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"Happiness is not easy."


 階段を下りると、ものすごい速さでiPhoneを操作していた彼が顔を上げた。ただ欄干にだらしなくもたれているだけなのに、妙に格好がついている。それもそのはずで、アルフレッド・F・ジョーンズは当高校に君臨する、純然たるジョックなのだ。小さなお尻で廊下を練り歩く女子の甘い視線、すれちがう男子からの憧憬と悋気を含んだ挨拶を、彼は太陽の光よりも当然に浴び続けて生きている。でも本当は、彼の周りに自然と群がる連中のほうが、選ばれた人間から溢れるエネルギーのおこぼれをあずかろうとしているんじゃないかと私は思う。

「ヘイ。ずいぶん待ったぞ、ベイビー・ブルー」
「ちょっと用があったから……ベイビー・ブルーって何?」
「きみって普段、あんまりそういう格好しないよね」

目で示された水色のスカートは、先週モールで買ったばかりだった。アルフレッドは「似合うよ」とむかつくほど爽やかな顔で笑った。私はそれを無視して、歪んだフェンスのゲートが絶望するくらいの距離に思える駐車場へ足を向けた。ただ隣に立つだけで「ちょっと、それ何かの間違いじゃないの?」って顔をされるのに、これじゃ地雷原を丸裸で歩くも同然だ。

「入口で待たないで。じろじろ見られてる」
「見られなきゃ意味ないよ。何なら今ここでキスしたっていいけど?」
「バカ云わないで。そんなの、ぜったいに無理」

咄嗟に反応ができなかったのは、歴史の課題である分厚い本で両手がふさがっていたせいだ。彼の好きなジューシー・フルーツ味のガムの香りがしたかと思うと、唇同士が当たった。それこそ、何かの間違いみたいに、ごく軽く。もう次の瞬間には、女子の悲鳴にも似た非難の声が聞こえていた。

「ほら、無理じゃなかった」

得意げな彼に対する怒りよりも先に、目に入ってきたものの衝撃に耐えなければならなかった。アルフレッドの肩越しの人垣に、ひときわ大きな体躯が見えた。――かっと、頬へ電流が走ったように熱くなる。頭の中は急激に冷えて真っ白だった。最低で最悪。へらへらしているアルフレッドを咄嗟に押しのけると、私は歩き出した。うまく地面を踏むことができず、小走りになる。

「待ってよ、何とつぜん怒ってんの?」
「あなたこそ何してるわけ?」
「できるって証明したのさ」
「できないとは云ってない、やめてって云ったの!」

食いしばった歯の間から漏れたそれは、ほとんど叫び声に近かった。憎らしいことに彼はすぐに追いつき、私の顔を覗き込んで、はっと息を飲んだ。そうしてすぐに腕と鞄とをすくいあげるように奪ったかと思うと、駐車場を横切って、偉そうに停まっていたボルボの助手席に私を押し込んだ。「ずいぶん質素な車」だなんて皮肉を云う気も、その余裕もなかった。彼は黙ったまま冷房を最強にして、オーディオのスイッチを入れた。

『ふざけんな、金返せこのビッチ!』

ひどい内容でやたらとポップな歌が、大音量で車内に響いた。「ごめん」と慌てて音を下げる。身を乗りだした拍子にこちらを見て、彼はあらためてぎょっとした顔をした。

「さっきは考えなしで悪かった。謝るよ」

そうしてオーディオを、ラジオに切りかえた。

「べつに、必要ない。もうどうでもいいし」
「え?」
「聞こえなかった?どうでもいいって。どうせ私は生まれつき不幸のドツボにはまる運命だって知ってる、遅かれ早かれ、中世の魔女みたいに迫害されて火炙りになるんだから。両親は菜食主義の無神論者だし、だから変なミドルネームで、車のライセンスも持ってなくて、コンピュータオタクしか友達がいないし、炭水化物も食べてるし、チア部の女の子みたいにお尻も小さくなくて、それに、」
「ストップ、ちょっと待って。よく分かんないんだけど」

アルフレッドが、ダッシュボードを開けてクリネックスを差しだした。勢いよく3枚ほど抜き取ると、ちょっと驚いたように身を引いたが、気にせず思いっきり鼻をかんだ。

「私だって分かんないわよ」

クリネックスをぐしゃぐしゃに丸めて、ぎゅっと握りしめる。

「でもこれは絶対に、スクールカースト制度に反してる」

アルフレッドは私をじっと見て黙っていたが、ハンドルにもたれかかって、小さく息を吐いた。ふん、と鼻の奥から音がしたが、嘲笑したわけではないと思う。彼はラジオのボリュームをぎりぎり聴こえるか聴こえないかくらいまで下げて、「あのさ」と云った。

「俺ときみがつき合ってるのは、そりゃまあ、事情が事情なわけだけど……何であれ、今はきみが俺のガールフレンドだろ。周りの連中が何を云おうとそれは事実なんだから、火炙りになんかさせないし、他の女の子は関係ないよ」

そうして、ちらりと横目でこちらを見た。

「それに、俺はきみのお尻も好きだ」
「ふざけないで」
「ふざけてない。まじめに、きみのお尻はセクシーだと思う」

真顔の宣言がばかばかしくて、気が抜けた。小さく笑みを漏らした私を、アルフレッドが安心したような表情で見つめる。澄んだ目の色が、車内に差す光を反射して、絵画のように綺麗だった。下品な台詞を吐いただけなのに。美しい顔は得である。

「きみが怒ったのは、ヴァイキングに見られたせいだと思った」
「……"オキセンスシェルナ先生"」
「ねえ、彼のことマジで好きなの?」

珍しく空気を読んだのか、やや控えめな声のアルフレッドを、じろりと睨みつける。

「だったら何。悪い?」
「悪くはないけど、不毛だよ。教師と生徒なんて」
「知ってる」
「彼、ゲイだって噂だし」
「それも知ってるけど……」

また鼻の奥がツンと痛んで、クリネックスを勢いよく取った。擦ったせいで目が腫れぼったいし、頭痛がする。片手でこめかみを揉んでいると、急に運転席側から伸びてきた腕が、助手席のシートベルトを締めた。びくりと体を縮めてしまったが、アルフレッドはあっさりと手を離して云った。

「なまえ、アイス食べよう」
「は?」
「限定フレーバーが出たんだ。今週までだから急がないと」

ひとりうなずくと彼はアクセルを踏んだ。校舎と歩道の境目で、ぐわん、と車が揺れて舌を噛みそうになる。犬の散歩中だった校長の奥さんが、鬼のような形相でこちらを見たが、アルフレッドは意にも介さないようだった。

「……今、植木をいくつか倒した?」
「あとで謝っておくさ。校長とは友達だから大丈夫」

車はただひたすらにバスキン・ロビンスを目指し、田舎町をぐいぐい進んで行く。乱暴に横揺れする助手席にしがみつくのに必死で、涙は引っ込んでいた。歴史の課題とクリネックスを握りしめながら、ようやくのことで「大人しく陸軍士官学校に入れば?」と呟くと、アルフレッドはどこか楽しそうな横顔で「勘弁してくれよ!」と叫んだ。そうして、カラフルな看板の店舗に向けて思い切りハンドルを切った。



いつぞやの高校パロの続きでした
15.11.28

 

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