第一印象は最悪だった。出会ったその日にひどい喧嘩をした。お互いを紹介されたとき、ふたりともすでに酔っていて、とにかく売り言葉に買い言葉――はたからは楽しげな会話に見えてその実、中身はお互いを侮辱し合うありさまだった。なまえに云わせれば、ギルベルトは他人のプライドを一突きにするような欠点をあげつらう観察眼に長けており、幼稚な口調で論理的に相手をねじふせる天才だ。要するに、底なしに失礼な人間だったのである。どう転んでも好まざる人物であることが確定したので、なまえはそれ以降、ギルベルトには接触しないようにとテキーラのボトルに描かれた髭の紳士に固く誓った。誓わなくたって、もう二度と会うことはないはずだった。
予想を裏切り、次に彼と会ったのは巨大な書店の中だった。先に気がついたのはなまえのほうで、「まずい」と回れ右をしたのに、ギルベルトは目ざとくギリシア料理本の棚の隅からなまえを見つけ出した。そうしてスパイスをきかせた挨拶とともに、ものの見事にこちらの本の好みを云い当ててみせ、神経を逆撫でするような感想を述べた。負けじと彼の抱える本の趣味に物申してやろうと意気込んだが、見えた背表紙は高尚な古典文学や哲学書の類いであった。いかにもインテリぶった嫌味な奴である。立ち居振る舞いは野蛮なのに、詐欺である。なまえはギルベルトをますます嫌いになった。
公園をぶらついているとき、なまえは何度もばったりギルベルトに出くわした。さほど小さくもない街中の、さほど目立たぬ場所で、それも人気の少ない早朝にである。なまえは習慣となっている散歩を楽しむ時間を邪魔されぬよう、「ここが好きでよくこの時間に歩く」と釘を刺したのだ。彼とて同じ思いはしたくなかろう、そう思ってわざわざ告げたのに、どういうわけか二度、三度とギルベルトは現れた。あるときは脇の小道から飛び出してきて驚かせ、あるときはベンチにで鳥に餌をやりながら通行の邪魔をし、またあるときは脈絡のないことをべらべらと質問して急いでいるなまえを足止めした。
なまえは困惑した。
どうしてギルベルトは自分に絡むのか。確かに初対面では自分も派手な応酬をかましたが、ここまで憎まれているとは予想しなかった。憎悪とは計り知れないものなのだ。彼は一度嫌った相手を徹底的に弱らせるタイプなのだろう。趣味の悪い変態である。しかし、共通の友人は皆「あいつはいい奴だ」などと口を揃えて云うのだ。少々変わっているが、誰にでも気さくに振る舞う健全な人間だと。それが事実なら、ギルベルトがなまえに対してのみああいった――こちらが気に障って仕方ない人間だと思わせるような――態度を取るのは、きっとなまえが前世で彼の両親と恋人を殺して遺体をバラバラにし、ライン川に捨てたのが原因に違いあるまい。しかし、そんなものは現世のなまえの因果ではないのだ。そう考えると悲しくなった。あまりに不毛すぎる。
偶然の出会いにもそろそろノイローゼを引き起こしそうな時分、なまえはいつものやりとりの最中にはっきり自覚した。もう疲れた。これが苦行だと云うのなら、断念すべきだと自信の限界に気がついたのである。このような争いに勝っても意味がない。
舞台は例のごとく、友人宅で催された誕生パーティだった。すっかり夜も更け、いい具合の酔いを醒ましに庭先で涼んでいたら、ベランダをひょいと超えてギルベルトが現れたのだった。例に漏れず彼も招待されていたらしい。そうして恒例のイベントが開始されたわけだが、今日のなまえはほぼ上の空だった。なまえが生返事の合間に心の内を呟いたとき、ギルベルトはなまえの普段の生活態度があまりにもぼんやりしすぎている、ナニーが必要だろうなどと高説をたれるのに夢中でいたので、なまえは声をいささか張り上げてもう一度、「もう分かった」と云った。
「私は、もう十分に、ダメージを受けました。ご満足?」
ギルベルトはきょとんとした顔をした。「なんだよ、その満足ってのは」と訝しげに眉を寄せる。なまえは続けた。
「私を苦しめて、あなたはさぞ愉快なんでしょうけど、あいにくとこちらは全然楽しくない。そういう趣味はないから。だからこれ以上、話したくないの。ごめんなさいね」
「つまり俺が、おまえを苛めて楽しんでると?」
「だって、あなたは会うたびに気に障る言葉で、あからさまに私を苛つかせるじゃないの。私を不機嫌にする義務があるみたいに。だけどそんなのは、何も意味がないでしょう。だからもう十分」
