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good to go


 望んだものをもらえたことがない、となまえは云う。クリスマスにも、誕生日にも、手にしたプレゼントは彼女の希望とはおよそかけ離れた品々だった。5歳の誕生日は万年筆ではなく、ママがおもちゃのレコードプレイヤーを。7歳のクリスマスには仔猫のかわりに、大きなリボンのついたキャプリーヌの帽子。エリザベス女王がかぶるようなやつだ。10歳を迎えた朝には、バレエシューズのかわりに、二人目のパパが『罪と罰』の豪華装丁版を渡してくれた。読了したのはそれから5年後だったけれど、その夏の間だけ、なまえはフョードル・ドストエフスキーの大ファンだった。
 しかし真夏に照りつける光線のような熱は間もなく冷めた。彼の本は持ち運ぶには重く、また、長すぎたのだ。

 「とは云っても、ぜんぶ大事にとってあるんじゃない」

衣装箱を探ると、遠い日に、ぼくやぼくの兄弟たちが作ったカードのすぐ下から、朽ちた花が顔をのぞかせる。あのころはまだみんなで一緒に、彼女への贈り物を用意したりしていたっけ。パラフィン紙に包まれたブーケを、触れたら砕けるだろうか、と考えていたら、なまえは躊躇なく手を伸ばしてそれを割った。紫陽花が箱の底でばらばらになる。乾燥剤の匂いが昇った。

「そりゃ嬉しかったもの。だけど、一番欲しいものではなかったんだな」

なまえはジーンズをたたいて花びらを払うと、今度はレコードを帽子箱へ順序よく収めはじめる。子供の演劇用の歌集や、流行りだったポップ・ミュージック、そんなレコードの山には、ぼくがなまえにあげたものもあった。よく床に寝転んで、家族から”暴力的でとんちき騒ぎみたい”と評された音楽を、何時間も何時間も、大音量で聴いたものだった。あのときだけは奇跡的に兄たちの意見が一致していたのを覚えている。あんな珍妙なものはこの先の生涯、もう二度と見られないだろう。

「好きなの持って行っていいわよ。餞別ってことでさ」
「ヤードセールでも開けばいいのに」
「週末に手伝ってくれるお人好しの暇人なんて、ティノくらいだよ」

拗ねたようなその口調は、無意識にしろ他意があったにしろ、ぼくを静かに攻めているようだった。乱雑につみあがったものの中心で座りこむなまえの、眉をぎゅっと寄せた横顔は、癇癪を起こす一歩手前の、小さなころの彼女そのものだ。ぼくや兄たちの後ろをヒヨコみたいについてまわって、表情だけはお姫さまみたいにツンと澄ましていた。今回のことに手放しで賛成してくれたのはなまえだけだったが、実際のところ胸中は、兄弟たちと同じものではあるのかもしれない。
 渇いた空気を吸いこまないよう、慎重に。

 「ぼくだって明日出ていくのに、荷物増やしてどうするの」

かぎりなく軽い調子を装ったぼくを、立ったまま、なまえは見下ろした。静かな表情ではあるものの、その目の中には困惑と怒りとが確かに宿っていて、注射針で刺されるような短い痛みを感じた。
 ぼくは唇だけで笑うのをやめた。

「じゃあさ」

と、決して長くはない静寂をやぶるように、なまえ。

「キスさせて。最後に」

命じるような口調で、古ぼけた箱をまたいだなまえは、ぼくのシャツの襟を思いきり掴んでかがみ込んだ。中途半端に腰を浮かせたまま、なまえの方へ引き寄せられる。深い色の瞳がぱちりと閉じられ、彼女の家のシャンプーの匂いと、洋服からかすかに香る石鹸の匂いを感じたころにはもう、彼女の小さな唇は離れていた。
 
「最後も何も、ぼく、初めてだったんだけど」
「知ってる。わたしもだもん」

彼女はそのまま床へ腰をおろした。なまえの長い髪の毛先が、汚れた地面につくのが視界のすみに入る。すくいあげてやりたいな、と思ったが、今何かをしようとしたら、間違いなくばかをやることは目に見えていた。こういうときにドジを踏むのは完璧なまでに”クナプス”だ。正面にあるなまえの唇は、表面が少し乾いて、さきほど砕かれた紫陽花の花びらに似ていた。あのブーケは、誰が彼女にあげたものだったろう?

「なまえは、べールヴァルド兄さんのことが好きなんだと思ってた」

ほうら、ね。いつもそうなの。なまえはわざとらしく明るい調子で云った。いつもとは何のことかを知りたかったが、なまえはそれ以上何も云わなかった。ただ彼女の弧を描いて結ばれていた唇が、少しだけ開きかけて、また閉じられたのを見た瞬間、急激に、照れくさいような愛おしいような感覚が背骨の上を這い上がり、波のようにうねりながらぼくを襲った。ぼくは耐えきれずに、膝の上に置かれた彼女の手を取った。これってもしかして”クナプス”かな、と思いながら。
 その拍子に舞った埃が、光に反射して、目の中に飛び込む。何度か強く瞬きをしてみたが、出ていこうとはしなかった。

「おいおい、泣かないでよ。家出少年」

なまえが笑って手を握り返す。何かが変わるにはいい頃合いだった。それだけのことだ。



 

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