振動する電話にJa, Hallo?と応えると、開口一番。
『今どこにいる』
名乗る余裕もないというよりは、ただの事務的な響きだ。なまえのブーツが芝生を蹴り上げる。
「ご心配なく。単なる気分転換なので」
『何を拗ねているんだ』
「拗ねてない」
『ならば、なぜ出て行った?』
”尋問”に対し、こちらも律儀に応えなければいいのだが、身に染みついた習慣とは容易に拭えるものではない。そんな自分がまた腹立たしく、なまえは顔をしかめた。
「当ててみたら? しばらく帰る予定もないですし」
『……脅迫か。それは』
「まあそうですね」
受話器の向こうで、小さく息を吐く音がする。
『では、俺はどうすればいい』
知らねえよそんなの。
口をついて出そうになった言葉を、なまえは奥歯を噛んで押しとどめた。散歩中の老人が引きつった顔でこちらを見ているのに気づき、慌てて歪んだ表情を消し去り、笑みを作る。
「答えが出たらお電話を。お葉書でも結構」
そうして、文句を挟まれる前に切ってやった。ポケットへ放りこみかけたが、思い直してメールを一通だけ送信し、携帯電話の電源を切る。こうなっては、彼に残された選択肢はひとつだろう。
とりあえずは、あそこの露店で温かいものでも買ってベンチに腰掛けて、ゆっくりと郵便屋を待つことにしようとなまえは決めた。
* * *
ホットチョコレートでざらついた唇を舐めて紙コップを放ると、まるであらかじめ手順が決まっていたかのように、前の通りに白のベンツが止まった。コップはゴミ箱のふちに当たって、地面に落ちていた。
なまえは内心、パニックを起こしかけるほど驚いたが、逃げることなく、じっと待っていた。散々煽ったくせ、面と向かうと気弱になるくらいの威圧感が、遠目で見ただけでも十分に分かったからだ。――いいや、もう知るものか。何かされたら大声で警察を呼んでやる。
「こんなもの、一体どこで覚えてくるんだ?」
当人は大股で近付いてくるなり、携帯電話をこちらへ突きつけて問うた。メール画面には、『Perverser Mensch!』という文字が誇らし気に光っている。なまえはうっかり笑い出しそうになったが、顔を反らして黙りこむことで、感情をやりすごした。それは、すでに意地だった。
やがて諦めたような嘆息と共に、ベンチの隣が大きく軋んだ。
「寒くないのか」
「……あなたってもしや、質問ホリック?」
「質問に質問で返すんじゃない」
「まあ、すこしは」
なまえが薄手のニットから首をすくめる。ルートヴィッヒはごく自然な動作で上着から腕を抜くと、それを彼女へ寄越した。かすかに石鹸と整髪料と、あの家の匂いが香る。
「だったらお前も何か聞けばいい。いくつでも答えるから」
そこでようやく目があって、不機嫌というよりは、単に疲れた表情をしていることに気がついた。きっちりと撫でつけられていた前髪は少し乱れて、夕暮れに淀んだベイビーブルーの瞳が、なまえの膝上に乗ったままの上着へと落ちている。
先ほど美女にキスを受けていた白い頬は、寒さのためか、ほんのり紅潮していた。
「この公園だって、なぜ分かったの」
「実はおまえが寝ている隙にGPSを埋め込んである」
「……その冗談、イヤです」
「笑えなかったか?」
「ぜんぜん」
こういう人間が云うと洒落にならない。
「ギルベルトさんは?」
「犬たちと先に帰らせた。今頃は飲んだくれているかもな」
「……そうですね」
「質問はおしまいか」
「あとひとつだけ、」
「どうぞ」
「わたしのこと嫌いになったでしょう?」
「――は?」