そうさな」
と彼は頷き(今日はあのラク、だとかいう濁ったアルコールは飲んでいない)、あまり冷えていなさそうなビールを呷った。「おまえさんのことは、好いちゃいるんだが」
続く言葉が、どうあっても愉快な類いのものでないことは決定的だ。私は口に運びかけたフォークを止めて、おお、それはいやだ、今日も楽しい気持ちのままに美味しいものを食べていたいのに、どうか意地悪をしないでおねがいです……、と目で訴えかけたが、彼はそれを無視した。
「そろそろ酔狂がすぎやしねえか。この関係が、いつかどこかへ着地できるとは思えんね」
「だったら、浮かんだまんまでいればいいわ」
よそに好きなひとでもできたのかと問うと、彼はまた、眉の下がった微笑を返した。さもおかしそうに、私が再び食べ始めるまで、唇だけで笑ったままこちらを見ていた。煙草に歯を立てると、彼はようやく云った。「そうじゃねえさ」
ならばなぜ、と踏みこまないところも私の数ある悪癖のうちのひとつであり、それゆえに私と彼との間にはたくさんの秘密が(というより、単に知らないことが)ある。彼も多くを尋ねはしない。この”秘密がある”というのが、やはり互いの距離を何となくだがセクシャルなものにしている気がして、愚かな私は悦に入っていた。ひたすらに愚かで、それも、分かってやっている。彼はそんな私を諭すように、けれど優しく云う――どうにも不毛なもんばっかりを、喜んじゃいけねえよ。なまえ。
そのあとは静かに、紫がかったイチジクをナイフでぐいぐい剥いていた。煙草には火をつけず、咥えたままだ。皮が裏返り、果肉が器に落ちる。中身は血脈のように鮮やかだ。たいていは甘く煮詰めてしまうが、私は生のほうが好きだった。手元への視線に気づくと、ナイフを置き、今まさに切り開いた実を掴んだ手が伸びてきた。骨張った指から、甘ったるい匂いがする。
「口開けな」
私は犬のごとく従順に、そうした。落ちないよう角度をつけて、南の匂いがする果実を含む。舌先に指がかすめたので身を引くと、彼は動じずに、また、腕を押しとどめて、唇をゆっくりと指の腹で撫ではじめた。そんなことをされるとは予想していなかったので、私は目を見開いて固まった。果汁で湿った指先は熱く、煙草の残り香でどこか辛くもあり、体がすぐに動くのならば、おもいきり噛んでやりたい衝動に駆られた。彼はまっすぐ射抜くようにこちらを見たまま、なんだか怖い顔をしていた。
そうして怖い顔のまま、こう云った。
「いいか。おれは、あんたの父親じゃない」
びりびり、ばちん、と世界が裂ける。それは実に分かりやすくあっけない、残酷な言葉だった。煙草がひらひらと床へ落ちていった。乗りだされた身にテーブルが軋み、古びた嫌な音を立てる。しかし唇を、頬を這う手はあまりにも慎重でやさしく、私はそれを気遣って動くことができなかった。向けられた憤怒は、ほんの一瞬だった。黒い睫毛に埋まった虎のような目が、悲しげに揺れだすのを、私は見ていた。その切実さは胸をひどく打ったけれども、同時に、がっかりさせもした。(もしかして彼は、自分の放つ言葉の意味を、理解していないのではなかろうか?)
「むざむざ食い殺すわけにゃいかねえ。すこし利口になってくれ」
そう呟いた表情はすぐに柔らかな、しかし翳りのある微笑にとってかわっていた。彼はゆるやかに身を離し、椅子に体を沈めると、また別の煙草を引きだして今度はきちんと着火した。白い煙を吐く横顔には先ほどの虎はおらず、どこにでもいる気のいい男が、その日の終わりに楽しかった過去を思いだすような表情をしていた。そこで私はふと、そもそも、どうして彼が好きだったのだろう、と考えはじめ、それをそのまま口にした。
「どうして私、あなたを好きになったのかしら」
「さあな。親父さんにでも似てたんだろ」
自分で云って面白かったらしく、彼は小さく吹きだして笑った。煙が宙に舞って、だんだんとその姿が霞んでいった。ブーン、と換気扇が唸っている。私は食事を再開し、また不愉快ではない静けさが訪れた。裂けた世界はゆっくりと時間をかけて、修繕されてゆくようだった。もちろん、引き裂いたのは他ならぬ彼だが、縫い合わせたのもまた彼だった。
料理人サディクさん
11.8.1