これで終わった、という微かな興奮が表に出るのを抑えて、なまえは彼に背を向けた。数歩も歩かぬうちに背後から焦ったような音が聞こえたので、振り向かないままに「ついてこないで」となまえは云った。
「もう話は終わりました」
「おい、誤解すんな。べつに害意なんか抱いちゃいねえよ。そう見えるってんなら、そりゃおまえのせいじゃねえのか?」
むっとして、思わず振り返る。自分が何をしたというのか。感情にまかせてそう問うと、ギルベルトはこちらが会話に乗ったことに気をよくしたのか、しかしどこか拗ねたような調子で「さあな」と云った。
「それが分かりゃ助かる。いったい何をしたんだか」
今度はなまえがきょとんとする番だった。ギルベルトは鼻でフンと笑った。
「まったく分かりませんって顔だ。自覚もねえとはな、予想はしてたけど」
「なに云ってるかぜんぜん分からない。酔ってるの?」
「いいや」
ギルベルトはポケットに両手を突っ込んで、はっきりと「今日は飲んでない」と云った。珍しいこともあるものだが、そもそも素面だろうとそうでなかろうと彼の暴言をこれ以上聞くつもりはない。どういう理由で被害者ぶっているのか知らないし、知りたくもないが、重要なのはこの無意味な争いを止めることだ。もう現時点で互いの要求は満たしたはず、云わば双方の利益をふまえた協定である。
「これからは、なるべくあなたの目に入らないよう努力する。私の存在が不快なのは分かるけど、見かけても放っておいて。もう近寄らないほうがお互いのためだと思うし」
ギルベルトは苦虫を噛み潰したような、まさに忌々しいものを見る目でなまえを見ていたが、やがて腰掛けていた欄干から足を下ろすと、一歩こちらに近づいた。
「悪いがそりゃ無理だ」
「どうして」
ガラス越しのリビングから、テレビの音と笑い声がする。何かが割れるような音がした瞬間、なまえは踵を返した。彼の履く固いブーツの底が、地面を踏むのが見えたからだ。本能的に距離を取るべきだと判断したのだが、ギルベルトの反射神経のほうが優れていた。彼はなまえの腕をとっさに掴んだ。
「ちょっと待てって!危害を加えようってんじゃねえから」
なまえは叫びだしはしなかったが、自分の心臓がどんどんと脈打っているのが服の上から分かる程度には恐怖を感じていた。ギルベルトは掴んだままのなまえの腕を一瞥してから、言葉を失っているなまえを見下ろして心外そうに「そんな露骨に怯えなくても」と云った。
「いや、まあ、無理もないのか。この場合」
「手を離して」
「逃げないって約束するなら。話が終わるまででいい」
うなずくとほぼ同時に手が離されて、なまえは心底ほっとした。悟られない程度に距離を取るために後ろに重心をかけると、ギルベルトが思い出したように「どのみち逃げても捕まえるけどな」と不穏なことを呟いたので、なまえは今度こそ思い切り後ずさった。
「違う!だから何もしねえって!ほら、俺の手はこうして、ここに突っ込んでおくからな。これで大丈夫。もうちょい離れろってんならそうするけど……」
必死に下手に出るギルベルトが、不気味で仕方がない。リビングの窓を見る。誰もこちらには気がついていない。大声を出しても、音楽か何かでかき消されてしまうだろう。なまえはいつでも逃げだせるように構えながら、表向きはきわめて冷静に「話ってなに」と問うた。
「あのさ、俺」
彼はやけに神妙に、たっぷりと間を空けて話した。
「俺は、おまえに嫌がらせしたいわけじゃない。そりゃ確かに、おまえの目には俺がある種の、いけすかねえ人間として映ってるんだろうとは思ってたけど。一度でも俺がそう云ったか?」
態度が物語っていたのである。なまえが黙っていると、ギルベルトは独白のように何度も「つまり、だから」だとか「こんなはずじゃ」だとか「クソ」だとかを呟きながら、急に頭を掻きむしってその場にしゃがみこんだ。そうして地面に顔を俯けたままで諦めたように「もういい、要点だけ云うから」と勝手に宣言し、本当に吐いて捨てるような調子で「俺、おまえのこと好き」と云った。
あなたのことが好きです、と、そう云った。
「は?」
「だから、好きなんだって」
「待って。ぜんぜん意味が、分からない」
「何がだよ。これ以上ないほど明確だろが」
すでに彼は顔を上げていて、開き直ったようにふてくされた態度で話し始めた。
