Devil May Hare
寝室の窓から、細く細く引き延ばされた生温い風が侵入する。やけに演技がかった婦人の甲高いソプラノ、1オクターブ下げて重なる主人の耳障りな鼻声が混じり合う恒例の庭先ミュージカル。隣人夫妻よ、植木の水やりくらい黙してせよ。脳内で悪態を吐き吐き、漫然とシーツから這い出すと、自分がかなりひどい格好で寝ていたことになまえは気がついた。道理で寒かったわけだ、とも思う。クローゼットの扉に張られたポスターの中のキャラクターが、「どんなときにもタオルを忘れるな」とごていねいに忠告をくれていた。
そして、なまえはその通りにしたのだった。
* * *
「………………何て格好をしているの」
「おはよう。なかなかいいタオルね、これは」
マシューの左手にある袋から、ぱらぱらと粉が舞い落ちる。なまえはキャベツの葉のように頼りなく腰に巻かれた布地から、血色の悪い素肌が露わになっているのを深刻そうに見ていた。マシューも付随してそちらへ目を向たが、我に返り、とても見るべきではなかったと思った。そして彼は努めて冷静に、「あのさ」と告げた。
「一緒に暮らすなら服くらいちゃんと着て。そういうのほんと、コメントに困る」
「仕方ないでしょ、あんたの服は合わないし……あらいい匂い。朝食なあに?」
「うわ、ちょっと頼むから窓辺に立たないで!なまえ!」
慌てて彼女の手を引くと、自発的に動く気はまったくない肉体は素直に慣性の法則に従った。昨夜はどこのバーにいたのだか、四方にはねる巻き毛に染みついた外国産タバコの匂いが鼻先をくすぐって、それはとても彼を苛つかせた。なまえの脚。よれよれのTシャツの、袖口からは彼女特有の長い腕が伸びて、自らの体に当たっているのが目に入ると背筋がぞわりとした。一体、何の悪巧みだ?もしも神が存在するのなら、こんな苦行を強いたりするもんか。
それなのに、とマシューは思う。
なまえは、竜巻を起こして暴れ回るタズマニアンデビルそのものだった。彼女の全てが自分を困らせるためにのみ機能し、彼を陥れるためにのみ地球にのさばっているとしかマシューには思えなかった。彼女と同じ地面の上に足をつけている以上、平穏な日常は約束されない。今までに彼女のせいで何度、枕を涙で濡らしたことだろうかと回想する。
「やーねえ、照れちゃってさ。昔はほら、よく一緒にお風呂に入ったりしたじゃない?」
「照れてるわけじゃないんだってば!」
体を突き放そうと顔を上げると、彼は再び、とてもそうすべきではなかったと強く後悔することになる。ガラスの向こう、鮮やかなガーデニングエプロンを身に纏った婦人が、真っ赤な唇の端を持ち上げた笑顔を凍結させているのが見えた。麦わら帽子をかぶったご主人は、彼女の背後から、水の滴るホースを片手に手を振っている。ひらひらと揺れていたそれがぎゅっと握り込まれた。
サムズアップ。
「………………ち、ちがうよ誤解です!!グッジョブサイン出さないで!!」
「ははは、朝からお盛んだと思われたー」
「姉さんはデリカシーがなさすぎるんだよおお!!!」
調子づいて首に回されそうになった腕を慌てて振りほどくも、夫婦はにこやかに視界からフェードアウトした。頭を抱え込む彼をつまらなそうに一瞥したなまえは、ちょっと肩をすくめただけでキッチンの方へふらふら歩いて行く。何だって日曜の朝っぱらから、半裸でウロウロする姉など見なくてはならないのか。分かるようで、マシューには分からない。
歩くたびに見えてしまいそうな忌々しい脚がキッチンへ引っ込むのを睨みつけながら、哀れ弟は前途多難な自らの人生に悪態を吐くのだ――Goddammit.
ママと、それから神様の人でなし。
次回は更にアルまで越してきて、いよいよマシューが本格ストライキに入ります(嘘予告)
10.05.08