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ジョニー・マーと幸福論について


 「お兄さんさあ、そろそろ本気を出そうかと思うんだけど」

 白いカップをソーサーに置いて、彼はそのように切りだしたと思う。もとい、一方的に繰り広げていた話題を転換したのだ。そのとき私は「へえ、いいんじゃないですかね」などと適当に相槌を打ちながら、コクトーの小説の挿絵に描かれた小さな文字を解読しようとしていた。ルーフの真下にも関わらず、ちょうどよく日差しが白いページを突き刺し、発光する。サングラスを持ってきたらよかった。お向かいにあるきれいな額を探してみても、そこに黒いレンズが収まっていることはない。ふと、目と目がかち合って微笑まれたので、お行儀よく、私もはにかみ返してみせた。「承諾を得られて何よりです」と、彼はうやうやしく云った。「私なんかに断ったところで、何が変わるわけでもないくせにね」と私。
 本格的に目が痛くなってきたので、射光板との睨めっこはおしまいにして、本を閉じる。鞄にしまう。ソーサーのわきに積み上がった角砂糖のてっぺんのひとつを、冷めきった紅茶に放りこむ。磁器の表面を指の腹でつるりと撫でて、それから、こちらへ身を乗りだしてきたフランシスさんの横っ面を、思いきりぶん殴る。

 最後のは無意識だった。


「脊髄反射、とも云います」
「……にしては元気いっぱいの右ストレートだったわけですけれども……。あ、涙でてきた」
「だってあんまり驚いて」
「健康なのはいいことさ。そんなに嫌われてるとは思ってなかったけど」
「えっ、嫌いなんかじゃないです私、その、好きですよ、フランシスさんのことは」
「メルシー。俺も好きだよ」

唇がきゅっと弧を描く。私のは下のほうへ、彼のは上のほうへ。

「……」
「で」
「で?」
「放してほしいのですが、この手を。今すぐに」
「なんでよ。俺じゃなまえにはお兄さんすぎるの?」
「そんなに云うほど年上じゃ…ってちょっと指絡めないで!キモい!触んなオッサン!」
「ひでえなあ」

ソーサーが音を立てて揺れ、角砂糖タワーが崩壊する。気持ちを落ちつけようと深呼吸をし、私はふたたび建設を試みた。指先がかすかに震えて、うまくいかない。フランシスさんはと云えば、「テンパると容赦がなくなるところも可愛い」とか何とか寒気の走るようなことを呟きながら、肘をついてこちらをじっと見ている。眩しいものを見るような目。やはりサングラスは必要だ。

「あのね、本気っていうのは、いよいよ農業に専念しますよとか、次回のパリコレを仕切るよとか、そういうことでしょ?つまり。エマニュエル・べアールの電話番号をゲットする、でもいいけど」
「お兄さん人妻には手を出さない主義なの」
「……それはごりっぱですこと」

 いよいよ、わけが分からなくなってくる。
 またしても私は見失っているのだが、この人の話は基本的にいつもこうだ。やけに派手で、けれど洗練されていて、突拍子もない方向へ意識をジャンプさせる。私は彼の機知に富んだお話を、今までまじめに聞いたためしがなかった。なぜって、聞いたところで、それは脳味噌の手前に当たって地面にこぼれてしまうからだ。

「そろそろ本気でね、なまえのこと口説こうかと思って」

ほうら、ね。やっぱりこぼれた。

「ねえ。さっきから一体、なんの話なの」
「愛の話でしょうが。俺とおまえの」
「……愛の? なんで?」
「何でって、そりゃ俺がなまえのことを好きだからだろ」

指先で弄ばれていた砂糖はついに砕けて、テーブルの上へぱらぱらと降り注ぐ。このままオーブンで焼いてクリームでも乗せて、おまけにミントでも飾ったら三時のおやつになるかもしれない。フランシスさんならきっと、美味しくて素敵なものを作ってくれるのではないかしら。キッチンでジョークを飛ばしたりして、彼はとても楽しいのだ。
 いつもの彼ならば。

「なんだか、今日のフランシスさんは変だ。だから私は帰ります」
「あれ、飯食っていかないの?一緒に材料買ったのに」

ちらり、わざとらしい視線を隣席に向ける。紙袋から、市場で買った野菜とバゲットが飛び出している。一瞬返答につまった私を見て、フランシスさんはにやにやと、いじわるそうに笑った。

「なんだよ、急に警戒しちゃって。今までホイホイついてきたくせに」
「……だって今までは、そんな変なこと云われてない」
「俺は結構そういう目で見てたけどね」
「なに?」
「出会ったときくらいから」
「うわあ、まさか……。なんで今、それ云うの?」
「だって知ったらおまえ、絶対びびって逃げるもの。仲良くなる前にパーだ。図星だろ」
「もう、何て答えたらいいのか、分からない」
「そんなら口閉じてな。チューしてやる」

 ふたたび接近してきたフランシスさんを今度は殴る気にもなれず、中途半端な声をあげて私は席を立った。椅子ががたんと乱暴にひびき、荷物をつかんで駆けだす私を、カフェじゅうの人が見ていた。カッと登ってきた恥ずかしさで、頬骨がぎりぎり痛む。私は動揺していた。軽い調子だとしても、彼からあんなふうな言葉を受け取ったことはなかったし、あんなふうに背中がぞわぞわするような触れ方をされたのは、初めてだった。
 背中に向かってフランシスさんが「Abientot! mon chou-chou!(またね、カワイコちゃん!)」と大声を投げつけたので、カフェの何人かは笑い声を上げ、去りゆく真っ赤な私を後ろから囃し立てた。


 あのとき、彼は一体どんな顔をしていたのだろう?


 

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