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 「びっ……くりさせないで下さいよ、なんで黙って立ってるんですか」

 うとうとしかけていた頭を持ち上げると、大きな体躯が闇の中に、ぼうっと立っていた。ソファから見上げた時計は日付をまたごうとしている。彼はたった今こちらに気づいたように「ああ」と声を出した。そしてそれきり、またピクリとも動かなくなった。
 私はさすがに焦った。
 何があっても夕飯までには必ず帰るし、仕事が忙しくても疲れた顔は見せない。そういう、まさに旦那の鑑ですねと褒め称えられるほど立派なキャリアを築いている人(※ちなみに旦那ではない)が、めずらしく「今日は遅くなる」と電話をよこしたのだ。かわいいピーター君はすでに寝てしまっていたので、広い家はとても静かだった。
 うたたねをする前に畳んでいたシーツが、膝から滑り落ちてゆく。

「お、おおかえりなさいお夕飯は、食べました?」

「えっと、まだですか?」

「食欲ないんですか」

「……ないんですね」

やはりこの人ターミネーターだったのかしら、ついにバッテリーが切れたのかしら。鞄を取り上げようが、上着から腕を抜こうが、顔の前で手を振るおうが、眼鏡を奪おうが、四肢に全く力が入っていない。なんとかソファに座らせたまではいいが、その先は本当にどうしようもなかった。
 返事をするだけの余力すら残されていない、フリーズ中の雇い主をおいて帰るわけにはいかない。かと云え寝室まで運ぶことも私には無理だ。このままここで硬直されても困るのに、ああもういやだ、逃げたい。ここから走って逃げてしまいたい。私は恐る恐る彼を覗き込む。

 顔が、すごく、こわいです。

「あのう……せめてシャワーだけでも、浴びて寝た方が」

ここで叫び出さなかった私は、実に賢明だったと思う。


 引き寄せられたのに気づいたのは、大きな両の手がしっかりと服の背をつかんでいることを確認してからだった。ソファに座る彼の頭が、ちょうど私のお腹のあたりにぎゅっと押しあてられている。
 深く深く、息を、吐く。その呼吸を、腹部で感じる。
 唐突に、驚きと含羞とが私の両の耳を支配した。えええちょっとちょっとまじですかこれうわああどうしよう。そうは思うが声が出ない。ちょっとしたパニックに陥りながらも「いま取り乱してはいけないわなまえ、大声を出したら二階のピーター君が起きてしまう」と頭は妙に冷静に働いていた。まさに染みついたお仕事根性である。
 腰に回った腕にさらに力がこもった。

「ほぎゃあ!ななな、ななんでしょうここにおりますけど!」
「眠らんねぐで」
「…………は?」

 眠れない。
 何やらむにゃむにゃとよく聞き取れないが、云っていることはよくわかった。疲労で神経が昂ってしまっているのだ、眠れないからすがりつく。ああそうかと合点がいくのと同時に、私は、自分の顔が現金にもみるみる綻ぶのを感じた。この大きな雇い主が初めて見せる姿、大人しくすがりついてくるその姿がまるで、眠る前に甘える子供のように思えて。普段あれだけごつい威圧感を出している人に、消え入りそうな声でそんなことを云われてしまったので。
 私はゆっくりと手を彼の後頭部に回し、柔らかな髪をそっと撫でながら「どうぞ」と云った。

「どうぞ、甘えてください。眠れるまで帰りませんから」

彼はほんの少し頭を起こして、意外そうな目で私を見上げた。眼鏡がないのに、今はそれほど視線がきつくない。ちょっと物怖じしてしまうくらいきれいな顔をしているが、眉根の下がった今の表情はどこか幼くすら見える。元来、この人はとても穏やかで優しい顔をしているのだと思う。たぶん。きっと。なんとなくだけど。

「あとでグリューワインでも作りますね。少し何かお腹に入れた方が、よく眠れますし」
「……すまねぇない」
「いいんですいいんです。仕事だなんて、思ってません」

おつかれさまでした。ピーター君にしてやるように、ぽんぽん、と背中をやさしく叩く。ただし彼は立派な大人の男性だし、子供のような甘い柔らかな香りの代わりに、シャツからほんの少しだけ汗と煙草の匂いがした。
 時計の秒針が、深々と進む音だけがする。
 今はまだ、この愛しさは母性であると信じよう。それでもすがりつくその両手は愛おしく、腹部に伝わる体温が温かい。私は高まり出した動悸を上手に闇に溶かしながら、去年のクリスマスの残りの赤ワインをどこへしまったか、考えを巡らせた。



 

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