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 時間にすれば数十秒ほど、俺となまえは身じろぎもせず、そこへ立っていた。俺が喋っていた最中には、彼女がずっとこちらを見ていたが、今はお互いに視線を前へ向けている。まばらに停められている色褪せた車と、ときどき横切る通行人以外、これといって観察する対象もない。

「アーサーって、ほんとにさ」

なまえが体を動かしたので、フェンスが小さく音を立てた。

「頭にくるよね。むしろ清らかなのは、あなたの方だ」
「……どういう意味だ、それ?」

横顔を見下ろすと、視線は正面のまま、言葉とは裏腹にうっすら笑んでいる。今思えば、これがなまえがむかついているときの顔なのだ。
 そのまま例のマリア様の顔で、困惑しきった俺をちらりと見上げて云った。

「抹香臭さに逆上したりしないでよ。私だってこんなのは、過剰だと分かってるんだから――あのね。さっきの図書館は、州じゃかなりの蔵書数なの。だから私は、あなたの本もあるかと思って…」
「おい。冗談だろ? 」
「探した」
「あるわけない、一冊だって」
「まあ、残念ながらそうね、なかったよ。でも外へ出たら作家本人がいたわけ」

確かに、先に気がついたのはなまえだ。弟の小言を聞きながら、ふと歩道へ目を落としたあのとき、硬直した一対の眼がこちらを射抜いていた。俺が「車を停めろ」とわめいたのは、そのあとだった。

「見間違いか、じゃなきゃすごい偶然。そこにいるはずがないものね。それで私は、あ、とうとう頭がおかしくなったって思った。アーサーが名前を呼んで降りてきても、手の込んだ幻覚だって。子供のころ、空想上の友達っていなかった? ああいうのを作りだすのが得意だったから」

なまえは今度こそ声をだして笑い、肩をすくめた。それがなまえなりの冗談だとは分かっていたが、俺はとっさに彼女の腕を掴んだ。確かめさせるように。おいおい。知らないだろうが俺の周りじゃ、おまえこそ幻覚だの奇跡だのって扱いだったんだぜ。

「しかし、それで、何で俺が清らかだってことに繋がるんだよ」

彼女はゆっくり俺の腕をふりほどくと「このばかたれ」と云った。

「アーサー。それを今、私の口から云わせたいなら殴るわよ」
「はあ?」
「詩なんか書いて、妖精だとか信じてるくせ、理解力がないんだからなあ……」

なまえは俺の肩へ自分の腕を回し、ぎゅっと強く、力をこめて抱き寄せてきた。彼女の方が背が低いので、自然と腰をかがめる体勢になる。そのはずだった。
 まさか、と俺は云った。動揺と共にこぼれ落ちた声で。
 思いがけず、俺はほんとうに心の底から驚いて、彼女を見たまま動けなかった。胸の中に温かい気持ちがどっと湧きだし、そのほかにもっと複雑な、今にも泣いてしまいそうな感情が、堰を切ったように流れ込んできた。実は地面が薄っぺらいガラスでできていることを、俺は悟ったのだ。ひび割れの隙間から真っ黒い空間が覗いている、しかしあちらが地上であることは、火を見るよりも明らかだ。

「私も純粋に、アーサーのこと好きだよ」

なまえは俺の肩に頭を乗せ、「友達だものね」と呟いた。恐らく。なぜ"恐らく"かというと、駐車場に乗り入れてきた車がドアを閉める音と、それとが、ちょうど重なったせいだ。聞こえなかったのだ。

「あなたって、魔法にかけられたお姫様みたい。心は清いくせに、やたらキスが巧くて腹立つけど。見つかって嬉しいから、もうちょっとだけ解かないでくれる?」
「……おまえこそ、勝手に消えんじゃねえよ。このばか……」
「あらら。なんで泣いてるの」
「寂しいからだよ!」

車から降りたのは、ぬいぐるみのような犬を連れたご婦人だった。彼女は横切りがてら、さも不思議そうな顔をして、こちらを見ていた。



 

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