「エリザベータのとこで喧嘩したあの晩から、おまえの現れそうな場所聞き出して、片っ端から出向いてた。まぜっ返そうとしたわけじゃないぜ。もう一回会って、話がしたかっただけだ」
「おまえはめちゃくちゃ怒ってたけど」と付け加えたギルベルトは、ほんの少し笑った。普段見せる、なまえをせせら笑う表情とほぼ同じものなのに、どういうわけだか情のある苦笑に見える。朴念仁のごとく黙ったままのなまえを見上げて、ギルベルトは言い訳のように声を上げた。
「どうしていいか分からなかったんだよ。間抜けに聞こえるだろ。あんま得意じゃねえんだ、こういうの。笑いたきゃ笑え」
「だって、あれは、今まであんな……」
「飲まなきゃ話せねえと思って、会うときは俺、大体べろんべろんに泥酔してたし。完全に舞い上がってて、誤解を取り除く余裕もなかったんだから」
なまえの頭はここへきてようやく動き始め、彼の一連の行動を振り返らんとした。たしかに偶然にしてはよく出会ったものだ、嫌いなら無視をすればよいのに接触してきたのは毎回決まって向こうからだった。――彼は自分のことが好きである、もしそれが真実だとすれば、こんな滑稽な話があるだろうか。もはや得意不得意の次元ではない。真実にせよ虚偽にせよ、たちが悪すぎる。合点などいくはずもない。
「笑えないけど、ふざけてるの?」
「ふざけちゃいねえけど」
ギルベルトはほんの少し怒気のこもった口調で云った。
「人が真剣に話してんのに、感想はそれだけかよ?」
「あなたが何を考えてるのか分からなくて」
「近寄って、何でもいいから話がしたかった。ずっと、触りたかった。今もそうだ」
ざあ、と背筋を走ったものが、熱いのか冷たいのかも分からなかった。恐怖に限りなく近いがそうではない感情が、なまえの頭をふたたび完全に混乱させていた。相手は選択肢を提示してくれるほど親切ではない。当たり前だ。
「どうしろって云うの?」
思ったよりも絶望的な声が出た。
「どうもしなくていいよ。おまえ、まだ状況理解できてねえもんな」
「馬鹿にしないで。らしくなさすぎて信用できないだけ」
「云っておくけどな、俺だって、絶対に望みなしだと分かってたから、一生黙ってるつもりだったんだからな。でもおまえが、もう姿を現さんぞとか脅すから……」
「なんでもかんでも、私のせいにしないで!そういうのやめてよ。そんなの、ずっと黙っててくれたらよかったのに」
「もう遅い」と、ギルベルトも絶望したようなやさしい声で云った。
「口に出したら悪化した」
ギルベルトの着ているパーカーのポケットの中で、携帯電話が振動している。中にいる誰かが、彼が長い時間いないことに気がついたのだろう。なまえとてパーティの大半を庭で過ごす趣味はない。しかし彼は呆けたように突っ立ったまま、電話に出ようとしなかった。
「電話、鳴ってるけど」
「いいよ。大事な用だったらまたかけてくる」
「出たほうが」
「まだ話が終わってねえ」
「終わったわよ」
「おまえが分からなきゃ意味がねえだろ」
「はじめから意味なんかない」
「あるね」
「はやく出て」
「いやだ」
「いいから出て!」
思い切り怒鳴りつけてやると、ギルベルトははっと目を見開いた。それから渋々、ポケットに手を突っ込んで、振動し続ける携帯電話を取り出した。ディスプレイの相手を確認して、ため息を吐いている。
「出るよ、今出るから。おまえ逃げんなよ」
「見てるからな」と云わんばかりになまえに向かって指を突きつけると、ギルベルトはもう一度大きく嘆息してから電話に出た。
「なんだよ。悪いけどな、兄さんは今ものすごく重要な……」
相手が体を横へ向けた刹那、なまえは脱兎のように駆けだした。背後で「おい!」だとか「嘘つき!」だとか叫ぶ言葉が聞こえたが、なまえは彼の命じたことに対して肯定を示していないのだから、嘘はついていない。リビングに置きっぱなしの荷物や上着など、今ここが、走り去らなければならない局面だということは確実だと、回らない頭でもそれだけは分かった。どうしよう、これからどうなるのだろう、という不安がどっと堰を切ったように流れ込んできて、泣き出しそうに切なかった。闘争か逃走か、なまえの体内ではこんなことは今すぐに止めろという信号が激しく点滅しているように感じられた。あれは信号機のアンペルマンか。いいや、もう意味など知るものか。そんなものはどこにも、ありはしないのだ。
今世紀の名盤のタイトルを借りました。頷ける。
13.12.22